クビにしてください、とチーム全員の前で土下座した。
「君一人の責任じゃないって言ってるよね。これで従業員の働き口までなくしてまで辞めさせて、ピイくんに叱られるよ」
リーダーがそう言っても、俺は頭を上げられなかった。どうして「風が強いから、今日は屋内ショーにしませんか」って言えなかったんだ言葉を思いつけなかったんだ。今年の花粉は酷すぎる、って通勤する時に思ったのに。人間には翼が付いていないから、それが何を意味するのか想像できなかった花粉から風まで想像力を広げられなかった。
他の子も待ってるから一度通常業務に戻ろう、とリーダーが皆に声をかけて、俺はのろのろとハリスホーク達に餌やりにいった。動揺が伝わらないように、屋外の檻にはビニールシートが被せられていた。それでも鳥達は何かが起きたことに気づいたんだろう。餌は決まった時間に来ないし、隣のピイも帰ってこない。ピリピリしていたカケルは俺が入ってきた途端、そんなに広くもない籠の中を逃げ回って、最後には俺に強かに噛みついた。此奴コイツが鳥類の敵だと知っているようだった。
リーダーが気を遣って早引けさせてくれたので、夕方には家に帰ってきた。ちょうど鳥もねぐらに帰る時間で、家の前ではヒヨドリの大騒ぎが聞こえた。アパートの住民には不評らしいが、越してきた時は家の傍にも鳥が住んでいるのが嬉しかった。でもその声も今は俺を責めているように聞こえる。
すぐに眠ってしまいたかったけれど、布団に入っても寝付けなかった。当たり前だ。いつもなら、寝るのは一時過ぎだし、仕事はもっと重労働だ。ちょっと屋外のショーを担当して、ちょっと救急を呼んで、ちょっと餌やりをしたくらいじゃ疲れたりなんかしない。泣き疲れて崩れるように眠るなんてできない。それなら何か作業をした方が楽になるかもしれないと思ってパソコンを開いた。園のメールボックスを見ると、常連の家族連れからピイの安否を気遣うメールが届いていた。息子さんがピイのファンで、今日も一番前の子供用の席でショーを見ていた。ピイが壁にぶつかった時、何故か甲高い悲鳴があがって俺は客席の方を振り返った。そうしたら、目が合った。あの子が今日のこと、忘れられなかったらどうしよう。
車の中に置き去りにされて、熱中症で死んでしまう子供のニュースをたまに見る。あれを見かける度に思うんだ。置き去りにしてしまった親はこれからどんな気持ちで一生を過ごすんだろうって。その時に死んだ子ではなくて親に思いを馳せてしまうのは、俺に子供がいないからなんだろうか。酷い目にあったピイのことだけ考えてやりたいのに、仕事がどうとか、子供の目がなんとか、思考は周囲を旋回している。ピイ。俺のことをパートナーだと思い込んでいて、俺が檻の前まで来ると止まり木の上を飛び跳ねて、どの子よりも先に構ってもらおうとしていたピイ。俺が飛んでくれと頼んで腕を上げたから、強い風の中を飛んだピイ。
仕事を辞めて都会に戻ろうと思った。それでもきっと、鳥は街まで追いかけてくる。


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天国に連れてって

2022-10-03
■[ジャンル:芸能]TRIGGER担降ります

最初に一個だけ言っておきたいのは、事務所との再契約したから担降りするとか、そういうんじゃないです。

一応簡単に自己紹介。DIAMOND FUSIONの初お披露目を見た時からのTRIGGERファンです。ファンクラブ会員番号二桁。夏ノ島音楽祭も行きました。箱推しです。

駅前の雨のライブ、見ました。ラビッターに上げてくれた有志の人、ありがとう。多分TRIGGER担でもなんでもないのに。
あれを見て、絶対これからもずっと、TRIGGERのこと応援しようって思った。天君、最後やっぱりちょっと泣いてましたよね。
でも、ちょっと悔しかったです。
私がこの場にいたかった。天君泣かないでって言いたかった。私達がついてるよって。

東京でのライブ、全部応募しました。地方住みです。でもどうしても、今のTRIGGERに会いたかった。
当たりませんでした。当たる訳ないですよね、あんなの。TRIGGERファンが全国に何百万人いると思ってんの。
TRIGGERが悪いわけじゃない。勿論そうです。わかってます。
もどかしかったんです。私の声がTRIGGERに届けられなかったこと。
なんかあの時期、舞台俳優さんのブログバズりましたよね。お茶の間から応援しないで生の俺達を見に来てってやつ。
いいなぁって思った、あの俳優さんのファンの人達。だって追いかけられるじゃないですか。私は追いかけられない。
それはもちろん、TRIGGERがアイドルデビューしてからもずっとそうでした。今日は昨日より、明日は今日より人気になって。私だってファンになってから全部のライブ行けたワケじゃないです。
でも今までのそういうのとは全然違う。もっと切実なやつ。私は今のTRIGGERに会いたかった。今じゃなきゃ駄目だった。

手紙で昔のライブの感想送りました。ラビッターにもコメントしたけど、いつも凄い数のレスついてて、私のコメントなんか読まれてないだろうなって思う。皆TRIGGERのこと心配してた。私だってしてました。本当に、毎日TRIGGERのことを考えてた。
それからFSCホールの公演。感想ラビッターで流れてきて。

>FSC最終日、本当泣いた……。TRIGGER……。
>こんなの絶対おかしいよ。TRIGGER担、皆でこれから頑張っていこう!

天君が
>FSCでのライブは無事千秋楽までの全公演が終了しました。ファンの皆さんが喜んでいる顔に、何より励まされました。
って。

なんかこれ見た時、あぁ、私、選ばれなかったんだ、って思っちゃった。
FSC、きっとすごくいいライブだったんだろうなって思います。他の感想ブログ読んでてもそう思った。TRIGGER、きっと私達の前に出れない間、ライブの練習すごく頑張ったんだろうな。そういうトコ、大好きです。
円盤出してほしかった。当日の演出で精一杯だっただろうし、絶対無理ですよね。わかってるんですけど。
これから先、TRIGGERは絶対に帰ってくるって信じてました。
でもTRIGGERにまた会えた時、「でも私、あの時選ばれなかったもんな」って、思っちゃうのが辛い。TRIGGERが一番辛い時、一緒にいられなかった。
私も、地獄に連れていってほしかったです。

接触したいとか認知されたいとかそういうんじゃ全然ないのに。支えたかっただけなのに。なんだか自分がどんどん醜くなっていく気がして、大好きだったTRIGGERを観るのがだんだん辛くなってきました。
それでも年末のカウントダウンライブは嬉しかったです。Rabitubeのアーカイブもう何度も見てます。当日も赤スパしたけど、凄い勢いで流されちゃった。

ゼロは、平日の公演を友達が当ててくれて、一回だけ観に行く予定でした。
TRIGGERにまた会えるのが本当に嬉しくて、二時間前には会場に着いた。それで、前の回を観た人とすれ違ったんです。
「炎上した時はもう駄目かと思ったけどねー。やっぱ来てよかったわ」
「ねー! でもそこから三人で復活したのが逆に尊くない!? また舞台あったら一緒行こうよ!」
皆そんなもんなんだね。
私これからはそんな人達と隣に並んで応援しなきゃいけないの? 耐えられません。
そのまま帰っちゃいました。

TRIGGER、今までありがとう。大好きでした。
ラビッターも垢消しします。
さよなら。

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猫のいる町に帰りたい

 どこに埋めようかと考えた時、あまり土が固くない場所がいいなと思った。中途半端に片付けて、そのうち雨風で削られて地表に晒されるようなことがあってはいけない。でも僕の体力には限りがあり、それは今更どうしようもない。だから土は柔らかい場所であってほしい。
家のすぐ隣には小さなお寺があって、場所柄はちょうどよかったけれど、掘れそうな地面があったか定かではないから却下した。五分や十分で掘れるものではないのだから、人が出入りする場所では好ましくない。時間もないし、遠くには行けない。交通機関を使う手もなくはないが、あまり遠くでは寂しがるだろう。そう考えると、場所の候補は絞られてくる。頭の中にこの町の風景を思い浮かべて、家から出発してあちこちを覗いていく。引っ越して来てからずっと空き家だった近所の家の庭。却下。小さな公園のトイレの裏。駄目だ。人通りの少ない方へと歩いていくと自然と駅とは逆の方向に歩くことになって、やがて町の外れまで行き着いた。そこは隣町との境界線に沿って広々とした川が流れていて、モモともここでよく発声練習をした。一度僕達が歌い始めると、同じ岸辺で寛ぐ人は勿論、隣町の河原に佇む人達までがこちらを振り返るのが悪くない気分だった。いつかそこにもう一度立つモモを想像したら、悪くないな、と思った。
窓際に改めて視線をやる。猫は外に出ることを望むように、窓枠に前足を掛けたまま、崩れ落ちるように死んでいた。生きている時は脱走なんてしようともしなかったのに。けれどもその気持ちもわかるような気がする。見た目だけではなくて、振る舞いにもどこか気品のある猫だったから、こんな姿はモモに見られたくなかっただろう。横たわる身体に手を差し入れて、下からそっと持ち上げる。猫の身体はまだほんの少しだけ温かくて、僕は不謹慎にも冷蔵庫に入れられるのを待つ鍋の温度を思い出した。粗熱が冷めつつある夕飯と同じように、今まさに猫の身体からは命の熱が抜けていっているように思えた。やがてその身体は、部屋に置かれた布団やギターや食器と同じように、空気の熱さをそのまま受け取る、物の温度になる。手に感じるその予感が、もうこの身体に意思はないのだと思わせた。よく見ると足が一本おかしな角度で曲がっていた。どうやら怪我をしているのに無理をしたらしい。直してやりたくてそっと指で摘んで曲げようとしてみたけれど、もう到底そんな行為が許される柔らかさではなかった。
とりあえず新聞紙で丁寧に包んでからビニール袋に詰めてみたけれど、まるでゴミのような扱いで嫌になってしまった。押入れの手前にキャリーバッグが置いてあるのは知っていたが、生きている間そこに入っていた姿を知っていたから、それを使うのはもっと嫌だった。結局ケーキ屋の名前が書かれている茶色の小さな紙袋をみつけて、それに入れてやることにした。ビニール袋と大差ないような気もしたけれど、ゴミよりはケーキの方がいいだろう。この前二人で商店街を歩いていたら、モモがケーキ屋のお姉さんから売れ残りを貰ったのだ。はしゃいだモモがその場でケーキを庇いながら覚えたてのダンスを披露したから、お姉さんは道端で爆笑した。ケーキを貰って踊るだけで人を笑わせるってすごいな。アイドルにでもなった方がいい。
家を出ると、真上からの直射日光とアスファルトの照り返しに挟まれて、動画の早回しのように袋の中の肉体が腐っていくような錯覚を覚えた。保冷剤を入れてくればよかった。僕は少しでも影になるようにと、紙袋を両手で抱えて前かがみに歩いた。すれ違う人からみたら、随分とケーキを大切に抱えている人だと思われたことだろう。
家から二十分ほど歩いて辿り着く河川敷はきれいに整備されていて、どちらの岸辺も夏休みを迎えた親子連れで賑わっていた。しかし、ここから上流方向に向かうとすぐに藪が生い茂り始めて、人影は疎らになる。練習を終えた後、モモとよくこちらの方面を散歩した。モモは川縁の草陰に隠れている小魚を捕るのが上手かった。上流の方からばしゃばしゃと藪ごと蹴飛ばして、驚いた魚が流れに沿って下流に逃げるのを網代わりのビニール袋で掬うのだ。僕はいつもそれを眺めて満足してから、食べられそうな雑草を物色した。
ちょうどモモが狩場に使っていた縁を見つけたのでそこから川縁に降りる。ここまで降りると、川沿いの道路にいる人の目から河川敷は死角になる。降りたすぐ傍に割れた四合瓶をみつけて、穴を掘るのにちょうどいいから拾っていく。行き当りばったりだ。
河川敷を少し歩くと、僕の背丈を少し越えるくらいの木が立っていたのでその根本を選んだ。なんとなくそういう場所のほうが、増水があっても流されにくいような気がしたのだ。思った通り、砂利を含んで湿った土は僕の貧弱な体力と装備でもなんとか掘り進めることができた。藪蚊が何度も耳元を旋回する。紙袋の周りに寄ってきた蝿は毎回追い払った。水辺ではあるものの、七月の日差しは容赦なく背中を焼くようだった。汗が服の中を伝っていく。
五十センチほど掘ったところで、川で大きめの魚が跳ねる音がして、僕は我に返った。紙袋ごと入れるつもりだったけれど、最後にもう一度姿を見ることが弔いになる気がして新聞紙を剥いだ。身体が腐り落ちているなどということは勿論なく、足が曲がっている以外は生前の姿と大差なかった。灰色の毛並みは随分きれいに整っていた。最初に家に来た時には糸の混じった綿埃のような有様だったのに。オリーブ色の目が開いたままだったので、閉じてやった。この目でいつも少し驚いたように僕達の音楽を見つめていた。穴の底にそっと置いて、土をかぶせる。土をしっかりと押さえつけなかったからだろうか、戻した土は猫より一回り大きいくらいの小山になった。僕は大きく息をついて、髪についていた泥を払った。重労働だったが、初めてこの猫のためになることをしてやれたような気がした。僕がモモに頼まれた餌やりを半日忘れて、それでようやっと小声で主張をするくらいの、控えめな猫だった。飼い主たるモモを悲しませるようなことは、きっと望まなかったに違いない。けれども猫の思いも僕の重労働もきっと徒労に終わるだろう。モモは疲れ果てるまでいなくなった猫を探すだろうから。
まだその時には早い気がして、土の山に手を合わせることはしなかった。帰り路を急き立てるように、すぐ傍で蝉が鳴いていた。

