二階堂大和がそうなのだ、と気がついたのは「対面」の読み方だった。
レッスン場に陸の苦しそうな咳が響いている。「この部屋は音をきれいに反響する壁にしたんだ」と、社長が嬉しそうに教えてくれたのを壮五は思い出す。先週のことだ。反響し、こだまする喘鳴。けれども、その響きはどこか陸の歌声に似ていた。陸の体から、外へ出たいと願っている風。
大和がマネージャーに近寄っていき、何事か相談し始めた。それから資料を受取って「ちょっと集合」と声をかける。
「ここのフォーメーション変えねえか? サビの前でソウがリクの対面に移動する。リクは後列で歌うことにしよう。それならリクがしんどくなってもフォローしやすいだろ」
大和の発言を聞いて、逢坂壮五は思わず周りを見回した。しかし全員が各々真剣な面持ちで資料に目を落としていた。異変に気がついたのは壮五だけだったらしい。
「ソウ、いける?」
「あ、はい。僕は大丈夫です」
「じゃあこれでいこうぜ。リクもいいな?」
環に背を擦られながら陸が渋々と言った面持ちで頷いた。文句は言えない。発作はやっと収まったところだ。
「よし、もう一回最初から始めようぜ。陸は無理するなよ!」
三月の号令で練習が再開しても、壮五の耳にはまだ陸の喘鳴をBGMに大和の言葉が響いていた。
対面を「トイメン」と読むのは麻雀打ちだけだ。

大和が麻雀打ちであることに気がついたのはどうやら壮五だけだったが、麻雀打ちの臭いに気がついたのは壮五の方だけではなかった。
吉祥寺での仕事の帰り道だった。ライブ会場の候補に、という話を聞いて下見に訪れたのだ。控室がだいぶ埃っぽいのが決定打となり、今日の仕事は徒労に終わった。
迎えに行く、と言い張るマネージャーを宥めすかして、大和と壮五は電車で帰ることにした。いい大人が年下の女の子に一々送り迎えもあるまい、というのが大和の意見だった。壮五も同感だ。まだアイドルの自覚などない頃だった。アイドルは自分達で会場の下見なんてしない。
新宿で少しばかり立ち飲み屋に寄ってから、人混みの中、再び駅へと足を向ける。大手チェーンの雀荘を通りかかったとき、大和が言った。
「ソウも打てるんだっけ、麻雀」
「あ、はい」
「対面に反応してたもんなー」
とはいえ、壮五が麻雀を打てるようになったのもつい最近のことだった。ルールは知っていた。叔父が牌を並べているのを後ろから見ていたら、教えてくれたのだ。叔父が楽しそうに牌をかちゃかちゃといじるから、壮五にとって麻雀はどこか近寄りがたい、けれども憧れの大人の遊びだった。壮五は雀荘には入れなかったし、壮五の周りで麻雀を打つ人間は四人も集まらないどころか、高校の友人一人しかみつからなかった。共に卓を囲うことも叶わず、叔父は遠くへ行ってしまった。
自分もその背を追うように家から逃げて、友人の家を頼って歩いていた頃。麻雀を打つ例の友人に連絡を取ると、働き先として前にバイトをしていた雀荘を紹介してくれた。壮五が宿無しと知ると店長は驚いて、閉店後は店の中で寝ていてるのを許してくれた。これには大いに助けられた。
雀荘に来る人間は壮五の今まで知っている人々と違った。皺のないイタリア製のスーツを着ているというのに、明らかに仕事をサボって来ているサラリーマン。抜けた歯の隙間でタバコを加える老人。なんの仕事をしているのかわからない毎日アロハシャツの中年男性。たまに壮五はその中に叔父を描き加えてみた。その中の叔父はいつも笑顔で、壮五は少し慰められた。実際の叔父は、死ぬ数年前から目の下の隈が一度も消えなかったから。
雀荘を紹介してくれた友人は、面子として大学の同級生や先輩後輩を連れてきてよくセットを打った。壮五もその一席に加えてもらえて、初めての麻雀を打つことになった。壮五の通っていた大学には麻雀を打つ学生は一人も見当たらなかったのだが、なぜか大学を退学してから大学生らしいことをすることになった。
