起床。明け方に起きて二度寝したら寝過ごした……。

今日はサーフェイサーや解剖学のことを考えつつもちょぼちょぼ仕事をする。昨日の日記、私の今後の趣味が押入れになるみたいに読めるな。部屋の装飾に気を配るという話です。
そろそろどこかで夏季休暇取ろうかと思う。未だにお盆っていつ辺りを指すのか、それは誰が決めているのか、よくわかっていない。盆は正月と違って祝日法に制定がないから覚えられないのだと思う。
退勤。元気を奮い立たせて近所のスパイスが入手できる店を調べ、カレーのレシピを選定し、足りないスパイスを書き出し、夕飯(豚ニラ卵の炒めもの)を作り、それから絵を描くなどした。しばらく漫画が描けないから絵を描こうかな。前向きで偉い。偉いけど本が読めてない。入力の行動と出力の行動って短時間で切り替わらないようになってると思う。

起床。

今日はあまり集中できず立ったり座ったりして、ずっと押入れのことを考えていた。
家に押入れがある。改めて眺めてみるとかなりでかい押入れなのに、引っ越し直後にダンボールと小さな衣装棚を放り込み、同人誌がぴったりはまるという例のプラケースを買ってこの前設置してそれきりだ。同人誌に関して今私がやるべきは収納ではなく選別だとわかっていたのに、それから逃げて本棚からケースに場所を移した。ダンボールにしまわなかったのはいつでも取り出せる、本として扱っている、というポーズを取りたかっただけだ。明白なる逃避行動だ。わかっているのに……。
同人誌ケースは脇に奥として、部屋に置いているハンガーラックを片付けて代わりに押し入れ内に服を吊るしたかった。横に突っ張り棒を渡すと相当な長さが必要になる上空間に無駄も出るので躊躇していたが、縦に渡せば都合がいいと気がついた。ニトリで安いし質もサイズも十分そう。いいぞ。
気分が上向きになったのでハンガーラックを片付ける準備として、外出自粛になってからずっと面倒がっていたコートをクリーニングに出すという用事を完遂した。コートのクリーニングってびっくりするほど高い。散髪屋の値段とブラジャーの値段に並ぶ私の価値観にそぐわない金額だ。そもそも私のような人間はクリーニングに出すべき服を買うべきでないんだろう。コートをクリーニングに出すという行為を知ったのも成人してから大分経ってからだったな。こういう常識に対して「義務教育で教えろ」という定型句があるが、税金のこともクリーニングのことも中学校で教えられたって絶対必用な時まで覚えてないんだから意味ないんだ。実学だけを学ぶ場所じゃないんだから。
クリーニングに出して図書館に寄って満足して帰った。ニトリは、このアイディアをもう数日置いておいて、尚これでいけそうだと確信ができたら行く。
ふと思ったが、仕事の途中に突っ張り棒のことを考えたり数日アイディアを捏ねくり回したりするのは趣味の萌芽とも言えるんじゃないだろうか。絵を描くことと文字を書くこと以外に趣味らしい趣味がないので、そうなら嬉しいな。まぁそれで十分だと思っているのだが。絵を描いていない時間、字を書いていない時間、つまり今については、将来の創作のために準備をしている時間なので創作をしている時間の一部と見做して自分を慰めている。皆さんはどう思いますか。なんの役にも立たない無価値な人間だと思いますか。それもまた一興だな。
「専門知は、もういらないのか」読み始めた。読まなければいけないだろうな~と思ってはいたが1ページ進むごとに落ち込む……。