*    *    *

最寄りの駅に降りると一際強い風が吹いて、道路脇に溜まった桜の花びらを一気に舞い上げた。帰り道の人々から小さな歓声が上がる。幼い子供が桜の群れに突っ込んでいって、どよめきは微笑ましい笑い声に変わった。そういえば今年はまだ花見をしていない。去年は天気がいいからと外に連れ出されて、花見と称して一週間に何度も外で食事をしたのだが。今年は一応アイドルらしい仕事が入って、昼間二人が揃って家にいることもないままに桜の季節は終わろうとしていた。けれどもイベント好きのモモのことだ。その話を持ち出したら明日にでも決行しようと言い出すかもしれない。二人きりの予定なら賛同して弁当を作ってあげてもいい。
僕は二枚目のアルバムに入れる曲が全て揃って上機嫌な帰り道だった。駅前のスーパーはタイムセールの時間だったけれど、ここの肉は大して安くないので寄らずに帰る。早くアルバムのことをモモに報告したくて、僕は心持ち歩幅を広げて家路を急いだ。目論見の通りモモは先に帰っていたようで、外から見上げると家の明かりが点いていた。
「ただいま」
立て付けの悪いドアを開けると、玄関口に座り込んでいたモモがぱっと振り返ってばつの悪そうな顔をした。背後には引っ越しで使うはずのダンボールが一つ組み立てられていた。何も考えずに中を覗き込むと、タオルの上にはぼさぼさの毛玉が頭を抱え込んで丸くなっていた。短い銀色の毛並みや大きな耳を見るに、ペットショップに売られるようないい血統に思えたが、そこに泥やら血やらがへばりついていていて、余計捨て猫といった風情も出ていた。よく見ると肋も浮いていて、髭が揺れるのを見るまでは生きているかどうかも確信が持てなかった。
「それ、どうするの」
非難の気持ちはなく、純粋な疑問として尋ねたつもりだったが、モモは目を伏せた。
「ごめん、わかってる。貰ってくれる人を探すつもりだよ」
困らせたかったわけじゃない。勿論モモがそうするつもりなのはわかっていた。僕達の引っ越しは三ヶ月後に迫っていて、ペットの可否なんて条件の内に入れていなかった。仮に住居の条件を変えたところで、今の僕達に動物の命を預かれるような暇があるとは思えない。あってはいけないのだと、強く思っているのはむしろ僕よりモモの方な気がする。僕はてっきり、引っ越した後には荷解きのための休みが貰えると思っていたのだけれど、今の所はそういう話は一切出ていない。
猫から目を離して部屋の奥に目をやると、餌を入れるプラスチックの食器やらキャリーバッグやら、既に猫グッズが一式揃っていた。
「あの、それ、買ったわけじゃないから。商店街の反町さんに貰ったんだ。反町さん、猫いっぱい飼っているでしょ。貰ってくれる人がいないかって訊きにいったら、使ってないからって全部くれた。飼える人も探してくれるって。これから病院も連れてかなきゃいけないけど、野良猫だったら、最初はタダで診てくれるんだって」
僕が何も言わないうちからモモが腕を振り回して早口で弁明する。モモ自身、拾ってよかったものかまだ悩んでいるように見えた。きっとこの猫に出会うのがもう少し前だったら、僕達は人間二人分を生きるのが精一杯で、僕達以外の動物に目をやることなんかできなかっただろう。もう少し後だったら、僕達は綺麗に整えられた街に引っ越して、捨てられた動物に出会う機会などなかっただろう。引っ越すまでの三ヶ月間。貰ってくれる人をみつけて、それまでの間ここで飼うだけ。そう思ったからモモも捨てられた猫を抱き上げてしまったのかもしれない。猫は僕達の暮らしの隙間にちょうどするりと入ってきた。
「……しばらく家で飼ってもいい?」
「モモの好きにすればいいよ」
努めてフラットに聞こえるように僕は言った。
モモは動物が好きだ。モモ本人に訊く前から知っていた。町を歩く目線がつい犬や猫を追っているし、発声練習で公園に寄っても休憩中に鳥を見つけて「ユキ、あのハト、羽がふわふわしてる!」と教えてくれる。モモが大学に入った後、モモが主体的に世話をするなら家族で犬を飼ってもいいという話も出ていたらしい。「結局オレがアイドル追っかけて忙しくなったから、保留になっちゃった」と笑っていた。
多分そうした生活も僕が彼から奪ったのだろう。僕のところに来る前のモモの話を聞くと、血管の隅まで、血に代わって冷たい水が駆け巡るような、名伏しがたい気持ちになる。ただ申しわけなく思うのも違う。僕はあの時そうしないと生きていけなかった。僕は奪ったし、それを返してやることはもうできない。返すことができるなんておこがましいのだと思う。今だってきっと、僕がちょっとでも不快な顔を見せたらモモはすぐさまこの猫を拾った場所に戻しに行くんだろう。だからこそ、今はモモの好きにすればいいと思った。

*    *    *

丸まっていた時は気がつかなかったが、病院から帰ってきた猫は一本の後ろ足を少し引き摺るように歩いていた。
「生まれた時からこうだったんだって。でも、それ以外は健康って言われたよ」
「あまりそうは見えないけど」
足に障害があることを知ってますますモモは猫に肩入れしたらしいが、当の猫は部屋の隅に背をつけて、頭を前足の間に収めてまた丸くなってしまった。モモと反町さんが用意した猫用のベッドが部屋の反対側に置いてあるのだが。腹が減っているとか足が痛むとかそういうことではなく、猫にはあまり生きる気力がないように見受けられた。明日の朝には今の姿のまま、部屋の隅で冷たくなっているような気さえする。そのつもりなら、最初からモモに見つからなければよかったのに。モモを不必要に悲しませないでほしい。その時になって僕はようやっとその猫に起伏のある感情を抱いた。これ以上モモの負担を増やすなよ。僕一人の分しかないよ。
モモは猫を見やると、黙って首を振った。今モモにできることは何もないようだ。家に押しかけて、生きてくださいと土下座するのも猫相手では通用しない。沈んだモモの顔を見ていて、僕はアルバムの話をまだしていなかったのを思い出した。
「そういえば、アルバムに入れる曲、全部決まったんだ」
俯いていたモモがぱっと顔を上げた。
「そうなの! 聞きたい!」
そう言われると思って、楽譜を揃えてギターも担いで帰ってきた。モモのためだけに一曲一曲、収録する予定の順番で弾いてやる。曲が終わると、これはモモが主に歌う曲だとかこれはアルバムのメインにしたい曲だとか解説を沿える。初めて聞いた話でもないだろうに、モモはうんうんと大きく頷く。帰ってきてからずっと暗い顔をしていたモモがようやく笑顔を見せてくれて、僕は大いに満足した。僕は猫よりもモモの笑顔に貢献している。
「あっ」
三曲目の途中で観客が突然声を上げるのでライブは中断を余儀なくされた。モモが指を差す方向を見ると、部屋の隅の猫が頭を上げ、目を丸々と見開いてこちらを凝視していた。その顔はいつかステージを見上げていた男の子を思い出させた。さっきまで死にそうな顔をしていたが、そうして目を見開いていると猫みたいな顔だ。元々猫なんだけど。
「こいつRe:valeの音楽がわかるんだよ!」
「急に大きな音が鳴ってびっくりしただけじゃない」
「猫にも良さが伝わるなんて……さすがはユキさんのギター……」
「聞いてないね」
観客は一人と一匹に増え、隣の部屋から壁を殴られるまでコンサートは続いた。猫は最後まで飽きることなくこちらを見ていた。

*    *    *

予想に反して、次の朝には猫は少し元気になっていった。足の障害は生まれつきだと医者が言った通り、前の足を椅子に引っ掛けて、右足をばねにして上に飛び乗ったりする。片足しか使わない様が逆に器用に見えた。やはり最近まで飼い猫だったようで、トイレの場所は一度で覚えた。その後も狭い家の中をゆっくりと歩き回って匂いを嗅いで、最後にはモモが差し出したベッドに潜って二度寝を始めた。猫を気遣ってバイトを一日休んだモモもその姿に安心して、家で雑誌向けのコラムを書くと言っていた。せっかくモモが家にいるので僕も家の中にいたかったのだけれど、あいにくアルバムの作業は一切終わっていなかったので、僕は渋々ギターを担いでスタジオに出掛けた。
日が暮れて、スーパーに寄ってから家に帰っても、まだ猫は眠っていた。
「一回起きたよ」
モモが指差す先にはテニスボールが転がっていた。猫のおもちゃということらしい。僕はそれを拾って猫の寝床に押し込んだ。
夕飯を作るつもりでお湯を沸かし始めると、猫は起き出してまた部屋をうろうろし始めた。僕の足をぐるりと周回した後、猫はモモが座っている椅子の足に爪を立てようとした。
「モモ、椅子が」
「あ! 駄目だよ!」
猫はモモを見上げて困ったように首を傾げた。昨日から思っていたが、この猫はほとんど鳴かない。
「そうだ。あれ出すの忘れてた」
モモは立ち上がって、縄が巻き付けられたポールを猫グッズ置き場から取り出して部屋の隅に置く。
「にゃあ、おいで」
「にゃあ?」
「こいつの名前」
いかにもテキトウにつけました、といった名前なので僕は少し意外に思った。鳴かない猫にもあまり似合っていない。まっとうな名前をつけて情が移らないようにと思ったのかもしれない。しかし当の猫は自分が呼ばれたとわかったようで、部屋の隅まで歩いていって棒に巻かれた縄で爪を研ぎ始めた。そういう風に使うものなのか。必要最低限の物しか置かれてこなかったこの部屋で、そのポールを含めた猫グッズ達は少し浮いていた。
爪を研ぎ終えると、猫はまたネギを切っている僕の足元に寄ってきた。とはいえ僕に構ってほしいわけではないらしく、前の住民の置き土産である床の染みをしきりに嗅いでいる。業者がしつこく掃除をしたようで、僕達が入居した時は塩素の臭いしかしなかったが、猫の嗅覚には感じられるものがあるのかもしれない。僕がうどんを食卓に運ぶ頃、やっと猫は満足したのか、その後は染みの上の何もない空間をじっと見つめていた。
「そこ気に入ってるんだよ。お昼にもそうしてたし」
「気に入ってるのかな……」
「違うの?」
キャットフードを皿に空けながらモモが言う。足のない幽霊には猫も親近感を覚えるのかもしれない。
僕達が食事を始めると、猫もキッチンから退いて自分の夕飯を食べ始めた。わざわざ同じ時間に食べ始めなくてもいいと思うのに、随分真面目な猫だ。食べ終わると再び寝床に戻って寝始めた。
「よく寝るね」
「ユキ、羨ましそう」
モモが小さく笑った。

*    *    *

 モモは拾ってきた後も、動物病院や猫好きの反町さんのところに通って貰い手がいないか訊いて回っているらしく、毎回律儀にそれを報告してくる。別にこのままここに居着いたら困るとか、そんな心配はしていなかったけれど。居候の猫は案外分を弁えていた。来た日には元気がなかったが、もともと大人しい猫だったようだ。家を走り回ったり食事を求めてうるさくすることもあまりなく、大体は部屋の隅の寝床で寝ているか、毛繕いをしているか、染みの上を見つめている。モモにべたべた甘えたりもしなかったので、その点僕は幾分安心した。猫なんだからそういうものだとモモは言ったけれど、僕は猫の平均を知らないから。
一度、猫にブラシを掛けてやっているモモが「撫でてみたら」と言うので、僕もほんの少しだけ触ってみたことがある。毛並みは大分よくなっていたけれど、まだ拾われた当時の質感を残していて少し砂っぽかった。大した肉も付いておらず、触れた数センチ先に骨と心臓があるのが感じられた。少しでも力を入れると潰れてしまいそうで、それなのに触れた指先は僕達と同じ温度をしていて、そのギャップが妙に恐ろしくて僕はすぐに手を引っ込めた。猫は触られて嫌がるでもなく、撫でられて上機嫌になるでもなく、そこにあった手にあまり関心がないようにモモの膝の上でゆったりと伸びをした。でも僕にしてみれば噛み付いたり引っ掻いたり姿を見せるだけで物陰に隠れないだけ随分いいし、少し感動さえした。そう言ったらモモに笑われた。モモは動物に嫌われたことがなさそうだ。
猫には長毛種と短毛種というタイプがおり、長毛種は季節に関わらず毎日ブラシを掛けてやらなければいけないらしい。モモが反町さんから貰った本を片手に教えてくれた。なんて面倒なんだ。僕は戦慄した。毛が長いと手間がかかるのは人でも猫でも同じらしい。この猫の毛が短くてよかった。しかし短毛種でも毛が部屋中に落ちることには違いないらしく、猫が家に加わってから一週間ほど経ったある夜、モモはドラッグストアの袋を下げて家に帰ってきた。
「服に毛が付いてるって言われちゃった」
モモは袋から粘着クリーナーを取り出すと、床に掛け始めた。コロコロに気を引かれたのか猫が寝床から出てきたが、モモが部屋の反対側にボールを転がしてやるとそちらを追いかけて一人で遊び始めた。
「ユキさんの髪が落ちてる」
モモが粘着テープから丁寧に僕の髪を剥がしてしげしげと眺めた。ここに住んでいるんだから髪の毛くらい落ちているに決まってるだろう。一緒に暮らし始めてもう随分と経つのに、モモはまだたまにそういうよくわからないことを言う。
モモがその髪を明かりに透かしたり指先でくるくる回したりして、なかなか手放そうとしないので僕は言った。
「髪の先、切って」
「今?」
「今」
モモが流しの下から新品のゴミ袋を持ってきて、顔を出す穴を開けてから僕に被せた。まず人間用のブラシで髪を整えてから、少しだけ束を取ってくるくると捻る。扇のように広げて、千円の梳きバサミで先端を切る。そうすると切った先の仕上がりが自然になるのだそうだ。あまり凝ったことをするとボロが出るので、毛先を整える以上の難しいことはしない。それでもモモは僕に気を使って一連の動作をとてもゆっくり行うので、随分時間がかかる。今日は何故か一回切る度に髪を梳くので、尚更時間がかかっていた。
一通り後ろの髪を切り終えたモモが、「前髪もちょっと切るね」と言ってヘアクリップでサイドを止める。それから正面に回ってブラシを構えた。
「目閉じないの」
「うん」
ふふ、とモモが小さく笑う。髪を切る度にお馴染みのやり取りだったから。
「緊張しちゃうから閉じて」
僕は大人しく目を閉じて、前髪を撫でるモモの指に委ねた。
「この前出た番組のメイクさん、美容師の資格も持ってるんだって。わかる? ほら、ユキとバンドの話で盛り上がってた人」
切り終えた前髪をぱらぱらと落としながらモモが言う。嫌な予感がしたので、僕は目を瞑ったまま言った。
「これからもモモに切ってもらう」
口に髪が少し入った。モモが苦笑した気がする。
ゴミ袋を脱いだ後、床に落ちた髪をモモが楽しげにコロコロで掃除して、「ユキの毛が生え替わった」と言った。猫がまたコロコロに飛び付いてきたので、今度は僕がボールを転がしてやった。

*    *    *

次第に僕は居候の猫が嫌いではなくなっていた。
モモの言うことを信じたわけではないけれど、確かにその猫は音楽に敏感だった。僕がギターを取り出すと身体を持ち上げて姿勢を正し、大きめな耳をそばだてて、僕が練習を終えるまで頑なにその姿勢でいる。たまにリズムに合わせて尻尾が揺れている。そんなに気にかけているのに傍には寄ってこない。僕が猫を嫌いになれなかったのはその仕草のせいだったかもしれない。
猫は僕の音楽を気にかけていたが、それでもモモの猫だった。普段は走る兆しも見せないのに、モモに呼ばれると自由な三本の足ですぐさま駆け寄っていく。自分では上手く掻けない首の後ろをモモが掻いてやると、嬉しそうに頭をモモの手に擦りつけた。拾ってくれたのが誰かということをきちんと理解している、義理堅い猫だった。僕はその所作にも満足していた。モモを困らせるようなら僕だって容赦しない。何を容赦しないのかはわからないけど。
猫は目立った事件を起こすこともなく、愛想を振りまくでもなく、ただこの家に溶け込んでいた。ちょうどその頃、Re:valeはアルバムを出すのと同じくして小規模ながらライブツアーをする予定になっていて、毎日猫に構ってやれるほどの暇がなかったのも事実だ。モモは勿論、岡崎事務所にとっても初めてのツアーで、経験者の僕も一切役に立たないので、右往左往という言葉が本当にしっくりくるくらいあちこちに電話をかけたり挨拶に出かけたりしていた。そこに僕達の引っ越しも重なって、家で互いの顔を見るのも寝る前だけという日もたまにあった。猫が去る日が来るのと同じ速度でこの町での暮らしも終わろうとしていた。花見には行けないままだった。