麻雀は不思議なゲームだった。勝敗のほとんどを運に頼る中で、僅かな技術を磨いて鎬を削る。最初の手持ちである十三枚の牌が悪ければ、もうそのゲームはほとんどあがることはできない。それでもブラフをかけてみたり、自分と着順を競う相手に不利になるよう、別の人間をサポートしてみたり、と友人達は頭を捻る。その皆無なしく、素人の壮五が大勝ちしてしまうようなこともよくあった。
もう一つ壮五が不思議だと思ったのは、いまだにアナログな機構に頼っている部分が多く、それがルールを難解にしているところだ。例えば、ゲーム中は点棒と呼ばれる棒を使って点数のやり取りをするのだが、千点の棒は一人につき五本しか配られない。すると、これが足りなくなってゲームの途中に両替が頻発する。卓に計算機でもつけて叩けば済む話なのに、麻雀打ちは今日も卓の中でくるくると千点棒をやり取りしている。
人間も、ゲーム性も、文化も、全てが壮五の知っている世界の仕組みとは随分違った。大学生ならよくあることだが、壮五は初めてやる麻雀に面食らって、そして少しばかりのめり込んだ。小鳥遊社長が寮を用意してくれるまでの僅かな時間だったが、雀荘で寝泊まりした日々は壮五の人生の中では異色の時間だった。壮五は趣味というものが初めてできたような気がしていた。壮五の中で、音楽は趣味と呼べるような軽々しいものではもうなくなってしまったから。音楽を失ったらもう生きていけない。人は趣味が高じて家なき子になったりしない。
「寮に来る前、一ヶ月くらい雀荘に泊まらせてもらってたんです。仕事はウェイターでしたけど」
「卓掃とかできんの」
「一応できますよ」
はは、と大和が笑う。少しばかり酔っている。
「よし、打ち行こうぜ。お兄さんがソウの腕前を確かめてやる」
「僕、そんなに強くないですけど……」
「いいのいいの」
もしここに三月がいれば行き先は二軒目の居酒屋になっただろう。ルールのわからない人間にとって麻雀ほど眺めていて退屈なものはない。スポーツや芝居とは違うのだ。陸なら大和を質問攻めにしながら楽しんだかもしれないが、もしここに陸がいれば到底雀荘など行けない。雀荘のタバコの煙というのは妙に店の中に滞留する。
「ソウ、サシウマ握ろうぜ」
四人で競う通常の着順に加えて、特定の二人で着順で競うルールをサシウマという。一般には着順を競うというのは、なんらかの供する物があって行われる行為である。
「サシウマって……」
壮五が口淀むと、大和が背中を叩いた。だいぶ酔っている。
「アイドルが賭け事するわけないだろ。明日の晩飯おごってよ、同じ現場だろ」
常習性のない食事は一時の娯楽にあたり、供した場合も刑法上賭博罪には当たらない。この知識は叔父からではなく、大学の勉強の中で覚えた。まさかこんな場所で役に立つとは思わなかったが。
雑居ビルの階段を登り、ドアを開ける。店の奥から「らっしゃーせぇ」という気の抜けた挨拶がいくつか届いてきて、すぐにガラガラという自動配牌卓の音にかき消された。牌が羅紗にぶつかる音。リーチ発声。点棒が投げられる音。懐かしさを覚えるような権利は壮五にはないのかもしれないが。暖簾をくぐって店員が小走りでやってくる。
「二人。フリーで同卓。三半荘で」
「二名様、すぐご案内できまぁす」
案内された卓は、スカジャンの中年男性と背広を席にかけたサラリーマンが座って待っていた。大和と壮五は対面同士に座らされる。理牌をしながら大和の口元は既に緩んでいた。相当好きなようだ。壮五の配牌は断么九模様。素直に端牌から切り出していく。なかなかテンパイが入らず副露も考え出した頃、特に考えずツモ切った九萬で大和が手牌を倒した。
「ロン。ゴーニー」
断么九赤赤。愚形ならリーチをかけない人も多いだろう。しかし局を進めていくごとに、ヤミテンを多用するのは大和の雀風なのだと気がついた。赤ドラが絡む手はしっかり役を作って、目立たずバッサリ。ない手は平和か七対子に構えてこれもヤミであがる。大和らしいさんらしいな、と壮五は思う。二階堂大和には自分というものがある。本人は否定するだろうが。壮五には、まだないかもしれない。雀風も、自分も。
