起床。

腕が微妙に痛い。腱鞘炎かも……。腱鞘炎について、名前をよく聞く実態のよくわからない恐ろしい病気だというイメージがある。腱鞘炎だとしたら原因は明らかで、春に買ったトラックボールマウスがでかすぎるせいだ。対策用にリストレストを買ってあるのだがどうやら無意識に脇にのけているらしい。ほぼ新品だが買い替えた方がいいかも……。それで朝一に自分のトラックボールがどれくらいで売れるのかメルカリで眺めた。恐らく面倒で出品なんかしないのに何故こういうことをしてしまうのか。私のお下がりのトラックボールマウスが欲しい人がいたら声をかけてください。

「春にして君を離れ」読み終わった。めちゃめちゃおもしれ~!
ジョーンをプア・リトルと呼び、蔑む権利はロドニーにも読者にもはないのではないかと思う。解説で栗本薫(の夫)が、ロドニーが現在の立場に甘んじているのは本人の判断の責任であって妻の責任ではないと指摘しており、それには大いに同意するが、同様に子供達のこれからの幸不幸は子供達自身にあるし、バーバラの自殺未遂は母親の責任にはならないと思う。ジョーンは子供を庇護すべき時代の責務を立派に果たした(レスリーと同じように自分が第一と思うことをやりきった)ことを誇ってもいいはずだ。寧ろジョーン自身の父母と同じように、ジョーンがそのような人間だったからこそ子供らが批判的にで怜悧に、自然を愛し、自由と愛のために生きるよう育った風もあったと私は思っていて(結果論として、だが、物語なんだから結果論しか語り様がない)、その背景にはジョーンとロドニーが農場ではなく法律事務所の元で働いた結果、経済的に不安のない家庭で育てられたという因果があると思う。エイヴラルが母は何もしていないと言っているが、流石にそれは当時の家庭の様を想像すれば、酷い言い様というか、的を射ていない幼い感性ではないか。例えば本が読めない学校に進んだらエイヴラルはあのような人間になったか?ロドニーも子供に与えることができたものをわかっているから今の状況に甘んじているんじゃないか。だからジョーンがいない時間を「休暇」と呼んだ。「仕事」に戻るものとして。
それに、「ジョーンのようなタイプの人間」がいて、そういう女は愚かだという見方も違うと思う。ジョーンがショーンやブランチにそうしたように、ロドニーがジョーンにそうしたように、誰だって自分の立場から勝手な想像で他人を哀れみ、育てた子供と自分の価値観が食い違って強権的になり(そうはいっても暴力を奮ったり毎日ヒステリックになったりしないんだからいい母親だ)、自分は他人とは違う進歩的な人間だと勘違いしたりする。実際、砂漠の中の田舎駅に読む本もなく置き去りにされてそういった内省を一つもしない人間なんているんだろうか?
どこまでも主観の物語だと思う。例えばジョーンが一時的に得た思考を元に、帰ってきてすぐにエイヴラルに「罪」を告解したとしても、エイブラルにしてみたら「だから何?」といったところだろう。それでエイヴラルが子供時代に得た思い出が美しいものに変わるわけではない。でもそれと同様に、ジョーンの認識が旅に出る前に戻ったとしても、事態は何も悪い方向には向かっていないのだ。
酒が飲みたくなったので飲み会を調停した。
偉いので今日も少し仕事をして、モデルが動くようになった。よしよし。
使っている技術が一応今流行の……というやつなのだが、そういうものについてウィキペディアのページを見るとでかい歴史の中の些細な1ページ(文字通り)にすぎないということを実感できておおらかな気持ちになる。
「申し上げにくいお願いですが」から始まるウィキペディアの寄付願いに応じると簡単なアンケートがついてくるのだが、寄付理由を聞く選択肢に、寄付をお願いするメールの文面がよかったから、という選択肢があって笑った。そこの魅力自覚あるんだ。

起床。

三連休の中日なのでだらだら仕事をする日にする。休みってまとめて来るより週の真ん中に来てくれた方が嬉しくないか?もっと言うとまるっと休日があるより一日の労働時間が短くなる方が嬉しい。本当は裁量労働制なのでそういうスタイルも許されている。が、このような価値観の体現は怠惰のために実現に至っていない。
今日の重大発表……なんと……ようやく嫁のポスターを貼り直した。
長い道のりだった。3月に友人が新居に訪れ、「前の家に貼ってた木曾ちゃんのポスターないじゃん。嫁じゃなかったのか」と言われて忸怩たる思いを抱えて以来、ずっと一大プロジェクトとして取り掛かっていた嫁ポスター設置計画。まず取り掛かったのは場所の選定であった。窓の上部、30度ほど手前に倒れ込んでいる斜めの壁という一等地を確保。両面テープで一度貼ったが何故かポスターの上の辺の水平を取ると下の辺の水平が合わない。さらにしばらくするとテープの強度が足りなかったか落下。3Mの更に強力なテープをわざわざ買い足すも、30度とは言え下向きの自重に耐えきれないようでまた落下。なんなら前のテープの方が保った。押しピンがどこかにあった気がしたがどうやら旧職場に寄付してしまった。100均に行く度に買うのを忘れる。そうこうしているうちに3Mテープ同士がくっついてポスターがピンチ……。等の困難を乗り越え、本日昼、ようやく嫁のポスターはあるべき場所にあるべきように収まった。あとは日焼けで色が抜けるまでここにいてもらう。
説明しづらいのだが、いかにもオタクがポスター貼りそうな壁にオタクっぽい水着美少女のポスターが貼ってあるところが気に入っている。これがインテリアってやつか。
親から仕事の状況、熱中症等体調の問題について近況報告をするよう催促が来ていた。面倒だったので昨日のカレーの写真だけ撮って送ったら「なんだか知らんが、美味しそうだし元気そうで何より。」とのこと。確かに身も心も元気でない人間はスパイスカレーを作ろうと思わないだろうな。便利な知見を得た。
親曰く、昨日は妹が家に寄って一緒に京アニ「聲の形」を見た、お前も近日中に顔を出せとのこと。何故昨日のうちに声をかけない!?