*    *    *

引っ越しをするということは、最寄りのコンビニが変わるということなのだなと、ふと思った。
今の家から駅の方に歩く道の途中には、聞いたこともないような名前のコンビニが立っていて、そこが最寄りのコンビニだった。老夫婦が経営していて、高校生の孫がよくバイトに入っていた。雑誌の種類が少ないのでたまに近所の人に文句を言われていたが、枝豆入りの手作りのパンが評判だった。モモはいつ知り合いになったのか知らないが、引っ越した頃から老夫婦と男子高校生に好かれていて、一度アルバイトにも誘われていた。モモがそのコンビニに就職すればいつでも顔を見に行けるので、そこで働いてほしいなと密かに思っていたのだが、モモは結局バイトの誘いを断ってしまった。「オレが入ったら、あの子バイトやめちゃうもん」と言っていた。
一方で目の前にあるコンビニは、おそらくは日本で一番数の多いチェーン店で、品揃えもバイトの人数もあのコンビニとは比べ物にもならない。変なパンも売ってない。でもここでモモがバイトをしてくれれば、いつでも顔を見に行けることには変わりない。ここで働いてくれないだろうか。
「寄って行きます?」
僕が大手のコンビニを見つめたまま動かないのでおかりんが尋ねた。首を振って、隣の駐車場に止められた社用車のドアをスライドさせる。ツアー宣伝用の慣れないインタビューが終わった後、六時過ぎから引っ越し先候補の内見に連れ回された僕は身体の芯から疲れきっていた。
「お疲れ様でした。まっすぐ帰っていいですよね?」
「いいよ。モモも着いてきてくれればよかったのに」
インタビュー終わりに内見の予定があることは前々から決まっていたので、モモも一緒にと誘ったけれど、どこぞの狐顔の飲み会に顔を出すからと言って断られたのだ。
「千さんの家を決めるんですから、百さんが着いてくる必要ないでしょう。わがまま言わないでください」
おかりんはにべもない。それも僕には不満だった。事務所が家の候補を選んできた時には、既に別々のパンフレットが用意されていたのだ。僕の新居は防音設備を条件に随分厳選されていて、今更変えてくれとも言い難い。だったらモモが僕の家の隣に住んでくれればいいと思ってモモに渡されたパンフレットを覗き込んだのだけれど、モモの新居の候補は何故か全て隣りの区だった。
モモはあの辺りに縁でもあっただろうか。例えば親族や昔の友人の類がいるだとか。しかし家族と縁を切っている人間が今更家族以外の親類や友人の傍に住むというのもよくわからない話だ。そうすると僕の防音設備と同じように、仕事で便利な場所として選ばれるくらいしか理由は思いつかない。けれども仕事で便利な場所なら、僕の家の隣りに住むのが一番便利に決まっている。要するに僕はわがままを言っているわけではなくて、隣りに住まない理由がないよねと、そう言っているだけなのだ。
一人で下手な弁論大会を繰り広げている間に、おかりんは慣れたハンドル捌きでワゴンをアパート前に横付けした。
「お家の候補、来週までに選んできてくださいよ」
「わかってる」
車を降りながら僕は適当に頷いた。資料を持って帰ってきたので、モモに選んでもらおう。
見上げる僕達の家の窓には明かりが灯っていて、僕は今更ながらにそれが嬉しかった。その明かりが示すことの第一として、モモは家にいる。第二として、モモは眠っていないということが言えるからだ。そうやって帰れる日も、もう一ヶ月もない。センチメンタルに浸るでもないけれど、僕はなんとなく玄関のチャイムに指を伸ばしていた。静かな夜には不釣り合いな軽やかな音が鳴って、ぱたぱたと狭い家の中を走る音と、ドアスコープから訪問者を確認する僅かな間の後、ドアが開いた。
「おかえり! なんでピンポン鳴らしたの?」
「出迎えてほしくて」
変なの、と笑いながらモモは奥に引っ込んだ。僕の目的は達成されたと言える。
シャワーを浴びて、モモが敷いてくれた布団に倒れ込む。それを待っていたように隣に寝そべるモモが言った。
「ねぇユキ、作戦会議があるんだけど」
随分懐かしい物言いに思わず口角が上がってしまう。同居を始めたばかりの秋口の頃だった。まだアイドルとしての仕事はほぼ皆無だった中で、地方の小さなイベントの出演依頼があった。出演はついでで、ほとんど雑用係みたいなものだったけれど。そこのプロデューサー、もとい、取り仕切っているおじさんが「顔がいいだけで音楽はオマケみたいなもの」だとか、知ったような顔で言うからつい口論になってしまったのだ。「音楽を聞く気がないならわざわざ呼ばなくてもいい」とか、言った気がする。結局出演の前にその仕事は駄目になった。おかりんにもモモにも迷惑をかけて帰ってきた一日の夜、「作戦会議をしよう」とモモは言った。「芸能界にはオレみたいなのが好きな人とユキみたいなのが好きな人がいるから」と続けられた時には笑ってしまった。モモのことが嫌いで僕のことが好きな人間なんているわけない。それを狭い浴槽の中で膝を突き合わせて、顔を近づけて小さな声で、さも極秘事項みたいに言うから可愛くて。けれども、人間関係を築くことが不得意な僕に気を使って立案してくれた、人脈を分割するという「作戦」であることだけはきちんとわかっているつもりだった。
それに比べると、今日発令された作戦の意図は僕には不可解なものだった。
「一緒に暮らしてたこと、これからは秘密にしよう」
どうやらこの作戦会議をするために、今日のモモは飲み会も早引けして寝ずに待っていてくれたらしかった。
「……どうして?」
「バンさんが見つかった時に困るから」
何故モモと一緒に暮らしていたことと万が見つかることが繋がるのか僕にはよくわからなかったが、モモが真剣な顔をしていたからそれ以上は訊けなかった。
「すごく近所に暮らしてたってことにしよう。そしたらユキが料理作ってくれてたって言っても不自然じゃないし」
「僕、そういう隠し事苦手だから、うっかり喋っちゃうと思うよ。そうすると嘘をついていたことになるけど」
一年半も一緒に暮らしていたのだ。普通に話していたらどこかに綻びも生じるだろう。ちょうどその時、自分のことも忘れないでくれ、とでも言いたげに部屋の隅で猫が鳴いた。普段は静かな猫なのに珍しいことだ。
「猫のことも黙っていたほうがいいのか?」
「確かに一緒に暮らしてなかったらそうなるか」
うーん、とモモは布団の上に仰向けになって頭を掻いた。具体例を考えてみて、どうやらこの作戦は上手くいかなさそうだと自分でも思ったようだ。モモ自身、僕にそんな大層な演技ができるとは信じられなかったらしい。
「わかった。じゃあできるだけでいいから、ぼかす感じで。ややこしくなりそうだから嘘もつかなくていい。そもそもあんまり昔の話題にならないようにすればいいもんね」
「できるかな……モモがそう言うなら頑張るけど……」
「できるよ、頑張って!」
今日は大分喋って歩いたので、眠くなってきた。それに気がついたモモがすぐに電気を消してくれた。おやすみと言われて、口の中でそれらしき言葉を返す。どうして次の引越し先ではすごく近所に暮らしてくれないのかと尋ねようと思っていたのに、忘れていた。明日起きたら訊いてみよう。

*    *    *

猫がいなくなったのは、引越しの三日前のことだった。
その時には、猫は反町さんのところに引き取られることが決まっていて、引越しの当日に迎えが来るはずだった。反町さんはモモの話を聞いた時から自分が引き取ることを考えてくれていたらしい。猫の足が悪いのもあって少しばかり躊躇していたが、猫が大人しく、さらには音楽に造詣が深いのを知って引き取ることを決めたそうだ。反町さんは家で最近ピアノのレッスンを始めたから、とモモが教えてくれた。猫は音楽の才で引き取り手を得たわけで、それが僕には他人事ながら少し誇らしかった。
猫がいなくなった日、僕はどうしても早朝からツアーの打ち合わせに出掛けなければいけなくて、なんとモモよりも早く起きて家を出た。と言っても、一度モモに起こしてもらってモモがまた寝ただけだけれど。前日にも深夜まで居酒屋のバイトに勤しんでいたモモは、昼前から少しだけ別のバイトを入れていた。最後の稼ぎ時とばかりにツアー練習の合間にバイトを詰め込んでいる。引っ越し資金を稼がなくてはいけないそうだ。それは僕も同じであるはずだったが「ユキはツアーの準備に集中して!」と、モモは寝起き三十分後とは思えない爽やかさで僕を送り出してくれた。
昼過ぎに、僕が日差しにやられてへとへとになって帰ってくると、モモはもうバイト先から帰って来ていて、青い顔をして言った。
「ユキ、どうしよう。にゃあがいない」
二週間ほど前にも姿が見えないことがあったが、その時は荷造り前のダンボールの中に落ちて出られなくなってしまっただけだった。前足を引っ掛ける場所がなかったのだろう。それを思い出したモモは全部のダンボールのガムテープを一度引っ剥がして中を確認した。猫はいなかった。それから風呂場の覗ける隙間を全部覗いて、台所のあらゆる扉を開けて、ゴミ箱を底まで漁った。家中を探すと言っても、八畳一間の小さな家だ。高い場所に登れないあの猫に隠れられる場所などほとんどなかった。
「遠くには行けないと思う」
モモは確信に満ちた宣言をして、家のすぐ裏のお寺の敷地から捜索を開始した。確かに窓から脱走したとすれば行く先はそこになる。僕はモモに虫除けスプレーを渡してやって、あとは後ろを着いていった。
こうして歩いてみると、よく知った町だなと思う。この寺院もそうだ。本来ならこの町に親戚などいないモモと僕には縁のない場所だけれど、去年の夏に腰を痛めた大家さんに頼まれて、彼女の家の墓を掃除しに行ったのだ。モモがやたらと張り切って綺麗にしたものだから大家さんには大層感謝され、以後は何かと果物やら菓子やら墓前に備えた余り物を差し入れしてもらった。「オレの家もお彼岸の時、墓掃除がオレの当番だったから。なんか思い出しちゃった」と、掃除が終わった後に差し入れのスイカを齧りながらモモは言っていた。モモがその墓を掃除することはもう一生ないかもしれない。
かなり当てをつけた墓地の捜索だったようだが、不発に終わった。モモは団地の隙間に押し込めたような、小さな公園の数々に捜索範囲を移した。こういう公園は昼間の練習によく使った。モモがいるとしょっちゅう町の誰それさんに話しかけられて練習が中断するところが欠点だ。去年の花見も最初はここでしたんだった。
振り返ってみると、生まれた時から住んでいた地元よりも、一年半暮らしたこの町の方が余程思い出深いかもしれない。子供の頃は外にいる時間より部屋で一人でエレクトーンを触っている時間の方がずっと長かったし、高校からは、万の地元の方がまだ記憶に残っている。結局、外を歩くきっかけがないと、引きこもりの僕は町の情景など覚えていないのだ。この町においてそれが誰なのかは言うまでもない。どんな思い出でも隣にいた。
奇妙な一年半だった。刃物を持って、他人のために料理をして、家に帰ると誰かが同じ空間にいて、狭い風呂に二人で肩を並べて、話して、歌って、猫を拾って。この町に来る以前の僕からは想像もできなかった。一緒に暮らそうかと提案したのは僕の方だったのに、まぁ何も考えていなかったと言っていい。これからの生涯で、また他人とそうして暮らすことがあるだろうか。その時の相手はどうしてモモではないのだろうか。前を歩く背中を見ながら思う。白いTシャツが汗で背中にへばりついていた。モモは休まず歩き続けたし、僕はその後ろを着いていった。本当は別々に探した方がよかっただろうけれど、この位置のままずっと歩いていたい気分だった。幸いなことにモモも「ユキは向こうを探して」とは言わなかった。
日が沈み、夜御飯の時間もとうに過ぎて、ようやくモモは商店街の端っこの縁石に座り込んだ。モモは長い溜息を吐いたきり顔を膝の間に埋めて、黙りこくっていた。思っていたより遠くには行かなかった。この商店街も歩いて十分ほどの場所にあって、肉が安いスーパーがあるから普段からよく使っている。とにかくモモは徹底的に近所の捜索に費やして、あの町外れの川には近寄りもしなかった。考えてみたら当たり前だ。猫は足を怪我していたのだから、そんなに遠くに行けるわけがない。
「この町なら、野良猫になってもちゃんと生きていけるよ。足は怪我していたけど、それには慣れているだろうし」
ようやく僕は口を開いた。僕がきっかけを作らなければモモは一晩でも猫を探すと思った。モモの気が済むならそうしても構わないけれど。
モモはそれでも何も言わなかったので、僕も隣に腰を下ろした。どこか遠くからピアノの音が聞こえてきた。ピアノはメヌエットを八小節だけ弾いて、そこで今が夜であることを思い出したかのようにぴたりと止んだ。
「オレがバイト行く前にもっとちゃんと見て、病院連れて行ってやればよかった。なんか変だなって思ったのに」
モモは絞り出すようにそれだけ言って、また黙ってしまった。僕は家を出ていこうとしていた猫の姿を思い出していた。猫の身体のことはよくわからないけれど、怪我そのものが原因というより、怪我をしているところから無理に身体を動かしたことが原因だったようにも見えた。モモは、自分が家に戻るまで猫はじっとしていてくれるだろうから、それから酷くなっているようなら病院に連れていけばいいと判断したのだろう。けれども猫の最期をモモに伝えたところで、今のモモの気持ちが明るくなるとは思えなかった。猫が最期にモモには頼りたくないと思ったことを、モモはどう感じるだろう。モモだって怪我を負った猫がこの町のどこかで生きているとは信じていないかもしれない。それでも、僕が黙っていれば最期の姿をモモが知ることはないのではないか。
モモはやがて立ち上がり、ズボンに付いた砂を払った。
「ごめんね、夜遅くまで。帰ろう」
僕は頷いた。引っ越しの準備はまだ半分残っている。

*    *    *

「もうすぐこの町ともお別れだね」
シャッターを下ろしたアーケードの中を歩きながらモモが言った。またいつでも帰ってこられる、とは言えなかった。帰る場所なんてない。家は明々後日引き払うし、帰ってきたところで家族や親類がいるわけでもない。こんなにも大事な場所なのに、この町には何の標もなかった。僕達は偶然この町に辿り着いて、そこを通り過ぎて遠くに行く。次に引っ越す家は二十三区の中にあって、スタジオにも事務所にも近い七階建てのマンションだった。なんとなく、僕は次の街のことを何も知らないまま、また次の街に引っ越すのではないかという気がしている。
モモは寂しいと思っているのだろうか。少し歩幅を広げて、モモの隣に並び、顔を盗み見た。
「寂しくないよ。だってもっと上に行くから」
僕の心の声が聞こえたように、モモは僕の方を向いて急に宣言した。その言葉通りに、モモの目には殺風景な世界の中で頂に登ろうとする人間の意志が煌々と光って見えた。
「そうね」
商店街を通った反対側にある、あの河川敷を振り返った。猫は死んでしまった。同志を失ったような気がした。だから僕はこの町に墓標を立てたのかもしれない。