それでも終盤に萬子ばかりの配牌が入って、さすがにこれは誰だって清一色に向かうだろう、と序盤から鳴き始めた。二つ鳴いて、残った萬子は四五六七八八八の形。明らかな多門張だ。本で勉強した気がする。しかし肝心の受け入れが思い出せない。
「ソウ、テンパってる?」
「テンパってません」
多分自分でなんとかできる。三六九が受かるのはわかる。でも、もっと多かったはず……。壮五が手牌を睨んだままでいると、大和が吹き出した。
「張ってないの」
そこで壮五はやっと顔をあげた。麻雀においてテンパる、張っているというのは、あと一枚であがりが確定する状態を指す。もちろん壮五の手牌はテンパっている。
「あ、いえ、すみません。張ってます」
「マジで答えなくていいよ」
それはそうだ。嘘をつくのは悪いと思ってつい正直に答えてしまったが、手牌のことを喋るのはフリーの麻雀においてはルール違反とされている。
「ソウ面白いなー、ホント」
大変失礼しました、と同卓者に頭を下げる壮五を横目に大和が言う。しかし、壮五のことをそう評する人間は、生まれてこの方、大和が初めてだ。
満貫テンパイ確定の仕掛けに全員が降りて、壮五の清一色は流れてしまった。開かれた手を見て、それは三六九四七待ちの五面張だと大和が教えてくれた。「ツモれんかねぇ」と大和が言うので、「すみません」と謝ったらまた大和が笑った。

その後の壮五にはなかなか手が入らなかったものの、トップをひた走るサラリーマンからの攻撃を避け、最終戦のオーラスには二着目に立っていた。とはいえ三着の大和とは満貫ツモでまくられる点差だ。最後まで油断はできない。
「ソウ、固すぎだろー。もっと攻めろよ」
「攻めたかったんですけど、手牌が……」
そう言いながら開いた配牌はまずまずであった。大和に対して無防備になるのは心許ないが、この手牌なら先制の両面リーチは打てそうだ。九巡目に二萬三萬、五萬六萬の部分に四萬を引いてきた。二度受けを解消し三面張テンパイに変化させる、麻雀の中でも特級とされているツモだ。環くんが皆に歓迎されてる、と四萬の表面を親指で撫でながら壮五は考える。一四七萬待ちは絶好。役はつかなかったがここは勝負だ。安全牌として抱えていた北を曲げる。
「リーチです」
「ロン、ロクヨン」
「えっ」
対面の大和がリーチを咎めた。開かれた手は今日何度も見た七対子。赤い五筒と五索が手牌の中で誇らしげに輝いている。だが北はトップ目から二順前に出たばかりだ。
「ツモ直なら二着浮上。見逃すだろ?」
「はい……」
サシウマをしていたとしても、卓上の残りの二人には無関係だ。特定の相手を私情だけで狙ったり、見逃しをすることは許されない。着順をひっくり返すための手順だけが認められている。大和の手はまさにそれだ。だが壮五にも北を三枚切れの中と交換するチャンスはあった。壮五のミスが生んだあがりだ。
「鰻が食いたいなー」
きちんと悔しいものだ。点棒を払いながら壮五は妙な気分だった。もちろん麻雀の常として負ければ誰しも悔しいものだ。壮五とて、自棄になりこそしないが負ければきちんと悔しかった。そう思えなければ趣味にもならない。けれども自分は大和にそんな感情は抱かないと思っていたのだ。抱く感情の種類が違う。どんなにメッセージのやり取りを繰り返しても憧れのアーティストは友人にならないように。どんなに親しくても兄弟に恋をすることはないように。逢坂壮五は二階堂大和と張り合うようなことはないと思っていた。
「また打とうぜ、そのうち」
そう言われて、壮五は頷いた。

    *    *    *

次に卓を囲んだのは、一年ほど後だった。もっというと、IDOLiSH7のメンバーが大和と三月と一織がいる家に居心地の悪さを覚えなくなってから、すなわちようやく日常に戻ってきてからだった。