起床。

頑張って一九八四を読んだ。案外直接的な(古典的な)ディストピアだったな。一番面白いと思ったのは付録にもあったように、国家が人民の思想を支配しようとしたときにどんな言語になるかという考察だった。むしろこれだけで一本ディストピアSFが書けそうな題材なのに背景として扱われており(扱われ方は巧みだが)表舞台にはほとんど出てこず、しかし付録で主役を張るのが不思議な感じ。
思想を制限しようとする時に言語に含まれる単語を削る方向に進むというのはさもありなんという気がする。具体的なその手段として、形容詞においてはある語を定義した時にその反対語は否定語をつければいいだけなのでどちらか片方しかいらない、というのもリアリティがあってよかった。形容詞は感覚と思想を担う品詞なので。
ディストピアものはどうしても現実と比較するという観点が出てきてしまうが、小説内の直接的暴力、記録の改竄、生殖のコントロールあたりは現実にも行われることとして、(言論ではなく)言語の改変だけがまだ達成されていない項目なのでその辺りにSF的面白さを感じたのかも。最近だとプログラミング用語のmaster/slaveが廃止されるという話があったが、私はこういう行動はもっと慎重であってもいいと思う。使う人がどんな単語を選ぶかというのは一番小さな思想の単位であるはずだから。それゆえに強制的にでも廃止させたいのかもしれないが。
大神をクリアした!
いいゲームだった……。謎解きは楽しかったしアクションもちょっと苦労したがほとんど悩まずに進められたし、走っているだけで楽しいのが何よりよかった。シナリオも笑いあり涙ありという言葉がぴったりで事前評判通りクライマックスにはちょっと泣かされた……。泣いたが……最後に主人公(狼)が相方(コロポックル)を地上に置いてライバルキャラ(月の民)と一緒に天界に帰ってしまうのがNTRで嫌だった……俺はずっとイッスンと一緒にいたかったのに……。いやっストーリー上これが相応しい終焉の構図だとは理解している……。だが……だが……。ウシワカあの場で死んでもよくなかったですか……?
テクスト論云々と言いつつ私は本の後書きや解説を読むのが好きなので、ゲームにはこの余韻がないのを少し残念に思っていた。が、最近クリア後に開発者インタビューを漁ればいいと気がついた。大神はプロデューサーとディレクターが2006年の発売当時、平日毎日更新していたブログが残っておりお腹いっぱいになった。abemaブログ。時代を感じる。記事に貼られている公式サイトの情報はコンテンツがなくなってリンク切れになったりする中で、こういうブログがずっと残っているのは大袈裟な表現かもしれないが、歴史的に貴重な資料なんじゃないか。

眠い……次タームは寝る前ではなく日中に更新するのもいいかもしれない……。一週間の終わりが日曜だなんて誰も決められないように一日の終わりも24時だなんて誰も決められないのだから……。

起床。返却期限が迫っている本があるので読む。私が追われる数少ない締切と言える。
pro microが届いているので早速郵便受けに取りに行った。元気がありあまって家に戻りがてらクリックポストを開封した。アメリカのホームドラマみたいだ。
アルコールを摂取し、ソファが幼少期に与える経験の話などをした。

起床。

この三文字は、毎回決まったワードで始めると執筆時のハードルが下がるのではないかという仮説に基づいて書いている。デイリーなら地主さんは「〇〇というものがある。」という定型文で記事を始める。たまに別のライターさんが同じ言い回しを使うとちょっと混乱するが、この言い回しは地主さんのものではないので不当な混乱と言える。こんなに一般的な表現でも使い続けていると読者の脳の中の著作権を専有できるものだな。
モデルが動いた。よかったですねぇ……。
飲み会で自作キーボードの喧伝をしていた。一度分離型に慣れたらノートパソコンのキーボードに戻ると違和感がすごい、云々。それでカメラに写そうとしてケーブルを引っ張ったらpro microがもげた。
面倒くさいな〜という感情が先に来た。パソコンをラックから下ろして配線を修正することが面倒くさいし明日から数日はノートパソコンのキーボードを使わなければいけないのが面倒くさい。さっきそれ言ったばっか!それから「出費が……」という悲しさが訪れ、最後に「でもpro microのもげというのは自作キーボードあるあるなので、この身でそれを体験できて嬉しい」という喜びが少量やって来た。最後の喜びのみを飲み会で控えめに共有するに留めたが、人に「悲しみが先に来ないのは金銭感覚が狂っている証拠」と指摘された。そんなことはない。
その場で新しいpro microを注文した。
どんなアイドル(商業的アイドルだけでなくユーチューバーや身近な憧れの人間も含めて)にも突然熱が冷める瞬間というものがあると思うが、私は「自分のファンを蔑むところを見た瞬間」が駄目だなと気がついた。具体的な名前は出さないが、前に好きだったアイドルが自分を熱心に擁護するファンのことを「信者」と呼んでいて、その瞬間にぱっと熱が散るのがわかった。もちろんそのアイドルは考えもなくそんな言葉遣いをした訳ではなくて、きちんとそのファン達に対して批難の文脈があり、意図的にその言葉を選んだと思うのだがそれでもなんだか駄目だった。言語化するなら、「調子に乗ってるな、こいつ」という感情が近い。
書いてみたらすごく「正しいアイドル論」みたいな主張になってしまって本意ではないし、当たり前の事を主張しているだけにも思えてきたのだが、自分が蔑まれた訳でもないのに少し不思議な話だ。