料理が好きな人間は、皿洗いが好きな人間と皿洗いを憎む人間に大別されるらしいとどこかで聞いたことがある。僕はそこまで嫌いではない。肩の力を抜いて何も考えないのがコツだ。この前三月君に訊いたら「料理が終わっちまったなって気がするからそこまで好きじゃないですね」と言っていた。普通は面倒くさいとか手が荒れるとか、そういうネガティブな理由を挙げるものだと思うのだが、なんだか彼らしい前向きな意見で面白かった。自分が大量の皿を片っ端から洗う映像を眺めながら、僕はそんなことを思い出していた。
「これって店長の仕事なのかな?」
映像の中の僕が呟いて、スタジオではモモが声を上げて笑った。以前NEXT Re:valeで好評だった職業体験企画の第二弾。今回はŹOOĻの子達をゲストに招いている。今日は最終回の収録で、僕が職業体験をした時の映像を皆で見ている。御堂君の御指名は一流ホテルのフランス料理店に勤める料理長だった。こういうレストランは分業制なので本来皿洗いは料理長がやる仕事ではなかったのだけれど、僕の苦労している姿を撮りたいというわがままなスタッフの要望に付き合った結果がこれだ。第一弾で楽君がマジシャン体験を提案してきた時にファンの声に流されずに断っておくべきだったと思う。
「すげぇ数の皿。めちゃくちゃ人気の店なんだな!」
「狗丸さんはご存じないかも知れませんが、フランス料理ですからね。一人のお客さんが沢山使われるんですよ」
「今日中にこの量終わるの? この番組のスタッフ容赦ないなー」
ŹOOĻの勝手なコメントが入るが、収録自体は割合楽しかった。ファンとスタッフの皆には悪いけど、皿洗いだって量が多いだけでそこまで苦労するようなことじゃない。今は全自動食洗機に任せているけれど、昔はこうして洗っていたのだから。
「でもあんたが皿洗いって、全然似合ってないな」
そんな風に昔のことを思い出していたので、スタジオで御堂君が僕に向けて言った一言には考えなしに返してしまった。
「そんなことないよ。二人で暮らしていた頃は僕が食事作ってたし。モモと駅前の居酒屋で一緒にバイトしたこともある」
「二人で!? バイト!?」
台本になかった台詞に御堂君は素で驚いたようで、僕はそこでやっと失言に気がついた。多分彼は僕達が一緒に暮らしていた時期があったことさえ知らなかっただろう。隣に座るモモが顔をしかめた気がしたがそれは勿論幻想で、モモは愛想良く応じた。
「そう、バイト! でもオレが厨房メインでユキがホールだったの。今と逆だよね!」
スタジオが笑い声に包まれる。そのバイトはモモの口利きで入ったにも関わらず、ホール担当だった僕がまたお客さんの告白を断って問題を起こし、厨房に回されたが結局クビになったので笑い話ばかりではないけれど。それでも楽しかった思い出だ。
ちらりとスタジオの外に目をやると、ディレクターが「そのままリバーレの話で尺稼いで!」と殴り書きしたカンペを振り回していた。話せることならいくらでもあるけれど、いいのだろうか。僕はちらりとモモを見たが、本番中のモモはカンペを読んでも表情を変えたりしなかった。
「他にはどういうアルバイトをされていたんですか?」
巳波君が尋ねて、モモが応じる。
「オレは接客業が多かったかな? さっき言った居酒屋とか、パチスロのスタッフとか。あとは工場の日雇いとか、イベントの裏方もやったな。あっ交通整理のバイトも多かった」
「犬の散歩したよね」
「したねぇ。ユキめっちゃ吠えられててウケた」
「全然アイドル関係ないんすね」
「そう! なんでもやったよ、本当に貧乏だったから。でもその時の経験って今の自分にもつながってる気がする。オレ達を応援してくれてる人ってそうやって毎日働いてるわけじゃん。今回の企画見た人が、そういう風に周りの人のことに興味持ってくれたら嬉しいな! 仕事ってさ、その人にとっては当たり前のことだけど、他の人が話聞くとすごく面白かったりするから。そういう、誰でももってる特別なところを見せられてたらいいな」
上手くまとめたなという同業者としての感想も込みで、ŹOOĻが感心した声を上げる。
「しかしRe:valeにそんな貧乏時代があるなんて知らなかったな。変な話、あんたらはずっとトップアイドルだった気がしてた」
「そんなわけないだろ。お金なくて髪もモモに切ってもらってたくらいだから」
言った後に、あ、と思った。視界の横のモモが、一瞬だけ放送中はしないような顔をしたから。眉をひそめて、歯を噛み締めて、けれども単純に怒っているのとも違う。泣き出す一歩手前の子供のような顔だった。モモは確かに童顔で泣き虫だけれど、だからと言って普段の顔が本当の子供に見えるわけじゃない。どうしてそんな風に感じたのだろう。怒るならともかく、悲しむような話題でもないのに。モモが何を思ったかはわからないけれど、これは本当に言ってほしくないことだったのだなということくらいはわかった。
それは本当に一瞬の出来事で、僕が瞬きをする間にモモの顔はすぐにテレビ向けの表情に戻っていた。モモがいいコメントをしてまとめた直後なので、御堂君には悪いけれど今のやり取りはカットされるだろう。けれどもモモのあの表情はカメラにも抜かれないでいてほしかった。モモのあんな顔、あまり人に見せたくない。
縋るようにディレクターの方を見るとカンペは「バッチリっす!」に変わっていた。スタジオの映像がディナータイムの豪華な料理に切り替わって、僕達の同棲時代の話題はそれきりになった。その後はずっと、焼け付くようなモモの視線を隣から感じながら収録を終えた。

*    *    *

二人きりの楽屋のソファに腰を下ろすと、モモは即座に開戦の口火を切った。
「テレビではああいう話しないでって言ったのに」
可愛らしく頬をふくらませているが、内心そこそこ怒っている。僕もモモの泣きそうな表情は気になったけれど、この点に関しては悪くないのでご機嫌を取るつもりはなかった。
「バイトをしていた話の何が駄目なんだ。見ている人にも親近感が湧くから自然とそういう話題になる分には悪くないって、打ち合わせでおかりんも言ってたろ」
「一緒に暮らしてたって言わなくてもいいじゃん。打ち合わせでもそう言ったよね?」
「わかったとは言ってない」
「前は頑張るって言ってたよ」
覚えがない。きっと寝しなに言わされたのだろう。
「隠すようなことでもないだろ」
あまりに相方と仲が良い体で売っていると、万がRe:valeに戻ってきた時にややこしくなるという言い分は、今でも信じ難いけれど、まだわかる。けれども万が見つかった今となってはその理屈は通じないはずだ。
「今のユキのイメージに合わないもん。ファンの皆だって喜ばない」
「むしろ喜ばれてる方だろ」
モモは僕がファンからの評判を何も知らないと思ってそんなことを言うのかもしれないが、流石の僕だって聞いている。僕達が一緒に暮らしていた際のエピソードは、一つ公表されるたびにファンの間で大盛りあがりの種なのだ。モモの努力が功を奏してか、そもそも同棲時代のことを知らないファンも多い。その度に、先輩のファンがあの番組ではあんなことを言っていた、昔の雑誌ではこんなことも言っていたと、丁寧に教えてあげるのだった。
「これからファンになる人もいるってことぉ……」
モモはわざとらしく口を尖らせた。
直接訊いたわけではないけれど、モモがあの頃の話をしたがらない理由はなんとなく察しがついていた。あの時代は、モモにとっては輝かしい日々とは言い難いのだろう。モモは僕の力になれないことに苦しんでいたし、僕はモモの力になれないことに苦しんでいた。今のモモにとってはあまり言いふらしたいことではないのかもしれない。しかしここまで喋るのを嫌がられるとは思わなかった。「売れない芸人さんみたいじゃん」と、前にこの議論をした時のモモは苦笑いで言ったけれど、実際売れない芸人のようなものだったろう。確かに清貧という言葉とは程遠い、食べるにも困るような暮らしもあった。けれどもそれだけではなかったはずだ。少なくとも僕はそう思っている。モモはそうではなかったのだろうか。
モモが立ち上がって楽屋のペットボトルを一本取った。いつもの炭酸飲料ではなくて、ただの水だった。一気に半分ほど飲み干した後、思い出したように振り返って言う。
「そういえば、ユキが皿洗いしてたお店は駅前じゃないよ」
「そうだっけ?」
「台風の日にさ、ユキが傘持って迎えに来てくれたじゃん。辞めたのに気まずいとかないんだなって思ったけど」
そう言われて、確かに最寄り駅は同じだがもう少し歩いたところにある別の店だったと思い出した。最初の頃は色々なバイトを二人で転々としていたのによく覚えているものだ。
「そうだ。傘二本持ってきたのに壊れてたんだ」
「そう! 壊れてるのに気がついて、しょんぼりしてるの可愛くて、しかも駅から結構歩いてびしょびしょだし、でも壊れてない傘をオレに差し出してくれたから超イケメンだなって思ったよ! 髪の毛がこう、ね、ほっぺに張り付いてて……映画みたいだった……」
「本人ここにいるんだけどね」
モモが笑わせてくるので、思わず突っ込んでしまう。テレビの収録で話すのとは全く違う、きらきらした顔で語ってくれるから、僕は余計に寂しかった。モモだって決して昔のことを忘れているわけではないのに、人前ではそれを口に出すなと言う。Re:valeを再結成してすぐの頃の僕は、事務所のことさえも心の底から信頼したわけではなかった。だからあの時代の僕達のことを証言できるのは、本当に僕達自身の他には誰もいないのだ。それくらい、あの頃の僕達は世界に二人きりだった。今の僕達は日々人前で話したり、たまに歌ったりするけれど、人の目に晒される僕達の大部分はモモが喋る言葉で形作られている。モモが口を閉ざしてしまったら、そのままあの時代は幻になって、世界から消えてしまうような気がしていた。御堂君がRe:valeはずっとトップアイドルだったのだと思っていたように。モモはそれを望んでいるのかもしれない。でも僕はそれに抗いたくて、あの頃の思い出をたまに人前で口にしてしまう。その度にモモは怒るけれど、僕にも考えがあってのことで、モモと喧嘩をしたいわけではないのだ。だから僕はぎこちなく停戦の合図を送ってみた。
「今でも迎えに行くのに。車で行くから傘が壊れても、駅から遠くても大丈夫」
「えぇっ……セレブな上にイケメン……!」
「車、そこまでセレブかな?」
「迎えに来てくれる気持ちがセレブなんだよ!」
「そうなの?」
三分前まで口喧嘩をしていたとは思えないやり取りで、こういう所が僕達のいい所だし、天君なんかに言わせれば悪い所なのだろう。見計らったようにおかりんとモモのサブマネージャーが呼びに来て、僕達はそれぞれ別の現場へ向かっていった。あの頃の話をどう扱うか、結論はうやむやのままだった。前にこの話をした時もこんな風に決着がつかずに終わったような気がするし、モモも僕も意地っ張りなのでこれからもずっとそうかもしれない。いつかはあの猫を迎えに行ってやらなければいけないのに。

*    *    *

昔のことばかり思い出すのは年をとった証とはよく聞くけれど、本当なのだろうか。一度あの頃のことを思い出すと次々と他の出来事も思い出す気がする。その日の夜は二人で暮らしていた頃の夢を見た。でも夢の中のモモは長毛の大きな猫を連れていて、話が違うじゃないかと僕は思った。でかい猫はモモに甘えてばかりで、モモが座っているとすぐ膝に飛び乗って頭をモモの腹に押し付けて、モモの仕事の邪魔をしていた。腹が立った僕が猫の尾を引っ張ったら何故か尻尾ごと抜けてしまって、びっくりして夜中に目が覚めた。なんだったんだ。猫の尻尾を掴んだことなんてない。
それからまた昔のことを思い出したのは、早くも翌日のことだった。その日は土曜の昼間によくあるような町歩き番組のロケで、朝から北関東の小さな商店街を訪れていた。外から人が大勢訪れる町ではないけれど、根差す人の暮らしやすさがどことなく伝わってくるような活気があった。母親がベビーカーを押して歩くのによくすれ違い、路地裏には洒落た喫茶店が目に入る。商店街にはこの辺りの大手スーパーが入っていたけれど、その店頭には近所で採れたであろう野菜が泥がついたまま並んでいる。
お喋りは相方に任せればいいし、長らく苦しんでいた「t(w)o…」のCM用アレンジは一昨日終わったし、僕はモモの半歩後ろをのんびりと歩いていた。薄手の長袖で過ごしやすい、うららかな秋の午後だった。外を歩き回るのはそこまで得意ではないけれど、これで仕事というなら気楽なものだ。その時に、こんな光景を前にも見た気がすると、ふと違和感を覚えたのだ。きっと今日訪れることがなければ一生名前を知ることもなかったであろう町だというに、何故だろう。歩きながらしばらく考えて、思い出した。二人で暮らしていた町の商店街に似ているのだ。駅前から少し歩いて、細い道からアーケードへ入る時のなんとなく感じる安心感。どこか遠くから響いてくる昼下がりの楽器の音。しかし、改めて見渡すと既視感は朝霧のように薄れて消えてしまった。よくあることだけれど、焦点を結んでみると全然似ていないような気もする。あの町の商店街もアーケードの上にすずらんが飾っていた気がしたけれど、地方の町並みは大体こんなものだろう。
僕が既視感を覚えたのは半歩先を歩くモモのその背中だったかもしれない。モモはいつも背筋を伸ばしてすたすたと爽快に歩くけれど、僕の歩調は平均より大分ゆっくりなので、どちらかが意識しないと僕達の距離はどんどん広がってしまう。今ではモモが気にしてくれるからそんなことはないけれど、一緒に暮らし始めた頃のモモは頻繁に後ろを振り返って、想像より三歩ほど後ろにいる僕にびっくりしていた。僕はその所作が犬の散歩みたいで気に入っていたけれど。今日は番組に求められる絵の都合で先を歩いていたモモが、ちょっと立ち止まって後ろを歩いていた僕を小突く。
「ユキ、撮影中だよ!」
「あぁ、うん。ごめん。気持ちよかったからぼーっとしてた」
「のんびりしてる顔もイケメンだけど、もう少し頑張って!」
流石に昨日の今日で撮影中に「ここって一緒に暮らしていた町に似てるよね」と言い出すほど無神経ではなかったので、僕は意識して歩幅を広げた。そうするとモモの隣に並べる。
短いアーケードを抜けた先は、少しだけ上り坂になっていて、神社の境内へとつながっていた。そこで映像を締めるのがいいだろうというディレクターの判断で、僕達の撮影はやっと終わることになった。朝から家を出て、珍しくモモがハンドルを握った車の中で少しだけお喋りをして、駅前に降りて、商店街を回って、食事をして、もう四時を回ろうとしていた。この時間の使い方には未だに慣れない。これはたった三十分の番組なのだ。
「じゃあ今日の収録終わりです! お疲れ様でした!」
エンディングを撮り終わって鳥居の前でディレクターが言うと、場の空気が一気に和やかになる。すぐさま今日の飲み会の打ち合わせが数箇所で立案され始める。今年最後のビアガーデンがいいとか、この辺りで飲むのもいいんじゃないかとか。僕は一日中歩いて疲れたのでまっすぐ家に帰るつもりだけれど、モモは僕を送り届けた後にはどこかの飲みの席に加わるのだろう。家のワインを開けたら僕の家の席に座ってはくれないだろうか。手間がかからないものなら何か作ってあげてもいい。
その時だった。社の裏手から大きな泣き声がして、スタッフと僕達は一斉に振り返った。赤ん坊の声のように聞こえたのだ。モモと隣りにいたスタッフが顔を見合わせて、すぐに声のする方へと走った。全員がぞろぞろと後ろに続く。本殿の裏はあまり人の出入りのない資材置場になっているようで、錆びたドラム缶と鉄骨の周りはクモの狩り場になっていた。モモが雑木に隠れた厚手のビニールシートを躊躇なく引っ剥がすと、声の正体はすぐにわかった。
「猫だ」
子猫は身体から一回りの余裕もない小さなアルミのゲージの中に閉じ込められていた。痩せ衰えてはいなかったものの、ゲージに身体を擦りつけたからかあちこち毛が剥げていて、血を流す地肌が見えていた。品種が同じに見えたので、似ている、と一瞬思ったが、顔を見たらそんなこともなかった。猫は大勢の人間が突然押しかけて驚いたのか、さっきよりももっと大きな声で鳴いて、ボロボロの毛を逆立ててこちらを威嚇していた。
「わ、本当だ。猫ちゃんだ。なんでこんなところに閉じ込められちゃってるんですかね。アライグマ用の罠かな」
「馬鹿、捨てられたんだよ」
呑気なスタッフの発言をディレクターがばっさり切り捨てた。ゲージをビニールシートの下に隠した分、捨てる気すらなかったかもしれない。ほとんど殺すも同然だ。高層マンションの都会暮らしではほとんど身近に触れることのないような、悪意に晒された動物の姿だった。
「かわいそう……警察に持っていくのがいいのかな……。それとも飼える人、います?」
そんなことを急に言われて気軽に「はい」と言えるような人がいるだろうか。スタッフ同士が顔を見合わせて沈黙する中、モモが声を上げた。
「オレが預かるよ。ちょっとツテもあるから」
その言葉を聞いて、スタッフ達は見るからに安堵したようだった。
「任せちゃっていいんですか? よかった、百さんなら安心です」
スタッフの皆は次々と猫に背を向けて、何事もなかったように飲みの計画へと戻っていった。番組中に立ち寄った飲み屋の魚が美味しそうだったとか、明日の打ち合わせもついでにしようとか。モモがゲージを持ち上げて底に付いた泥を軽く払うと、猫は尾を踏んづけられたような叫び声を上げ、モモの腕に噛みつこうとしてゲージに激突した。急な展開に猫も驚いているのだろう。
「まだ叫べるくらいだし、怪我してるけど元気そうだね。よかった」
モモが呟いて、車に向かう。後部座席にゲージを置いてシートベルトでしっかりと固定すると、助手席に座った僕に言った。
「先に家に寄るね」
「いいよ。着いてく」
「神奈川の方まで行くからちょっと遠いよ? いいの?」
僕は頷いた。モモは不思議そうに一つ眉を動かしたけれど、特にそれ以上は反論せずにエンジンを掛けた。人が大勢でなくなって落ち着いたのか、車が走り出してからは、猫は後ろで大人しくしていた。モモはいつもよりも丁寧にカーブを曲がった。
二時間と少しのドライブの末、高速道路を降りたところで僕はやっと行き先がわかった。いつかモモと一緒に来た、天君とモモの行きつけだという猫カフェがこの町にある。モモはナビを見ることもなく、郊外のショッピングモールに車を滑り込ませた。平日の夕方で、駐車場に泊まる車も疎らだ。一階にあるカフェの入口までモモがゲージを抱えていくと、受付の女の子は目を見開いた。Re:valeでなくて、抱えられたぼろぼろの猫の方に驚いたのだ。
「店長さん呼んでくれる?」
奥から出てきた店長はゲージを一目見ると、受付の女の子に猫を任せて、モモと僕を奥の事務所のスペースに案内して、その後は勝手がわかったようにテキパキと電話をかけ始めた。
「ここで飼われるの?」
「とりあえず保護してくれる施設に連絡して、そこが里親を探してくれるんだよ。ここの系列のカフェで引き取ることも結構あるけどね。でももうちょっと人馴れしないと駄目かな。お客さんに噛み付くなら、猫カフェじゃ引き取れないもん」
モモは淡々と教えてくれた。
「本当はいくらこうやって拾っても、捨てる人がいたら解決にはならないけどさ。でもにゃんこは悪くないし、あそこでゲージの中に閉じ込められて死ぬよりはマシだと思うから」
それに応じるように猫カフェに勤務する真っ黒な猫がモモの足にすり寄ってきた。顔なじみの猫だったようで、モモは猫の顎をくすぐって「おやつが貰えると思ってるのかも」と小さく苦笑した。
猫を拾った場所と状況を簡単に説明した後は、二十分ほど待たされただけで僕達はカフェを出た。甘え続ける黒猫にモモが「また来るね」と声をかけた。
駐車場までの道で、僕は捨てられた猫の行く先について考えていた。誰にも引き取られなかった、その先があることくらいは理解できた。車の鍵を指にかけてくるくる回しながら三歩先を歩くモモの背に、僕は問いかけた。
「モモは今でも動物が飼いたいのか」
「オレがさっきの子を引き取らないのかってこと?」
そう思ったわけではなくて、モモを非難するように聞こえたなら嫌だ。僕が言葉を整理するのに手間取っていると、モモが返事を待たずに応えた。
「前はTRIGGERと当番制でもいいからちょっと飼ってみたい、なんて言ったけどさ、やっぱり一人でちゃんと世話してあげられないと難しいよね。アイドルやってる間は無理かも」
それならモモには一生無理だ。冷たい水が皮膚の下を流れる感覚。けれども、躊躇する理由は忙しさだけなのだろうか。あの猫の死目に立ち会えなかったことを気にしているのではないか。結局のところ僕がしていることはモモから可能性を奪うことだけなのかもしれない。一緒に暮らし始めた頃からずっと。Re:valeが生まれ変わってからずっと。
「モモはモモより長生きする動物を飼ったほうがいい」
また死んでしまって悲しむところを想像すると悲しい。二十代後半の成人男子などをお勧めする。モモより長生きできる自信はないけど。
「……そっか」
モモは急に振り返って、呟いた。目線は僕の頭上を通り越して遠くを見ていた。ちょうど僕の背に夕陽が落ちようとしているのが、モモの目の中に見えた。僕が五回瞬きするほどの時間を経た後、こちらに視線を戻したモモが言った。
「二人で暮らしてた頃、猫飼ってたでしょ」
その話はもうずっとしないものと思っていた。今こうして猫と触れ合った後でも、あの猫のことは不自然なほど話題には上らなかった。猫は二人で暮らしていた思い出と一緒に、ダンボールの奥底に封印されてしまったように思えた。時たま僕が人前で同棲時代の話をする時も、あの猫の話だけは自分からできなかった。猫も僕なんかに無理矢理引きずり出されては迷惑だろう。ただ一度の例外は、IDOLiSH7と仕事をしていた時に、マネ子ちゃんとのチャットでモモが自分からその話を出した時だけだ。
「にゃあも足を怪我してたんだ」
「覚えてるよ。怪我っていうか、もともと左足はなかったろ」
猫は拾われた時から、いや、獣医の言う通りならば生まれた時から、後ろ足が一本ない三本足の猫だった。高い所には登れず、室内を走ったりすることもなかったが、その割には不自由を感じさせずに部屋をゆったりと歩いていた。モモに首の後ろを掻いてもらうのがお気に入りだった。染みの上の幽霊を見るのが日課だった。Re:valeの音楽が好きな、モモの猫だった。
「そっちの足じゃない。いなくなった日の朝、捻っちゃったんだ。怪我したのは前足の方だったんだよ。ユキは知ってたでしょ」
そう言われて僕は四年越しにやっと自分の失言に気がついた。怪我をしたのがその日の朝だというのなら、先に家を出た僕がそれを知っているはずがない。猫の死んだ姿を先に見つけない限りは。
沈黙を埋めるように、駐車場の隅の方から少し季節外れの蝉の声がする。あの日と同じように。
「ユキが埋めてくれたんだね」
今どこにいるの、と静かにモモが尋ねる。会いに行くの、と僕は訊く。
「そうだよ。ダメ?」
「駄目じゃないよ」
いつかそうしてもらえるといいと思っていたんだ。