壮五は夕方からオフだった。夕方からオフ、という表現は少しおかしい気もするけれど、珍しく夜の仕事が入っていなかった。とはいえ、帰ってきた寮には誰もいない。レコードショップで発掘したばかりのCDをコンポにセットして、壮五は気合を入れて台所の掃除を始めた。スマートフォンで流すと通知が来た時に曲が途切れるのが頂けない。
それを察したかのように、一瞬、ハードロックにノイズが乗る。掃除の手をを止めてスマホを覗くと、一日オフをもらっていた大和からだった。
>今雀荘いるんだけど、来ねぇ? セットしてんだけど一人帰りそう
きっちり食器を拭き終わってから送られてきた住所に向かうと、学生街の真ん中に佇む雀荘だった。平日の夕方だが、大学生で随分賑わっている。奥の席から手を振られてやっと壮五は大和に気がついた。その場に溶け込みすぎている。考えてみれば、大和や壮五だって学生としてこの場にいても不思議ではない年齢なのだ。騒がれたりしないのだろうか、とあたりを見回したが、学生達は対面のアイドルより目の前の手牌に夢中のようだった。こんな生活をしているとたまに忘れてしまいそうになるけれど、アイドルになんの興味関心もなく生きている人々はたくさんいる。自分が縁を切った家庭のように。大和と卓を囲んでいた二人も、特に気構えることもなく近隣の大学の院生だと自己紹介をしてくれた。一人は女性で、髪から甘い電子煙草の臭いがした。
「ソウ、麻雀久しぶりか?」
「えぇ、まぁ……。大和さんは?」
大和に手酷くやられた翌日、壮五はこっそり麻雀のアプリをインストールした。とはいえ、たまに二、三ゲームを打つ程度なのだが。一応環をしかる手前、フォルダに入れて隠してある。大和にまで隠すことはなかったと、答えてから思った。
「ソウと去年打ったじゃん。あれからまた打ちたくなってしまってなー。最近ここでちょいちょい打ってたわ」
だから高田馬場なのだ、と壮五は得心した。新宿や池袋ではいつ芸能関係者とうっかり鉢合わせてもおかしくない。あれは案外狭い町だ。
誘ってくださいよ、とは言えなかった。言っても無駄だ。飲みにも連れて行ってもらえなかったのに。
大和が家にいなかった時間はもう陸や環には「大和さんの家出」と呼ばれていて、からかう対象になっている。「ヤマさんが家出してっから夕飯赤い料理ばっかだったわー」と大声で環が言って、大和が苦笑してプリンを買ってやる。大和の代わりに壮五がダメージを受けている気もするが。陸と環はそうしてこの事件で受けた傷を癒そうとしているように見えたし、その権利があるような気がした。全ての事の発端は大和の父親かもしれない。けれども大和が出ていってしまって、三月と一織がいなくなって、陸と環の大切な家は大きくぐらついた。二人がとてつもなく不安になったのも、誰かが受け止めるべき事実なのだ。
一方の壮五は大和の「家出」に何も言えなかった。陸と環にからかわれることで大和自身もゆっくりと日常に戻ろうとしているというのに、壮五の中では何故かこの事件はまだデリケートなものとしてそこに残っていた。多分、自分にも近い内にこんな日が来るからだ。だから今日ここに来て、大和の逃げ場があったことを知れてよかったような気がしている。千の家だって大和にとっては居心地のいい場所とは到底言えなかっただろうから。
麻雀は弱い人間に寄り添っていてくれるゲームだ。雀荘にいた時間などほんの僅かしかない壮五にもわかる。ここに来る人間は多様だ。学問を本業とする人間もいれば、仕事を休んでいる人間もいる。人生の労働の大部分を終えて眠りにつこうとしている人もいる。その全員が卓の周りに集まって牌を握る。その中に加わっている時の感覚は、安堵というのも違う。とにかく自分は、これからしばらくは目の前の手牌のことを考えているのだ。その時は弱い自分について考えなくていい。壮五がそう理解できたのは、やっぱり音楽があったからだ。好きな音楽を聞いている時は自分を誇らしい人間だと思える。同じように、きっと人は麻雀を打っているとき、自分は何者でもないと思えるのだ。叔父だってそうだったかもしれない。
大和が今日、その秘密の場所を自分に明かしてくれた理由もなんとなくわかっていた。きっと二人でラーメンを食べに行った環がいて、秋葉原に付き合ってもらったナギもいる。壮五の知る二階堂大和とはそういう人間だ。
「始める?」
壮五は頷いて賽を振った。聞き馴染んだ音がして、卓の奥から牌がせり上がってくる。これから二時間だけ、アイドルではない時間が始まる。

壮五の配牌はドラ3赤で、形は悪いが打点だけはあった。なんとか役牌を重ねたいが、第一ツモはオタ風の北。前に大和に打ち込んだ北を思い出して早々にツモ切り。大和は覚えてもいないだろうが。
「ポン」
早々に大和が一鳴き。自風だ。打白。流されてしまうかもしれない。さらに次巡に二索が放たれ、大和がまた鳴いた。打東。そこで壮五は内心首をひねった。早あがりの仕掛けと思い込んでいたが、まだ手牌がまとまっていなさそうに見える。壮五の手牌にはさらに赤が入ってきていて、打点があるとも考えにくい。それならまっすぐ向かおう、と考えたのも束の間、この鳴きで早々に親の女性にテンパイが入る。
「リーチですよぉ、二階堂さん」
「あちゃあ……」
大和の手牌からは一枚切れの發が出てきた。やはり遠い仕掛けだったようだ。端牌や筋を切りながらしばらく耐えていた大和だったが、悩んだ末に打った九筒でリーチに捕まった。
「3900は4200」
「はいはい」
点棒授受を眺めていた壮五の視線に気がついて大和が苦笑する。
「ダサいよな」
「いえ、そんなことは……」
確かに以前の大和ならば仕掛けなさそうな形だ。けれども壮五には、何かから解き放たれたような軽やかな鳴きに見えた。贔屓目だろうか。
一半荘打って壮五は三着。大和はラス。次で最後にする、と大和が宣言した。大学院生が「壮五さんがかわいそうでしょうが。わざわざ呼び出されて、もうラス半なんて」と茶化したが、壮五は特に気にしなかった。どのみち明日も早いし、かといって今日呼んでもらえなければ次に大和とオフが被るのがいつかもわからない。
最終戦は、トップの壮五と追いすがる大和でオーラスまでもつれることになった。オカが大きなルールなので、ここでトップを取ったほうがトータルでもトップだ。壮五は早々に中を叩いていく。大和の河は国士か対子手かといった模様だが、もちろんこんな重要な局面で国士など狙うわけがない。
「大和さん、七対子張ってます?」
いつかの大和を真似て、壮五は尋ねてみた。
「なんでよ、まだわかんないじゃん」
そう言いながら、大和はおもむろに八萬を曲げてリーチと出た。壮五も待ちは嵌張だが既にテンパイだ。めくり合いになる。
「ツモ」
終盤で倒された大和の手は予想通りの七対子だったが、理牌がおかしい。萬子、筒子、索子が分断されて、数字が一から七まで全て揃って若い順に並んでいる。端の七索があがり牌の一筒を歓迎していた。
「アイドリッシュセブン」
同卓者の二人は爆笑していたが、壮五は黙って大和の河を見つめていた。河には北、發と単騎には絶好の牌が並んでいる。それでも大和は対子の最後の一枚を一筒に定めたのだ。それはまだいい。北と發は誰かの頭でもおかしくないが、一筒は全員から出そうな絶好の待ちに見える。問題は宣言牌の八萬だ。こちらも相当場況のいい牌だが、一筒よりも決定的な利点がある。八萬ならば断么九がついて、出あがりできる点数だったはずだ。それをわざわざ一筒に変えて、大和はリーチに打って出たのだ。
大和がどう考えたかはわからない。顔を上げて大和を見ると、大和はいつも通りにやりと笑った。
「今日はお兄さんが焼き肉を奢ってあげよう」