*    *    *

調べてみると、懐かしい町は車を走らせれば今住んでいる街からでも一時間とかからない距離だった。遠いと、もう戻れないと思っていたのは僕達だけだった。車内は珍しく無言だった。モモは何も訊かなかったし、僕も何も言わなかった。沈黙が少し息苦しくなってカーステレオに手を伸ばしかけたけれど、それは今ここにある沈黙の存在を肯定して、そのまま終点まで凝り固めてしまう行為のような気がして、伸ばしかけた手を止めた。結局モモは目的地までずっとハンドルを握って前を見ていて、口を開かなかったけれど、それでも今僕のことを考えていると思う。そうでなければ嘘だ。まるでお互いが傍にはいないように、お互いのことを考えている。
そうして僕達はあの町に戻ってきた。引っ越して以来、ここに帰ってくるのは初めてだった。自分の生まれた町ならこの五年で二、三回、なんならモモの生まれ故郷にすら何度か訪ねたことがあったけれど。最後にモモの地元に行った時は、Re:valeの原点を探る、という番組の企画だった。でも本当に僕達が始まったこの町のことは誰も知らない。モモの情報統制のおかげだ。
駅前の町並みは驚くほど何も変わっていなかった。今の最寄りの駅ビルは店舗の並びを覚えていられないほどしょっちゅう入る店が変わるのというのに。五年という時間はこの町にとってはさしたることのない時間だったのかもしれない。トップアイドルになって万と再会しただなんて、全部夢だったような気がする。でも、ここにはモモの車で来ていて、隣にいるモモは顔が見えないように大ぶりのサングラスを掛けて、少し年を取って。それは僕も同じだけれど。
またここで暮らせたらいいなと思うし、そんなことはできないし、そんな願いが間違っているのもわかっている。本当に僕が望んでいるのはそういう懐古的なものではなくて、もっと形を伴うもので、それはずっと昔から変わっていないことも。
河川敷まで僕が先に立って歩いた。モモは場所を知らないのだから、当たり前だ。モモがいつ懐かしい町並みに立ち止まったり思い出話を始めたりしてもいいように、横目でモモを捉えながら歩いていたけれど、モモはそんなことはせずにいつもよりも遅い歩調で僕に着いてきていた。夕飯に間に合うよう家路を急ぐサラリーマン達とすれ違う。街灯の下で僕達の顔をわざわざ覗き込んだりしない。この町にRe:valeを知る人は僕とモモだけのような気がして、ますますあの頃に戻ったような気持ちになった。
一番広い道路に沿って駅からまっすぐに川を目指すと、やがて隣町とを結ぶ大きな橋の袂にぶつかるようになっている。人がよく集るそこは少し改修されて綺麗になっていて、家族連れが数組、バーベキューに勤しんでいた。何か食べ物を落としてしまったのか、子供が泣き出す。母親らしき人影が背中を擦っているのが遠目に見えた。そこから川沿いの道を上流の方に歩いていくと少しずつ賑わいは遠ざかっていって、やがて河川敷が整備されていない、藪の生い茂った景色が現れた。川縁には人の気配はなく、たまにバイクのヘッドライトが僕達の背中を照らして、すぐに追い越していくだけだった。
「ここでモモが魚を獲ってた」
モモが「うん」とだけ応えた。モモだって忘れていないだろうし、それ以上応えようがない。会話は続かなかった。
河川敷に降りると、人の気配に驚いた秋の虫が一斉に鳴き止んだ。薄暗い中に、彼岸花の朱い花がぼんやりと浮かび上がって見える。
「ユキ、昔球根のところ食べようとしてたよね。毒抜きしたら食べれるとか言うからびっくりしちゃった」
僕は少し驚いて、すぐに返事ができなかった。結局モモが半泣きで止めるので、引っこ抜くのはやめにしたのだった。あの時モモが止めなかったら、今ここには咲いていないだろう。後日談も何もない、たったそれだけの話だ。モモに言われるまで僕も忘れていた。モモはそんなことまで覚えているのだ。この場所に至るまでの道のりの中で、モモが語れる思い出は一体いくつあったのだろう。けれどもモモは車を降りてからもお喋りをする気分ではないようだった。球根の話も、僕が魚捕りの話をしたからその返事として喋ってくれたのだろう。
河川敷を少し歩く。埋める印にした木は少し大きくなって、しっかりとそこに立っていた。さすがに猫を埋めた小山だけはもう跡形もなくて、「この辺りだよ」と僕は木の根本を指差した。
モモはサングラスを取って、しゃがんで手を合わせた。僕も後ろに立って手を合わせた。猫には随分待たせてしまって悪かった。
油断した虫が再び鳴き始める頃にモモは立ち上がって、しばらく木を見上げていた。ぬるい風が川を渡って、木の葉と僕の髪をさわさわと揺らした。
「僕がみつけた時には、もう死んでいたんだ」
「うん」
何か話さなくてはいけないような気がしてそう言ったけれど、振り向かずにモモは応えた。モモはそんなことを言わなくてもわかっていたように思う。それに、今でもやはり死んだ時の姿は伝えるべきでないような気がしていた。死んだ身体がどんな風に冷たくなっていくのかなんて、モモは一生知らなくていい。
「ここに来るまでの間、考えてたんだ。にゃあが死んだこと、どうしてユキはオレに黙ってたんだろうって」
モモがやっと振り返って、僕を見据えて言った。僕はそれに返事をしなくてはならなかった。
「オレが悲しまないように、黙っててくれたのかなって」
そんな善人じゃないし、そんなことをしたってきっとモモの悲しみが薄れないのを知っている。安否が知れないということは、相手が死んだのと同じように、いや、それ以上に悲しいことだと、僕と同じ痛みでモモは知っている。
きっと猫が普通の姿で床に倒れていただけなら、僕は死んだ猫を隠したりしなかった。猫があの家から出て行きたがっていたから、僕はそれを手伝った。そうして最初は猫のために埋めて、その姿をわざわざ伝える必要はない気がして、モモのたに黙っていた。でも、それを今日までモモに言わなかったのは僕の都合だった。けれども何と言えば伝えられるのか、こうしてモモの前に立った今でもわからない。僕もここに来るまでの間考えていたのだ。一体どんな言葉を尽くせばモモに伝わるのだろうと。
本当はもっと前に、マネ子ちゃんにあの猫の話をしたと聞いた時に、いよいよこの場所を伝える時が来たのではないかと思ったのだ。
「好きな童話の話とかしてたら、なんか流れで、にゃあの話になってさ」
髪をぐしゃぐしゃと掻きまぜながら、どこか遠くを見てあの時のモモは言っていた。僕の家で晩御飯を食べた後で、モモも僕も随分酔っていた。それでも僕の呼吸ははっきりとわかるくらい浅くなった。モモが一緒に暮らしていた頃の話を自分から人にすることなんて滅多にないし、あの猫の話をしたのは多分初めてだ。永い時間を経て、モモもあの頃の話をしてもいいと思えるようになったのかもしれない。それならば、あの日のことを話すなら今だ。今しかない。
「一生人に話すつもりなんてなかったんだけど、なんでだろうね」
僕は大きく、溜息ともつかない深呼吸をした。彼女にはそういう、人から話を聞き出す不思議な魅力がある。自分の吐いた息からアルコールの臭いがした。
モモはそんなにも一緒に暮らしていた頃の話をしたくないのだ。それがわかって、もう何も言えなかった。どうしてそこまで隠そうとするのかと、尋ねることさえも。モモには何も言えなかったけれど、どうしても誰かにこの苦しみをわかってほしくて、その後マネ子ちゃんには不思議なラビチャを送ってしまった。あの時、本当に話をしたい相手はモモだった。言いたいことはたくさんあった。一緒に過ごした毎日のこと。コネもツテもなくて、二人きりだったけれど、確かにこの町に暮らしていたこと。モモにとっては世界から消し去りたいような日々だったかもしれないけれど、僕はそれをとても大事に思っていること。できたらモモもそう思っていると、モモの口から聞いて確かめたいこと。貧乏だった時の経験が今に繋がってるって、モモもこの前の収録で言っていたじゃないか。あの時があったから僕はこれからも一生モモのことを大事に思えるし、こんなことは恥ずかしいから一生言えないけれど、人を愛するってどういうことかわかったような気もする。
モモがあの日々をどう思っているのか、僕にはどうしてもわからなかった。モモがあの頃の思い出を忘れているわけではなかったから、余計に。本当に辛く苦しいだけの日々だったと思っているなら、球根の話のような小さな出来事まで覚えていてくれるものだろうか。けれども正面から尋ねることもできなかった。もういい加減忘れたいのだと言われたら、僕はどうしていいかわからない。だからいつか、あの猫がそれを知るきっかけになってはくれないかと思って、ここに墓標を立てた。猫の死が確かめられない限りは、僕とモモの町が終わることもない。けれどもダンボール箱が開かれる時は果たして今なのだろうか。それがモモの正面に立った今でもわからない。僕を見つめるモモの瞳からは何も読み取ることができなかった。
「忘れ物を取りに来てくれるといいと思ったんだ、お前が」
そうやってずっと考えていたのに、いや、考えすぎたからだろうか。口から絞り出された言葉は酷く抽象的で、僕は自分の言語野に改めてがっかりした。ミュージシャンになって歌詞にでもした方がいい。けれどもここにメロディはないから、聞く人には伝わらないのだ。
「忘れるわけない」
そう思ったのに、モモはぎゅっと顔をしかめた。今にも泣き出しそうな、子供のような顔。なんだかそれは酷く原始的な感情から来る表情のように思えた。内から溢れ出すそれが、身体いっぱいに湛えられて、溢れ出すほんの手前。ふとそう思った。
「ずっと取っておくんだよ。本当に情けなくて、どうしようもなくて、でもオレの、オレだけの、一番大事なものだから。誰にも見せないで、誰にも教えないで。それで、じいちゃんになった頃に思い出すんだ」
宝物みたいに思ってる、と。
それを聞いて思い出したのは、モモに初めて料理を作ってあげた時のことだった。料理といってもそれはただの卵サンドで、食パンとゆで卵に比べれば料理の体を成していたというだけだ。スーパーで配っていたチラシにレシピが載っていて、これならマヨネーズを買い足せば包丁を使わないで作れるな、と思いついたのだ。バイトから帰ってきたモモは「ユキさんの卵サンド」というよくわからない単語を何度も繰り返し、溜息をついた。
「勿体ない……食べたらなくなっちゃう……。どうしよう……このまま死ぬまでとっておきたい……」
最初はいつものように冗談を言っているのかと思ったが、どうやら本気らしかった。「また作ってあげるから」と、僕が五回ほど繰り返すと、モモはようやく卵サンドの端と端を指先で摘んで、隅を小さく齧って飲み込んだ。あまりに控えめな一口目だったから、きっと食パンの味しかしなかっただろう。
モモにとっての宝物は、きっと食べたらなくなってしまうような、消耗品のようなものなのだ。そしてそれを思い出す時に、きっとモモは一人きりでその宝物を食べて、それを最期の栄養にするつもりなのだろう。モモの中でも僕はモモより先に死ぬことになっているらしかった。
モモが僕と同じように、もしかすると僕よりも、一緒に暮らしていた頃の思い出を大事にしてくれていることがわかったのは嬉しかった。様々なことを言葉にするモモが言葉にしないものには、言葉に表すものよりもずっと特別な理由があったのだ。けれどもそれは僕の特別とは少し違っていた。モモの中ではそれは再生産の不可能な、取り返しのつかないものであるらしい。それが僕には悔しかった。モモはその宝物と同等に価値のある日々を今からだって送ることができるのに。
「次にモモが動物を飼う時は」
モモが目を見開いた。
「一人で世話しなくてもいい。モモが忙しい時は、僕が手伝ってあげられる。だから、この町で暮らしていたことは、一番大事なんかじゃない」
モモは泣きそうな顔のまま、しばらく何も言わなかった。それはモモにはとても難しい問題らしかった。今すぐに決めなくてもいい。猫よりは長生きするつもりだ。
「そうかもしれない。でも、わかんなかったんだ。この町から出ていく時は。後はもう、上に行けば行くほど、ユキと離れるばっかりだって、そう思ってた」
とうとうモモが手で顔を覆った。今ここに悲しいことなんて何もないのに。猫を探した日の夜、泣けなかったモモが泣いているようだった。もしそうだとしたら、モモを泣かせた責任を負うべきなのは猫だけではないような気がした。僕はあの夜に、寂しくないと言い切ったモモに、きちんと伝えるべきだった。僕はそうでもない。この町で暮らした日々がとても好きだったから。でもこれからもモモが隣にいてくれるなら、寂しいけれど大丈夫だ、と。
その時だった。モモが背を向ける木の根元から、何かが飛び出してくるのを感じた。一迅の風が吹いて、モモがぱっと振り返る。それは目には見えなかったけれど、両手に抱えられるほどの馴染んだ大きさの何者か。僕は一瞬の内にあの日の重さを思い出していた。新聞紙を剥いだ時の物みたいな重さ。冷たさ。しかし飛び出してきたそれは生き生きと身体をしならせてこちらに向かって走ってきた。それはモモの足元まで駆け寄ると、服のポケットやチャックに器用に手をかけて、すいすいとモモの肩までよじ登った。僕はそいつの後ろ足が一本ないのを見た。
「にゃあ?」
モモの呼びかけに応えるように、そいつは口を開いてモモの涙をぺろりと舐めた。そして伸びをするように僕の肩に着地して、頭を僕の頬に擦りつけた。冷たい鼻がぎゅっと押しつけられ、髭が当たって少し痛い。首の後ろを掻いてやるモモに、よくしていた仕草。礼を言われた気がした。それからそいつは川面に向かって大きく跳ねた。波紋だけが点々と川の対岸へ渡っていくのを見た。
何が起きたかもよくわからないほど、あっという間の出来事だった。耳の奥にモモが名前を呼ぶ声が木霊している。その音の他には、ただ水面の波紋だけが今ここで起こった何かを肯定していた。それが川の流れに砕かれてなくなるまで、僕達は黙って見ていた。遠くの方で子供達の歓声が聞こえた。
放心したようにしばらく立っていたモモが、やがて言った。
「ユキの言った通りだったね」
何か言っただろうか。モモの方を見ると、モモは涙の跡が残る顔で小さく笑った。
「この町なら野良猫になっても生きていけるって」
そういえばそんなことも言った。本当によく覚えている。これからは少しずつ、モモの覚えていることも話してもらいたい。モモの言った言葉なら、きっと僕の方が覚えているはずだ。そうして二人で話すだけならモモだって構わないだろう。他の誰に話さなくても、僕達が覚えていればこの世界からずっと消えない。
「帰ろっか、ユキ」
モモがそう言って、僕は頷いた。明日も明後日も、アイドルとしての仕事があって、この町でない場所で僕達の暮らしが続く。川沿いの道路に登ってから、去り際にもう一度だけ対岸を振り返る。あの猫がどこかで大きな耳をそばだてて、Re:valeの音楽が始まるのを待っているような気がした。