焼き肉を奢ってほしかったのは今日ではなかったのだけれど。「これでみんなの出前でも取れよ」。そう言って押し付けられた一万円札の一枚が皺くちゃだったことを妙に覚えている。困っていた。皆が寂しがっていて、一番の年上だというのに壮五にはどうすることもできないから困っていた。一万円札三枚なんかでは解決できなかった。けれどもあの時、どうして自分の気持ちを伝えられなかったのだろう、とたまに壮五は思い返す。陸や環やナギの事情ではなくて、自分の話を。伝えてもなにか結果が変わったわけではない、とその度に自分を納得させる。逢坂壮五の傷は壮五自身にも受け止められることのないまま、ずっとそこにあるのかもしれなかった。

    *    *    *

最後に麻雀を打ったのは、つい最近のこと。
大和と壮五が二人で仕事をする機会など近頃はほとんどなかったが、麻雀好きアイドルという枠でバラエティに呼ばれたのだ。近年の麻雀の盛り上がりを受けてか、二時間枠の大型番組。麻雀プロとして働く俳優やモデルまで特別ゲストに呼ぶ気合いの入れようだ。収録は半日がかりでようやく終わり、楽屋に帰ってきてから昼食として支給された弁当にやっと口をつけた。
「萩原さんと岡田さんとご一緒させてもらえるなんて思いませんでしたね」
「なー。萩原さんと一緒に芝居したことあるんだけど、迫力すごかったわ。あの雰囲気で麻雀打ってたらそら体力使うよ」
「僕、いてよかったんでしょうか。お二人共、今日初めてお会いしましたし、そもそもそんなに打たないのに」
壮五は内心、岡田プロがMEZZO”のファンだったので呼ばれたのだろうと思っていた。
「意外だって言われてたもんな」
「大和さんは似合うって」
「俺はソウが打つの結構しっくりくると思ってるけど」
多分、壮五と大和は全然似ていない。かつて大和自身が「ソウと俺はちょっと似てるよ」と言ってくれたことがあって、それは秘密の符丁みたいで嬉しかったけれども、対外的には理解できない台詞だろう。例えば壮五が楽のようになりたい、と言えば誰しもが納得してくれるだろう。逢坂壮五は自己主張が得意ではないから八乙女楽のように意志のある人物に憧れるんだね、と。けれども逢坂壮五は最後まで二階堂大和に憧れていた。
家族のことでウジウジと悩むのがもう嫌で、大和のように身軽になりたくて、それで「キズナ」を書いた。けれども、曲が完成したことで壮五の感情になんらかの区切りがついたかといえばそんなことはない。音楽を作るというのは、そういうことではないのだと、壮五ももうわかっている。多分、壮五は聞き手だった時間の方がずっと長かったから誤解をしていた。自分がこんなにも心揺さぶられるこの曲は、きっと完璧なものとして世界に生まれ落ちてきたのだ、と。実際のところはそうじゃない。同じように音楽を作る千を見ていても思う。作曲家はボロボロになって、それでも満足がいかなくて、けれども結局は商業的な締切に追いやられて、千切れるように作品を送り出す。でも、この曲が最後じゃない。そう思うからなんとかやっていける。せめて誰かのもとに届いたときには少しでも善いものであれ、と祈る。
大和のように、外から隕石のように劇的なイベントが落ちてきて、けじめがつけられることの方が稀なのだろう。そんな災害のような速さは大和も周りの人間も不幸にしたかもしれないけれど。
壮五は大和になりたかった。でも、なれなかった。
「なんか麻雀の話聞いてたら久々に打ちたくなってきた。これから打たね?」
「お店、まだ開いてます?」
壮五が時計を見ると九時を回っている。飲みに行くにしても遅い時間だ。
「一半荘だけ」
「あまり連荘しないでくださいね」
「いや、もうめちゃくちゃ続ける。ケイテンも取る。ソウが止めなさい」
大和が笑った。面白かっただろうか。冗談のつもりではなかったのだが。
「誰呼びます?」
一半荘とはいえ、以前のように突然フリーへ二人で、などということはできない。アイドルなのだから、自覚をもって。
「スタッフさんから誘おうぜ。打ちたい人いるんじゃねぇかな」
楽屋を出て声をかけると、すぐに音響とディレクターが手を挙げた。二人ともIDOLiSH7とは随分長く仕事を続けている仲で、ディレクターと大和とは個人的な付き合いもあったはずだ。早速最寄りの雀荘を予約したと言うので、四人揃ってスタジオを出る。
「ŹOOĻは全員打てるらしいぜ。この前、四人で打ったって聞いた」
「それ僕も聞きました。覚えたての亥清くんが勝ったって」
「いいよなー。ウチのメンバー、七人もいるのにソウ以外打てねぇんだもん。イチに教えたら覚えると思う?」
「受験に支障が出ますよ」
「だよなぁ。麻雀始めると一番ヤバい時季」
麻雀は運と確率のゲームだ。状況を観察する力や決断力も必要とされる。壮五も最近知ったことだが、麻雀のそういう側面を愛する企業の経営者の中も多いらしい。一織なら案外ハマってもおかしくなさそうだ。仮に一織が覚えたいと言ってもまだあと一人足りないが、万理がやってみたいと言っていたので一織が覚えるなら付き合うかもしれない。これなら卓が立つ。けれども壮五はなんとなく口を閉ざしてしまった。麻雀を打つ人間は七人の中に二人もいれば十分ではないだろうか。
センター街を抜けると人の濃度が一段下がる。「ここっすよ。有名な所なんです」と、音響が指さしたビルは、螺旋階段からして真赤に塗装されていた。二階に登ると、ガラス張りの扉からネオングリーンの照明が漏れている。金属メッシュや革張りの椅子をあしらった内装は、いかにもドラマに出てくる秘密クラブといった佇まい。しかし店の奥にはきちんと最新式の自動配牌卓が並んでいた。一台百万を超えるとさっきの収録で教わったばかりだ。すぐに案内された個室も広々としていて、小さな冷蔵庫が備え付けだった。覗くと大手のエナジードリンクと一緒にChameleon Chillが並んでいる。
「大和さん、どうぞ」
「おぉ、ここにも置いてんの。麻雀打ってストレス軽減……するか?」
ディレクターが「僕にも一つちょうだい」と、言いながら口を挟む。
「自分のお気に入りの場所で、自分だけの時間を過ごす、ってイメージなんじゃないの? この雀荘は若いお客さん多いから」
「俺が始めた頃はどっちかつーとおっさん達とのコミュニケーションツールって感じだったけど。麻雀のイメージもだいぶ変わったよなぁ」
Chameleon Chillをちびちび飲みながら大和がぼやく。
「そりゃそうだよ。岡田さん見たろ?」
「確かに。超可愛かったわ。あんな女の子も麻雀打つのね」
「めっちゃ頑張りやさんなんすよ。俺、おかぴーのいるチーム応援してて」
喋りながら掴み取りが行われて、壮五は起家についた。赤入りの五、十五。二万五千点持ちの三万点返し。最近流行りのMリーグルールだ。
「麻雀久しぶりだな……ちゃんと打てるかな」
上がってきた牌を外枠に打ち付けて一列に揃える。左右の端で配牌を挟んで僅かに力を入れ、十三枚の牌を起こす。リアルで打ったのはもう一年以上前なのに、手つきは覚えているものだ。配牌はドラと赤があって形も悪くはない。まっすぐ進めることにする。他の二人も同様の切り出しだ。大和は相変わらず手役を作っているようで第一打から八筒。
「ポン」
大和が白をポン。ドラが出てくる。これは前にも見た遠い仕掛けかもしれない。その後、大和からは手出しがいくつか入ったが、壮五の手も少しずつ育ってきた。引いてきた牌は九筒。生牌だが、第一打の八筒を見れば間違いなく通る。ツモ切り。しかしその九筒に声がかかる。
「ロン、8000」
「えっ……」
白、トイトイ、赤。最初から高打点だけに的を絞った仕掛けだったのだ。完全に読み違えた。副露手へのケアは実力が出る。高い手があるパターンには押さないことが肝心なのだ。下手になった、と思う。当たり前だ。作曲を始めてからはなかなか時間が取れず、アプリはフォルダの中で埃を被っていた。
「そういえば大和君、千葉さんとは打たないの? あの人も麻雀相当好きじゃない」