Photo by Nikomi Wakadori

ビフォア・ザ・ラスト・サパー

バラエティで緊張するなんて久しぶりだ。とうの昔に慣れたはずの照明が随分眩しい。じりじりと皮膚が焼かれるようで、襟足に汗が伝う。
パンを千切ると、中から油の乗った肉汁がじわりと染み出す。残りの具材はよくわからない。おいしそうだな、と素直に思うけれど。
アップの画像を撮るために、カメラマンが近付いてくる。手元が大写しにされているのを感じる。肌がびりびりと震えている。
咀嚼して、飲み込む。
振り返って千の方を見た。視線があうと、千は百に笑いかけた。あの日々のようだと百は思う。作った料理を食べてもらうことを喜ぶ、そういう性質の人なのだと思っていた。けれどもその認識は本当に正しかっただろうか。
「さぁ百さん!お味の程は――!?」

*    *    *

なるほど、芋を揚げたものがコロッケなのだから、里芋を揚げたものもおいしいに決まっている。今度家で作ってみてもいいかもしれない。
物珍しさで注文した里芋の唐揚げを頬張りながら三月は考える。百貨店の上階にある個室の居酒屋であった。
「とにかく、事態が深刻なことはわかって貰えたと思う。そもそも三月が原因なんだから」
本日の五種盛りを前にして神妙な顔をして三月の先輩--Re:valeの百は言った。寒ブリを賞味しながら三月が曖昧に頷く。旬の魚も新鮮で美味い。
きっかけを作ったのは三月が先月出演したバラエティ番組だった。構成上は、一流のシェフがゲストに登壇して、料理の意外な食材や値段を当てるという他愛もないコーナーだ。しかし何しろ調理師免許をもつ三月のトークがハマった。いかにも職人肌といった気難しげな顔をするシェフが、三月の喋るにつれて眉間の皺が取れていく様はSNSでも評判だった。
想定外のヒットに家電メーカーのスポンサーは大変喜んだ。当然のように他のアイドルとシェフでシリーズ化を、という話になり百に白羽の矢が立った。三月と同じくバラエティを得意とする若手アイドルであるし、グルメ番組で百が大きな口で肉やら魚やらに齧り付く姿はよくテレビにも流れる。
そこまではよかったんだ、と百は溜息をつく。
プロデューサーにも当然わかっていた。あの盛り上がりは三月だからこそできたものだ。トークは一流の百だが、台所事情には詳しくないだろう。三月を司会に据えて今後も番組展開ができればよかったが、そう簡単にはいかないのがこの業界だ。しかしNEXT Re:valeの三周年特番を見たプロデューサーは名案を閃いた。Re:valeを二人一緒に呼んで、シェフとの専門的なトークは千に担当してもらえばいい。正に二人でRe:valeと言うやつだ。ついでにNEXT Re:valeでも好評だった千の食事を食べる百の姿も映せば、Re:valeのファンだとか言うスポンサーもにっこりだ。岡崎事務所としてもセット売りは歓迎するところであった。構成はトントン拍子に決まり、かくして百はNEXT Re:valeに続いて再び千の料理と一流シェフの料理の食べ比べに挑戦することになったのだった。題して、『一流料理人vsダーリン! 手料理食べ比べクイズ!』。
「千さんから『三月君にお礼を言わなきゃね。久々にモモと一緒の仕事だ』って、わざわざ連絡きましたよ」
「そう……」
「何が問題なんですか?」
「……」
百は渋い顔で烏龍茶を一口啜った。今日は車で来ているのだろうか。
「オレ、ユキのご飯の味、全然わかってないっぽいんだ……」
「えぇ!?」
個室に張りのある三月の声が響く。「しぃ!」と百が人差し指を立ててた。なんだかバラエティっぽいやり取りだなと三月は思う。
「NEXT Re:valeで千さんのハンバーグ、自信満々に当ててたじゃないですか」
「あれ、まぐれ当たりなんだよね……」
三月はようやく箸を置いて居住まいを正す。確かに全ての事の発端は三月なのかもしれない。NEXT Re:valeで出題されたあの食べ比べ問題を発案したのも、他でもない三月だったのだ。ハンバーグはソースや見た目が似ていても、玉ねぎを炒めるか否か、つなぎの量などに個性が出やすい。百も好物だと言っていたので、これは中々の良問だと三月は一人悦に浸っていたのだが。
「でも食レポとか出てるじゃないですか」
「食レポに重宝されるアイドルは、グルメな子じゃなくて好き嫌いがない子だよ」
さらりと百が言う。環と陸の顔を思い浮かべて、三月は納得してしまった。あの二人のはしゃぎっぷりを見るとまた作ってやる気力も湧くというものだ。それは視聴者に共感を与えるものと同じなのだろう。
「ねぇどうしよう三月! ユキにバレちゃうよ! 今までの料理全部味わって食べてなかったことが!」
「味わってなかったんですか?」
「味わってたよ! 味わってたけど……あのハンバーグだって正解だと思ったし……。でもオレ、本当にわかんないんだよ、そういうの……」
店員が野菜の天ぷらを運んできて、会話がしばし途切れる。普段は店員相手にもファンサービスを欠かさない百だが、顔さえ上げなかった。
「でも、そんなこと今まで千さんに隠し通せてたんですか? 一緒に暮らしてた頃から千さんの料理食べてたんでしょ」
「今まで全部おいしいって言って食べてた。ユキはそれで喜んでた」
「なるほど……」
「そもそもオレ、ユキの料理だけじゃなくて、多分料理の味全部よくわかんないんだよね。高い店の料理もコンビニの弁当もおいしいなって思うし。嫌いな食べ物も全然ない」
三月は唸る。料理の味がわからないというより、拘りがないのだろう。いわゆる味音痴というやつだ。確かに三月とて、まずい苦手だと言われれば以後の味付けを調整もするが、おいしいと言われれば、その後特に考慮することはない。現に何度も百と食事をした三月も気がつかなかった。
「確かにいますよね、そういう人。作るこっちとしては文句言われなくて楽ですけど」
「ホント? 作り甲斐ないな、とか思わない?」
「オレは思わないですけど、確かに専門学校にはそういうこと言ってた奴もいたかな」
それを聞いた百は机に顔を突っ伏した。嘘はつけない和泉三月である。千がどちらのタイプかはわからないが、中々に手の込んだ料理を作るなとは思っていた。前に事務所でクリスマスパーティーをした時には盛り付けにも随分拘っていた。
「三月、頼むよ……。必勝法とかないの……?」
「必勝法……。あっわかった。スタッフに答え教えてもらいましょうよ」
「オレもそれは考えたけど、当たっても外れても面白いと思われてるっぽい。それに答えを聞いたことがユキにばれたら困る」
百は酷く真面目な顔で言うのだが、話の中身はなんだか間が抜けていて困る。笑ってしまったら気を悪くするだろうか。
とりあえず今わかることとして、どうやらこの場は先輩が奢ってくれそうだ。それを確信した三月は日本酒のメニューを手にとって店員を呼んだ。

*    *    *

そもそも幼少の頃から、百は料理の味に頓着などなかった。とにかく量が欲しかった。いつでも何か食べたかった。九十分間、頭を使いながら走り続けるというのはそういうことだ。意識的に肉を食べるようになったのもコーチがそう言ったからで、普通の食事では壊れる分の筋肉に作る分が追いつかなかったというだけだ。
だから全然困らなかった。突然食事が食パンとゆで卵だけの質素なものになったって。一日二食か、たまに一食になったのには少し難儀だったけれど、それもやがて慣れた。けれども繊細な同居人はどうやらそういう訳にもいかなかった。
「好きな食べ物なんですか?」
呼吸を整えて百は尋ねる。大声で歌っても構わない場所というのは案外町中にはなくて、公園のベンチから子連れの母親が不審そうな目でこちらを見ていた。
「野菜とか果物。マスカットとか豆とか」
「マス、カット……」
そう言われた時に一瞬、モモにはそれがアメリカ大統領の名前か何かのように響いた。嫌いではない。けれどもぶどうの中でも、マスカット。モモは生涯でマスカットを何度食べたことがあるか考えてみたが、ちっとも思い出せなかった。マスカット味のジュースの方が余程馴染みがある。
「普通のぶどうじゃダメなんですか?」
「甘すぎるから」
品種による味の差なんて考えたこともなかった。マスカット以外には何があるだろう。巨峰というのはあったと思う。デラウェアは多分衣服ではなくぶどうの名前だ。でもユキさんは巨峰でもデラウェアでもなくて、マスカットが好きなのだ。百はなんだか嬉しくなった。大好きなRe:valeの音楽は、そういう細やかな違いを好むような人から生まれてきたのだ。だからその時から、デラウェアは特別になった。ライトグリーンのぶどう。Re:valeのユキの色。
けれども千が思う存分デラウェアを食べられるようになる日はそうすぐに来るとは思えなかった。デラウェアどころか普通の野菜や果物さえ危うい。野菜というのは贅沢品なのだ。大学にも実家から通っていた百は、そういうことを初めて知った。
百が千の肌荒れを心配するようになった頃、百の耳たぶには穴が空いて、千は震える手で包丁を握るようになった。
それからの千の上達振りは目を見張るものだった。料理を始めたばかりの一人暮らしの男児というものは、もう少しめちゃくちゃをやるものではないだろうか。べちゃべちゃした炭が混じったチャーハンだとか、固くて生臭い人参の煮物だとか。少なくとも百の周りはそうだった。もういない、百の周りは。
その点、千はとてもスマートで、百がどこからかレシピ本を手に入れてくるとそれに載った料理を順番に制覇していった。百は毎日のように千を褒めそやした。その本が一通り終わると千は尋ねた。
「モモの食べたいもの作ってあげる。何が食べたいの?」
「なんでも好きです!」
「何かあるだろ。好きなものとか、嫌いなものとか」
「全部おいしいです! ユキさんのご飯が世界一おいしい!」
元気一杯そう叫んだ。嘘を吐いたわけではない。少し大袈裟にはしゃぎすぎてしまっただけなのだ。その失敗を今でもずっと引きずっている。
だってそう言うと、千はとても幸せそうに笑うから。曲が作れなくて落ち込んでいる千が、食事を作って、百がそれを食べるだけで喜んでくれるから。その姿を見て、百は少し千のことがわかった気がした。きっとそういう性質の人なのだ。誰かに何か作って、それを受け取ってもらうことが歓びになる人。
ちゃんと最初に伝えておけばよかった。でも、なんて?
百が言いそびれている間に千の料理はどんどん上達して、それに比例するようにRe:valeは有名になって、反比例するように二人で食卓を囲む時間は少なくなった。千がどこぞのバラエティで初めての料理コーナーを持った頃、二人は別々に暮らし始めた。
千が秘密を嫌うことを、百はつい最近知った。その事実を百が今まで知らなかったのは、百の隠し事が露呈したのが初めてだったからだ。けれども百は困っていた。だって些細な嘘なんていくらでもある。千が初めての海外撮影に行っている間、ロビー活動に精を出しすぎて体調を崩したこと。千を取り込もうとした星影の一派を懐柔しようとして、百の方が星影から睨まれたこと。今でもあの人の顔を正面から見られないこと。百が千を見ている時に考えること。見ていない時に考えること。百が生きるためにそれらは必要だったし、千にはいらない。それだけのことだ。そんなことをいちいち千に伝えてどうする。
言えないことが星の数程あった。それはこれからも呼吸をするように増えていくのだろう。そうやって、千に愛想を尽かされるまで生きていくのかもしれなかった。

*    *    *

親の仇のように百が目の前の皿を睨む。意を決して力強くスプーンを握り、牛肉と玉ねぎを掬い、噛む。そして大仰に飲み込む。テレビみたいな動作をする人だな、と天は思った。
「どうですか」
「……お肉がやわらかくて、おいしい」
「よかったですね」
カットだ。コメントはともかく表情があまりにも硬い。天は頭の中で編集指示を出した。
百がオフの日にわざわざ連れてきたのは高級住宅街の中に佇むロシア料理の店だった。百が天を同行させる店のチョイスとしては珍しい。そう思って訝しんでいたら事情を聞かされた。クイズで千の料理を当てるために、わざわざシェフ側の料理をお忍びで食べに来たと言うのだ。それをプロ意識と言っていいものか、天には少々判断が付きかねた。
「おいしいけど、オレこんな料理食べたことあるのかな。そもそもビーフストロガノフって何? シチューとは違うの?」
魔法使いの名前っぽい、と百は呟いてもう一口掬った。
「ビーフストロガノフにはサワークリームが入っていたと思います。白っぽいでしょう」
「なるほど……。あとオレ、シチューの白くない方とハヤシライスの違いもいまだによくわかんないんだよね」
ちっともわかっていなさそうだ。天はボルシチを啜る。見た目でじゃがいもだと思っていたのはりんごだったらしい。
「こっちにもサワークリームが入ってますよ。食べてみますか?」
「いいや。多分番組でも肉料理が出ると思うから。他の物食べると味忘れそう」
百の表情は真剣そのものである。
「百さんが味音痴なのはわかりましたが、その割にはおいしい店に詳しいですよね」
「グルメな人と一緒に行って感想聞いとくんだよ」
そういうやり方を使う人だと知っているので、今更驚きもしない。百にとって食事とは多分に外交の手段なのだろう。まさに天自身が、こうしてその恩恵に預かっているように。
「一緒にご飯食べるとどういう人かもわかるからさ。好みのお店とか知っといたら便利だし」
そう言うと百はいつも通り大きな口を開けて残りを平らげ始めた。味わう気はなくなったようである。そもそも百は食べるのが早すぎると天は思う。ちゃんと噛んでいるのだろうか。
「おいしかった! 本番はもう少しわかりやすい料理ならいいけどな……」
「わかりやすい料理って、例えば」
「すき焼きとか。ユキはすき焼きにトマト入れるから」
「ロシア料理ですき焼きは出ないでしょうね」
大体それでは別の料理になるではないか。運ばれてきた紅茶を啜って天は溜息をついた。
「そもそも料理の味がわからないくらい、あの人、気にもしないでしょう」
「そうかなぁ……」
天にも共感できないではない。大切な相手だからこそ、隠したい事はいくらでもある。例えば自分があの家を去った本当の理由だとか。でもどう見てもこれは違うだろう。こんな事まで秘密にしてどうする。小出しとか、ガス抜きとか、そういう言葉がおおよそ似合わない不器用な人である。
「こんな所で油を売っていないで千さんの家に食べに行ったらいいでしょ。一緒にご飯を食べるとどういう人がわかるそうですよ」
「天が冷たい……」と百は呻く。心外だ。天は店員を呼んで、さっきから気になっていた自家製ジャムのクレープを追加で注文した。

*    *    *

後輩のアドバイスに従ったという訳ではないが、番組の数日前に百は千の夕飯のご相伴に預かれることになった。
別々の家に帰るようになってから、百はルールを定めた。千との食事の優先順位は一番下にすること。人と人とのコミュニケーションに最も重要な晩御飯という機会は、基本的には一日一回しか訪れない。万理を探すために百に残されたチャンスは千四百と五回しかなかった。しかし、千にそのルールを遠回しに理解してもらうのはなかなか骨の折れる話だった。始めの頃、何度言っても千は平気で百の分の食事を作った。百は帰ってくるものとして勘定に入っていた。そうではないと伝えるために、百は必要以上に千の家に近付けなかった。
もっとも、それは昔の話で今はそんな時限爆弾を気にする必要はない。ないのだが、期限が取っ払われたからといって突然ルールを改訂するというのも現金な話だ。千だって困るだろう。だから結局、百は百なりの言い訳がないと千の家には寄れないままで、今日の食事も一ヶ月ぶりのことだった。
家で待っていたら予定より早く「着いたよ」と千から連絡が届いたので、慌てて冷蔵庫から荷物を取り出して、駐車場に降りる。
「ごめん、お待たせ。早かったね」
「この後モモとご飯食べるって言ったら、おかりんが早めに終わらせてくれた」
なんだか気恥ずかしくて、百はそれに上手く返事ができなかった。自分からそれを言い出すならどうということもないのだが。車はまっすぐ千の家に向かっているようだった。
「スーパーは? 寄らなくていいの?」
「ネットで頼んでおいたから大丈夫」
残念だ。米を運ぶくらいしか手伝えることがないのに。混雑し始めた夕暮れの道を抜けて、二十分程で千の住むマンションに着いた。家につくと早速千はワインを開ける。飲みながら作るつもりらしい。
「これ、おみやげ」
百が差し出した袋を覗き込んで、千は顔をほころばせた。
「マスカットだ。どうしたの急に」
「親戚から届いたんだけど、母さんがオレの所にも回してきてさぁ……」
母親は勿論気を使って送ってくれているのだろうが、百の家といえば冷蔵庫にはビールしか入っていない有様だ。そんな生活の主にとって、生ものの消費期限は余りにも短い。放っておくと腐るし、腐ると生ゴミを捨てなければいけない。要するに処分がとても面倒なのだ。どうにも百の親は未だにトップアイドルたる息子の暮らしを把握していないところがあるようだ。それは勿論百がきちんと話していないからであって、百自身の責任なのだが。百は未だに、出ていったあの家との距離を測りかねているところがあった。親や親戚が送ってくるそれらは大抵岡崎事務所に横流しされることになるのだが、今回は開けてみるとマスカットだったので百は珍しく隙間の時間で母親にお礼の電話をかけた。手土産があるので、今日は千と食事をしてもいいのだ。
余程嬉しかったのか千は貰ったばかりのぶどうを皿に移して、もうつまんでいた。果たしてワインとマスカットの食い合わせはいいのだろうか。百が隣に腰掛けると、千は百のグラスへワインを注ごうとする。
「あんまり飲まないよ」
「なんで」
なんでも何も、明日は早朝から仕事なのだが。けれども普段はそんなことで断る百ではないから、千が拗ねるのも仕方がない。
「来月からオレ、ドラマの撮影始まるじゃん? ちょっと身体絞らないとまずくてさ」
「別に太ってないと思うけど……」
「ダーリン超ジェントル! でもそれは違う、全然違う! あと五キロは落とす!」
百とてアイドルなのだから、体型の管理も仕事の一環である。普段から気を遣いたいのは山々だが、少し代謝が落ちるとすぐに太ってしまう質なのだ。逆に運動すればすぐに痩せる。千にはそれがよくわからないらしく、百が調整を始めると過剰に心配をする。その理由もわかってはいるのだが。
「そもそもちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ! 新年会でマジで太ったから! お腹触る!?」
「触る」
即答した千が無遠慮に腹を摘む。色気の欠片もない仕草がおかしくて二人でしばらくげらげらと笑った。
やがて料理をする気になったのか、千は立ち上がった。百はワイングラスを持って後ろを着いていく。
「何作るんですか、シェフ?」
千は黙ってコンロの下からトマト缶を取り出した。冷凍庫からはジップロックとラップで厳重に包まれた薄切りの牛肉。冷蔵庫からねぎ、白菜。春菊と糸こんにゃくで百はようやく検討がついた。
「すき焼きだ!」
「うん」
実家にいた頃は、特別な日にすき焼きが出た。それは多くの場合、百が上げた何らかの戦果の結果だった。トマトを入れるのは春原家の作法で、母親が家庭で作れる絶品料理とかいう番組で見たらしい。瑠璃は毎回のように意地悪く「百のお祝いって言ったって、百は全然味なんかわかんないじゃん」と宣った。遠い記憶だ。
一緒に暮らしていた頃、百が何の気なく「すき焼きって特別な感じがしますよね」と言ってから、千は何でもない日にすき焼きを作る。千の中には特別な何かがあるのだ、きっと。
食べ比べを攻略するヒントでもあればと思って、百は千の手元を覗き込む。
「トマト缶は? オレ開けようか?」
「缶詰潰さないで」
「潰してない!」
そうは言うものの、明らかに邪魔だったので台所からは撤退してソファに座って千を眺めることにする。千はキッチンに佇む姿も優雅だ。まな板を傾けて包丁で鍋にネギを入れる仕草だって、あんな風に映える人なんていない。百は本気でそう思っている。千が料理番組に起用されるのは、テレビの向こうの視聴者にも仕草を通じて料理の味が伝わるからに違いないのだ。
「ユキのご飯食べるの久しぶり」
千の背中に百は話しかける。
「そうね。モモが来ないなら他の子呼んで食べてもらおうかな」
けれども千はそんなことはしないのを知っている。大和を家に呼んだ時も食事は野菜ものばかりだったと聞く。つまり本来千の二食分になるはずだった食事を分けてもらっただけだ。千は基本的に、百以外の来客のためには食事を作らない。何故なのだろう。その理由を、百は知っているような気も、知りたくないような気もした。
「若い子の方がたくさん食べるもんね。その方が作り甲斐ある?」
「量を作るのは面倒」
お皿と鍋敷き出して、と千が声をかける。
トマトすき焼きと赤ワインと、デザートにデラウェア。千が「案外あう」と言うからきっと間違いない。百は両手を合わせて箸を取った。
「どう?」
「おいしい! イケメン! 世界一!」
いつも通り答えると、千はおかしげに喉の奥の方をくつくつと鳴らした。なんだか妙な反応だ。
「……何か入ってる?」
「ううん。結構いい肉入れただけ」
「なんで!?」
まだ大して噛みもしていない二つ目の肉塊を百は飲み込んでしまった。物の値段に執着しない嫌いがある千が「いい肉」だなんて、余程の高級品だ。もったいないことをした。それを言うならば百にこんな物を食べさせる方がもったいない話だが。
「マスカット持ってきてくれたから、お返しにと思って」
まずい、今のは気付けた方がよかった。味のわからない男だと思われたら困る。これまでの苦労が台無しだ。何の意味もなくこういうことをするのはやめて欲しい。大体、マスカットのお返しだなんて嘘だ。百が食べに来るというから、前から用意していたに決まっている。それが冷凍庫から出てきたのは、百が百のための言い訳を上手く用意できなくてこの機会を一回引き延ばしたからだ。
「そういうイケメンなこと急にしないで……心臓に悪いから……」
「モモが全然食べに来ないから、予算が貯まっちゃうんだよね」
百に優しくしたい期間、というやつらしい。けれども急にそんなことをされても百は困ってしまう。大体その言い方を借りるなら、一緒に暮らしていた頃から千はずっと優しかった。唐突に車をあげるだのなんだのとおかしなことを言い出すのは多分、百が千と共に食卓を囲むことがなくなって、千の優しさの行き先がなくなってしまったからだ。
千は何も隠さないのだ。今だって、ワインを飲んでご機嫌で、手の中でマスカットを弄んでいる。人に上等な肉を食わせて、どうしたって幸せそうな顔をしている。そんなにわかりやすい顔をしないで欲しい。百ならば考えてしまう。露呈してしまったらどうしようとか、そうなったら千はどう思うだろうとか、それならいっそ言わない方がいいだとか。千はそういうことを何も心配しないようなのだ。だからこんな風に、無邪気に笑う。百には全然わからない。百に一体どうして欲しいのだろう。望んでくれれば、百はそれを叶えてみせるのだが。
今なら言えるのではないだろうか。ふと百は思う。あのね、オレずっと前から。それだけでいいはずだ。けれども何度か口を開いた末に、百にはどうしても切り出すことができなくて、開いた口にはこんにゃくを詰め込んだ。結局百はあの頃から何も進歩していない。千は笑っていて、すき焼きはおいしくて、二人共少し酔っていた。ここは完全で、幸福な食卓のように見えたのだ。

*    *    *

TRIGGERの出番まではあと二時間もあった。楽も龍之介も前の仕事が押していて直前まで来れない予定だ。台本は十分読み込んだ。隙間の時間にできるそれ以外の仕事は持ってきていない。つまりそういう理由だ。心配していた訳でもない一つ上の階の先輩に挨拶をしに行く気になったのは。階段を登って楽屋の扉をノックするが、いつもの声は返ってこない。しばらく立っていると「どうぞ」と声があった。きっと自分が返事をするべきだという事実に思い当たるのに時間がかかったのだろう。扉を開けると、案の定そこにいたのは千一人だった。
「おはよう。モモならまだ来てないよ」
「そうみたいですね」
ここで帰るのも奇妙な素振りだろうが、どうしたものか。すると千が「おやつをあげよう」と声をかけてきたので大人しく向かいに座る。ケーキでも出るのかと思ったらのど飴を差し出された。この前のブリヌィは美味しかったな、と思いながら天はそれをポケットにしまった。
「今日の収録の話、モモから聞いてる? 僕の料理とお店の料理で食べ比べするんだって。モモ当てられるかな」
「どうでしょう。でも百さん、いろんなお店知ってますよね」
天は慎重に言った。あれでも一応先輩の機密事項だ。
「そう。すぐ他の人とどこか行っちゃうんだ。五年もやってるのに餌付けが全然上手くいかない」
「……人に食事を作ることを普通は餌付けと言わないのでは」
「僕もそう思った。何て言うんだっけ」
「胃袋を掴む、とか……」
「そう、それだ」
正しい言葉を覚えていたのか怪しいものだ。そして千の口振りから、天は一つ思い当たることがあった。
「……もしかして、知っていたんですか?」
最初は何を問われているのかわからなかったのか、千はしばらくきょとんとしていたが、やがて目を細めて言った。
「当たり前だろ。ずっと一緒にいたんだよ。気付かないはずないじゃないか」
得意げに千は言うが、随分と迂闊な発言だ。千が百に関して気がついていないことなど山程あるし、そういう顔を千よりは知っているつもりだ。
「百さんに言ってあげればいいのに……」
「だってモモは何も言ってこないから。なんて言えばいいの? 『お前の隠していることはお見通しだ』って?」
百の味方に立つ事が多い天だが、こればかりは千が正しい。大体天だって贔屓はしていないつもりである。千が滅茶苦茶を言うことが多いだけだ。
「それに何か隠そうとしてる時のモモはリスみたいでかわいい」
前言撤回だ。滅茶苦茶を言っている。
「モモと一緒に暮らしていた時のこと、多分、僕は一生忘れないと思うんだ」
二人が一緒に暮らした時間など一年にも満たなかったと聞いている。それでも天はそれを茶化す気にはなれなかった。共に食卓を囲んだ僅かな時間をどれほど千が誇りに思っているか、わかってしまったからだ。それは自分が弟一人のためのアイドルだった時代に抱く気持ちと同じものだったから。
「今日の収録、楽しみだな」
千がそう言うと同時に扉が開き、楽屋は急速に賑やかになった。