うなだれる壮五を他所に、次局の配牌を開けながらプロデューサーが尋ねる。
「勘弁してくださいよ。何が楽しくて親と麻雀打たなきゃいけないんですか」
プロデューサーは「寂しいねぇ」と呟いた。つい先日、愛娘が関西へ進学したのを思い出したのだろう。「俺はアンタの娘さんじゃありませんから」と大和が突っ込んだ。
「逢坂さんは誰に麻雀教わったんすか?」
音響が壮五に聞く。かつて雀荘で働いていた、というのは一応番組の中では黙っていたのだ。
「叔父が教えてくれたんです。ルールだけですけど」
「ルールだけ?」
「はい、四人揃わなかったので。一緒に打ったことはないんです」
二人とも壮五の叔父のことは知っていたので、沈黙が降りた。雀荘で寝泊まりしていたと言ったほうが盛り上がったかもしれない、と壮五は生真面目に反省する。困ったプロデューサーは大和に話を振った。
「ほら、大和君も後悔しないうちに親孝行したほうがいいって」
「いや、あの人そうそう死にませんよ。この前も徹麻したって。信じられます? 引退して時間あるからって」
大和はいつか父親と麻雀を打つこともあるかもしれない。壮五はそう感じた。麻雀はコミュニケーションツールだと言った大和だから。

南三局一本場。ドラは三筒。トップ目の大和が親番で連荘。ラス目の壮五は椅子に浅く座り直した。壮五にはもう親がない。上下の点差はそれほどないとはいえ、これ以上大和が本場を積んでしまうとトップは厳しくなる。
とりあえずは満貫がほしい。跳満をツモれば次局でトップまで望める。ドラと赤五筒がある配牌だったが、索子もきれいに伸びている。しかし親の大和から早々に攻撃が入る。
「リーチ」
二枚切れの西が横に曲げられた。さすがにトップ目のリーチだ。待ちはよさそうに見える。ツモられてしまえばほとんど大和がトップでこの半荘は終了だ。壮五が連荘を止めるしかない。
程なく壮五もテンパイした。一気通貫ドラ赤。待ちは一気通貫のちょうど真ん中。嵌張の五索。到底優秀な待ちとは言えない。しかし救いどころもある。五索は大和の現物なのだ。現物待ちの役あり満貫。当然のダマテンだ。脇から出るのを狙って、まずは確実に一着順上げるべきだ。しかし、リーチをかけてツモればちょうど跳満になる。これなら次の局でトップも狙えるかもしれない。
壮五は悩んだ。けれども結局、追いかけてやれ、という気持ちになった。壮五は大和のように上手くは打てないのだから。時には剥き身の包丁を持って。
「リーチです」
大和から一発で出た牌は果たして赤い五索であった。裏ドラにも四索が佇んでいる。トップ目からの倍満直撃。大捲りだ。自分の現物で追いかけてきたことを理解した大和が眉をあげた。
「ソウっぽいリーチ」
「どういうところが?」
「たまに恐れ知らず」
そんなことはないですけど、と言いかけて自分の手牌に目を落とした。確かに恐れ知らずのリーチだ。麻雀を知っていればそう言う他ない。
「また来ような」
ゲームの終わりを予感して、大和がそう言った。けれども壮五には、そんな日はもうしばらく来ない予感がしていた。壮五も大和も、きっと今一番仕事が楽しい。仕事終わりの時間でも、居酒屋のほうがずっと行きやすい。環や一織が成人すれば尚更だ。酒は飲まないと断言している環でも、美味しい食事の店ならば溜飲を下げてくれるだろう。これからメンバーと過ごす時間が一層大切になる中で、二人でこんな場所に訪れる必然性はまるでなかった。麻雀を打つメンバーが四人揃えば別だろうが、その可能性はさっき自ら絶ってしまった。
それでもいい。ずっと遠い未来で、思い出話でもしながらまた大和と卓を囲めるかもしれない。その頃に自分達はどうなっているだろう。アイドルではなくなっているかもしれない。何人かには家族がいるかもしれない。それでも人生で一度麻雀を初めた人間は麻雀を忘れない。それからずっと対面を「トイメン」と読む。そういうものだ。