*    *    *

フライパンの蓋を取ると、刺激的な香りが台所に立ち込める。三月はカレー作りの中でこの瞬間が一等好きだ。最初は別々の素材だったスパイスと玉ねぎがここに来て一つの料理として調和している。オレ達みたいじゃん、とは流石にクサくて言えないけれど。スプーンで掬って味をみて、塩を少し足す。時計を見ると、ちょうど七時を回ろうとしていた。
「陸ー、テレビ点けてくれー。Re:valeさんが出てるやつー」
食器を並べていた陸がチャンネルを回す。仕上げのガラムマサラを加えて皿に盛ると、三月も食卓に着いた。今日は陸以外のメンバーは遅くなると聞いている。
「この番組、三月が出てたやつの続き?」
「そうそう。百さんが選ばれたらしくてさ」
百からはお礼のチャットが届いていたが、結果がどうなったかはあえて聞いていない。その方が面白そうだったからだ。
番組はオープニングが終わり、本日の特集はロシア料理だと述べている。おいしそうな煮込み料理が次々と出てくる。一括りにロシア料理とは言うが、その種類の豊富さもロシア料理の特徴だ。あれだけ広い国ならば当然そうなる。その辺りの背景や歴史的な経緯も含めて、シェフの映像も挟みながらナレーターが手際よく説明していく。
「こういうの食事時に見てると食べたくなるよな」
「オレは三月のカレー大好きだよ! さっきラビチャで皆に自慢しちゃった」
「オレも陸がオレのカレー食べてるとこ大好きだよ」
百との会話を思い出して三月は笑ってしまう。
映像のメインはスタジオに移って、クイズを挟みながらRe:valeがシェフと話を広げていく。シェフのトークはぎこちないし千のトークは上手い方ではないが、百が間に入ることで親しみやすさが増している。こうやって複数を相手にする立ち回りも勉強するべきだな、と三月は素直に感心した。
陸と三月がカレーを食べ終わった頃、問題のコーナーがやって来た。
「それではお待ちかね、実食のコーナーです! こちらは百さんにお願いしましょう!」
「やった! オレ食べていいの!?」
「ただし、百さんには二つの料理を一口ずつ食べてもらって、千さんの手料理を当ててもらいます。不正解なら、後は没収!」
「嘘でしょ!? オレ今日超腹減らしてきたんだけど!?」
百の悲痛な叫び声を背景に、料理が運ばれてきた。前半でも紹介があったピロシキだ。パンで具材を包んだロシアの代表的な料理だとは三月も知っていたが、実は具材は肉に限ったものではないそうだ。
「千さんはどうですか? 感想は」
「僕はこういうことに慣れてないから大変だった。でも頑張ったよ。当ててね、モモ」
百がスタジオの正面に出てきて座り、「いただきます」と手を合わせてピロシキをちぎる。断面のアップ。確かにこちらの中身はキャベツの炒め物のようだ。百が咀嚼し、喉仏が動く。眉を顰めた真剣な眼差しがアップで抜かれる。あまりの真剣さに、今日まで三月が付き合わされた茶番はこの番組のための練習だったのではないかとさえ三月は思えた。そしてもう一皿からも。咀嚼し、飲み込む。百が奥の席に座る千の方をちらりと振り返った。千は何故だか笑っているように見えた。
「さぁ百さん! お味の程は――!?」
ドラムロールの音がなり、緊張は最高潮だ。そこで突然画面が切り替わり、長閑なBGMと共に明るい部屋で女性が掃除機を掛け始めた。衝撃の正解はCMの後で、だ。
「三月、どっちかわかる!?」
陸が期待の眼差しで三月を見つめる。今やバラエティには出演する方の身である陸だが、テレビの前からでも全力で楽しむのが陸流である。
「中身が全然違ったけどな……。でもどっちが千さんだろ……」
「お肉がいっぱい入ってる方が千さんのじゃない? 百さんのために作ったならそうすると思う!」
「お、それ当たってるんじゃないか? 夫婦漫才的においしいし」
そう言っている間にコマーシャルは終わり、再びドラムロールが鳴り出す。そして鳴り止み、画面は百の大写しだ。ゆっくりと口が開かれる。
「ごめんね……これ……。オレ全然わかんないよ……」
百が俯いて、スタジオが静まり返った。画面の前の三月も思わず息を呑んでしまう。味音痴だなんて間の抜けた悩みだとは思ったけれど、まさか番組中に言ってしまうとは思わなかった。千はどうコメントするつもりだろう。同業者としては百がここからどうやって場を盛り上げるのかも気にかかる。いやでも。それはそれとして。一体どうなってしまうんだ。三月はその瞬間、この番組が収録であることも忘れて画面に見入っていた。永遠とも思える沈黙の後、会場はどっと湧いた。
「大正解!」
「こちら、どちらも一流シェフの料理でした! 同じピロシキですが、それぞれヨーロッパ風とシベリア風ですね」
「流石ですね、百さん。見破られるとは思いませんでした」
「わかるか普通!? 相方愛だなやっぱ!」
爆笑するキャストとテロップが入り乱れて途端に画面が賑やかになる。「そういうのありなの?」と言って呆然とする百のアップ。当たっても外れても面白いと思われている。そう言った百の見立てはどうやら正しかったようだ。
「百さんすごいなぁ! やっぱりずっと食べてたらわかっちゃうんだね」
陸は無邪気にそうコメントした。テレビの中の百が千をもう一度振り返る。奥に映る小さな千はやっぱり笑っているように見えた。

*    *    *

収録は無事終わり、撮れ高は上々。シェフの店で行われた打ち上げではプロデューサーも百のアドリブを大絶賛。そして深夜の百は千の家のソファで三角座りをしてむくれていた。
もう芸能界も長いと言うのに、あんな屈辱を受けるとは思わなかった。百だってプロだ。あの回答のフォローもその後の展開も色々と考えていたのに。もともと料理をする必要があった千は当然事前にこのオチを知らされていただろう。知らなかったのは百ばかりだ。千はと言えば収録が余程面白かったのか、家に帰ってからずっと機嫌がいい。スタジオで爆笑しなかっただけ褒められるべきだが。
「今度ピロシキ作ってあげるから、そんなに拗ねないでよ」
千が百の頬をつつくが、別に千の料理が食べられなくて落ち込んでいる訳ではない。千には百がどんなに惨めな気持ちでいるかわかるまい。一世一代の告白のつもりだったのに。百は膝を抱えたままくるりと千に背を向ける。千は諦めて台所に行ってしまった。もう少ししつこく百の機嫌を取って欲しいものだ。
何か仕込み始めたらしく、そのうち香ばしい匂いが漂ってきた。何を作っているのか百にはさっぱりわからないが、百の好物であることだけは間違いない。千の作る物に百の好物でないものなどないのだが。
言えないことが無数にあった。それはこれからも増える一方で、百はいよいよはち切れてしまいそうだった。少しばかり、百の負担を減らして欲しかった。
ソファから立ち上がってキッチンに回る。鍋の中を覗き込むと、豚肉の塊が濁った汁の中で静かに煮えていた。
「これ、明日食べれる?」
「朝から食べるならいいけど」
それは衝動だ。千の驚いた顔が見たいと思った。
「ううん。夜ご飯」
千が目を見開いた。百は明日のための言い訳を何一つ持っていなかったからだ。百は黙って千を見つめ返した。


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亜鉛、あるいは菜食主義者の一人暮らし

空腹だと感じている内は、腹が減った内には入らないのだ。放っておくとその内にキリキリと痛みだして、最後に何も感じなくなる。それでようやく空腹だ。一日一食と半分しか食べられなかった暮らしで学んだ。
そういう訳で、百は腹が減っている気がしなかった。時刻は夜の九時。昼食を食べたのが午前九時なので、丸十二時間何も食べていないことになる。何か食べた方がいいのはわかっているが、一刻も早く眠りたかった。明日も家を出るのは早い。
早朝五時から放送されるニュース番組に、コーナーのゲストとして週二で出ることになった。夜の十一時には寝て、朝は二時に起きる。電車は動いていない。岡崎を起こすのも申し訳なくて、百は自分で車を運転することにしている。そこから六時の番組に出て、あとはもうどうしようもない。普通の人々と同じようにスケジュールが始まる。
千と別々の暮らしを始めて一ヶ月。百の生活はめちゃくちゃだった。
今にも瞼が落ちそうだが、胃に何かいれないと眠りも浅くなる。渋々「非常食」と書かれた段ボールを漁ると、カップラーメンを発見した。季節限定のミルク味に湯を注ぐ。千には渋い顔をされるが、百はコンビニ食が結構好きだ。行く度に新しい商品が出ているので話のネタになる。
立ち上る湯気を顎にあてながら緩慢な動作でラビチャを返していく。途中で一瞬意識が途切れて、気がついた時には五分以上が経っていた。その後で段ボールの中から割り箸を探すのに、また五分を要した。
口に入れた麺は、なんだか妙に水っぽかった。もともと料理などできないが、ついに決められた線まで湯を注ぐことすらできなくなってしまったか。しばらく噛み続けていて、水っぽいというより全く味がしないのだと気が付いた。風邪だろうか。しかし体調は悪くない。まるで舌が切り取られてしまったように、味覚だけが消えている。スープまで腹に収めてから百はスマホを開き、「味 しない」と粗雑な検索ワードを打ち込んだ。一番上に表示された広告だらけのページに目をやる。
味覚障害の原因は亜鉛不足! ページの一番上ではゴシック体がそう主張していた。なんだか地味な病気があるものだなと百は思う。鉄分が足りなくなと貧血になることくらいは百も知っていた。高校で付き合っていた彼女がいつも顔を真っ白にしていたので。しかし亜鉛とは。理科の授業で名前を暗記した記憶しかない。
ページをスクロールしていく。普通に暮らしているならば十分足りるはずの亜鉛が、食生活が乱れると不足してしまうことが原因らしい。清涼飲料水を毎日三本以上飲む人は要注意! という文字を見つけて思わず笑ってしまう。オレじゃん。ページの末尾にどぎついマゼンタが「でも忙しくて栄養バランスに気を使えないアナタにはこれ!」と栄養ドリンクの存在を謳っていたので、百はそこでタブを閉じた。
貧血でなくてよかったな、と思う。百が何も言わなければ誰にもばれることなどないだろうから。次の飲み会ではもう少し気をつけて意欲的にカキフライを食べるようにしよう。

そこからは怒涛の飲み会だった。早すぎる忘年会のシーズンが始まってしまったから仕方ない。ただでさえ多忙だった百のスケジュールは尚更しっちゃかめっちゃかになった。もう流石に呼ばれれば何処へでも顔を出すような仕事の仕方はしていないが、宴の席となれば話は違う。今のやり取りはなくても将来の仕事のために顔を売りたい相手はいくらでもいる。信用は築くよりも、維持する方がずっと難しいのだ。スタジオからロケ先、チェーンの居酒屋から高級フランス料理店まであちらこちらに駆け回った。一日五食食べた翌日は一日一食しか食べられなかった。そうしている間に胃の隙間にアルコールを流し込む。カキフライは食べ損なった。
連続七日の飲み会を終えた夜、ようやっと忘年会ラッシュは一段落した。久しぶりに全うな時間に静かな晩御飯が食べられるらしい。
誰を誘おうかな、とアドレス帳を開きながら百は考える。一人で食べるという選択肢はなかった。会合がなくとも、この時期に声を掛けておきたい業界人などいくらでもいるのだ。このプロデューサーとは一昨日話したから大丈夫、この新人さんは多分来週の打ち上げで会うことになる。さっき覗いたバラエティの打ち上げに混ぜてもらうのはどうだろうか……。チャットの窓を切り替えながら廊下の角を曲がると、そこには思わぬ人物が立っていた。白銅色の長い髪に黒のコート。百がついこの前プレゼントしたばかりのカシミアのマフラーを巻いている。見間違えるはずもない。千の方も百に気が付いてゆるゆると手を振る。
「ユキだ! どうしたの? 今日ここで収録じゃないでしょ」
「スケジュール変更になったんだ。来週の撮影、先にしてきた」
「教えてくれたら遊びに行ったのに……」
「モモはモモの仕事で忙しいだろ」
そこで百は少し違和感を覚えた。千はいつでも楽屋に百を呼びつけたがるというのに。
「今日は誰と食べに行くの」
「え……」
何故だか百は試されているような気がした。千に、ではない。何かへの正しさを求められている気がした。
「イケメンな相方と……?」
「へぇ、そうなんだ。いいね」
そう言うと千は勝手に背を向けて歩きだしてしまう。慌てて百はその後を追いかけた。

家に着いた千が冷凍庫から取り出した分厚い牛肉を見て、百は目を丸くした。
「ス、ステーキ……!」
「下拵えする時間ないから、焼くだけ。いい?」
「うん! すごい!」
牛肉が流水で解凍される間に千は手早くサラダを作り上げた。冷蔵庫から豆腐やらトマトやら百の名前の知らない葉っぱやらが次々と出てきて、刻まれて、スプーンとフォークの化け物みたいな匙でぐりぐりとかき混ぜられた。野菜は少しばかりしなびているような気もしたが、もしもそうであるなら百は千の家の冷蔵庫の片付けに貢献できることを嬉しく思う。
「あ」
最後に軽く炒ったナッツとごまがボウルに加わったので、思わず百は声を上げた。亜鉛が豊富な食べ物だと、この前読んだばかりである。
「なに」
「いや、なんでも……」
マネージャーにさえもバレていないのだから、千は勿論何も知らないはずだ。野菜ばかり食べる人だから、偶然栄養価の高い食事になっただけだろう。
千はサラダをよけて、氷水に手を突っ込んで肉の塊を引き上げた。さっきから野菜を洗ったりなんだりと忙しなく冬の水道水に触れていた指の先は赤く染まっていて、百にはそれが痛ましかった。千はお構いなしに、半分解けた肉に塩やら胡椒やら刺激的な匂いのする粉やらを振り掛けて、筋を切ってからフライパンに放り込む。油の弾けるいい音と共に、にんにくの匂いが立ち上った。
「すぐできるよ。座ってて」
「うん! いい匂い! おいしそう!」
そうは言っても、今の百にどの程度味がわかるか怪しいところだが。サラダを食べればたちまち舌はいつも通りに、とはいかないものだろうか。そういう果物があった気がする。
「そう。よかった。料理するの久しぶりだから」
「え、なんで? 外で食べてるの?」
千が外食だなんて珍しい。近所に気に入った店でもみつけたのだろうか。それなら百にも教えておいて欲しかった。
「なんでだろうね。食欲ないんだ。朝と夜はあんまり食べてない」
百は顔を青くした。重症だ。何か腹に入れている分、百の方が余程マシかもしれない。言われてみると、千はここ最近ぼうっとしているし、肌の艶も欠けている気がする。現金な話である。この瞬間までそれに気が付けなかった己を百は恥じた。
けれども千は一人でも暮らしていけるはずだった。たった一ヶ月前までは、千は毎日のように食事を作ってくれていた。互いに一人暮らしを始めるにあたって、事務所から「非常食」と書かれたレトルト食品が詰まった段ボールを配給されたのは百一人だった。
だからそんな様を晒すのはやめて欲しい。百は勘違いしてしまう。役に立てたのではないかと。まだ隣にいた方が、よかったのではないかと。
「買い出しに行くのも大変だし、一人で作り置き食べてても途中で飽きるし……」
それを聞いた百は千のパソコンの前にすっ飛んでいって、スーパーの通販サイトに登録してやった。この前のドラマで共演した娘をもつ女優に教えてもらったのだ。
食事の用意を終わらせて、百の後ろから画面を眺めながら千が言った。
「ごめんね」
千が謝ることなんて何もない。それでも百が泣きそうな顔でマウスを動かしているから、千は謝っているのだろう。そんなことはしなくていいから、きちんと食事をとって欲しかった。
「こういうのがあるんだ。便利だね」
「これでもう買えるようになったから、ちゃんとご飯食べてね」
「……モモもね」
そしてようやく二人は食卓についた。味がしないと予想していたサラダは、口に入れるとなんだか妙に酸っぱくて吐きそうだった。味覚障害が起こると味の感じ方が変化することもあるらしい。無理やり飲み込んで百は笑った。
「めちゃくちゃおいしいよ! 世界一!」
その時にようやっと、百は己の食生活を反省した。


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