起床。暑い……。クーラーつけて二度寝……。

もう一度起床。
ぽちょぽちょ大神をやる。ダンガンロンパでしばらくアクションはうんざりだと思っていたのにまたアクション要素があるゲームを買ってしまった。
春にゼルダをやった時にも思ったのだが、高所を飛び移ったり高所で戦闘するアクションが異様に下手だ。なんなら狭い足場を普通に歩いているだけでも落ちる。見ているとまるっきり足が竦んだ生き物の動きをしている。いやはっきり言うと結構怖いのだ。自分が高い所に登った時と同じような、あの鳥肌が立つ感覚がある。落ちても狼は死なないのにな。ゼルダの方はグラフィックがすごく綺麗なのでそのせいかと思っていたが、また同じ感覚があるということはグラフィックではなくもっと別の要素で引き起こされている感覚のようだ。
19時頃に決心して立ち上がりカレーを作り始めた。材料買ったし日記に書いたしマリネもしてあるしな……。一度スーパーに出かけるため外に出たが、換気扇からすごくタイの匂いがして笑ってしまった。このままカレーを作ることが習慣化すると近隣の住民にカレーの人として認知される可能性がある。前のアパートにはたまに筑前煮を作るお姉さんが住んでいたのを思い出す。顔は知らない(女性専用アパートだったのでお姉さんではあるはず)。
見た目も匂いもよかったが味は微妙だった。酸っぱすぎるな。カルダモンとレモン汁でマリネしたところまではよかったはずなのでカレーとの相性が好みではないだけか?食う前に味見をしろという話だが、味見で調整できる料理って限られていると思う。スパイスは入れるタイミングが割と前だしマリネしている時点で肉の味は決まってる。味見したってどうしようもなかったのだ。味見絶対主義反対。
「春にして君を離れ」読み始めた。とりあえず内容以外の話をするが、”Absent in the Spring”に対する「春にして君を離れ」という訳が本当にかっこいいしはまってる。私は翻訳小説をそこまで読むわけではないのだが、昭和の翻訳って妙に味のあるものが多くて好きだ。(ちなみに1984年の新訳では「オリエントより愛をこめて」という訳になってる。これもなかなか思い切ったな……)。しかしイギリスのミステリの大家アガサ・クリスティの本を訳すことになって、この本はこれから日本では「春にして君を離れ」と呼ばれることになると決めるのはどんな気持ちだろうな。

起床。

カルダモンカレーの材料を揃えに外に出るがココナッツミルクが見つからずスーパー2件を梯子した上で1時間彷徨った。血迷ってアーモンドミルクで代替えできないか検討し始めた頃に中華調味料の棚に置いてあるのを発見した。牛乳の棚をずっと探していた。考えてみたらスーパーというのはこんなに重要な施設なのに原始的で不思議な空間だ。欲しい物の場所を探す方法は店員に聞くしかない訳だから。
ついでにずっと手に入らないままだったクミンシードを見つけて満足した。でも今見直したらチリペッパーだと思って買ったスパイスがチリパウダーだった。やれやれ……。
創作をしていない分の何かを作りたい欲が料理に向かっていて我ながらすごくわかりやすいな。
デイリーポータルZの過去記事を読んでいたら気になって、BOOTHに飛んだら昔一度お気に入り登録していたようなのでルールに従って買った。
これの1作目がすごく「BLらしくて」面白かった。現実の人間をBL創作でいわばパロディする、みたいな試みが上手く行っている。現実の人名をキャラクターの名前に変えても成立するというか……(ナマモノを全然知らないから驚いただけでもしかして多くのナマモノがそういう方向を志向しているんだろうか?)。BLとはやはりテンプレートを楽しむ創作ではないかと再確認した。勿論本題のその試みがメタな構造になっているところも見事……。古賀さんの描写がやたらリアルなのはなんなんだ。そこがBL創作らしさにも小説そのものにもいい味を与えている。

ダンガンロンパが終わったのでまた何かやりたいなと思ってセールを眺めていたら大神が半額だったので買った。初期から主人公(狼)が歩いた後に花を生やす能力を持っていて楽しい~。

起床。どこにも行かなくていい……自由だ……。嬉しい!

ここ一週間程真面目に考えていたが、仕事用の個人ブログかQiitaかツイッターアカウントかそれら全てがないとどうしようもない、という結論が出た。
しかしながらその際に設定すべき項目は多い。どのサービスを選ぶか?どう使い分けるか?アイコンは何を使うか?何と名乗るか?本名をどの程度臭わすか?誰をフォローし誰のフォローを返さないのか?会社の人とどの程度つながるべきか?日常と技術の投稿割合はいかほどか?
人格のセットアップが面倒臭い……。でもこういうのは事前に方針をしっかり立てることが長期的運営の上で重要だ……そうだろうか……アカウントって運営するものだったろうか……。
そもそも私は複垢が苦手で、もっと根本的な話をすると、人間の表裏的な情緒がウィークポイントだ。「あまりそのことについて私を考えさせないでくれ、悲しくなるから」ということだ。他人の複垢の存在のことを考えると、それが友人なら「私の知らない彼/彼女がそこにいる……」と思って落ち込むし、親しくない相手なら「そこで私の陰口を言っている……」と思って落ち込む。人間が人間と干渉するときにその相手にしか見えない一面があり結局のところアイデンティティとはそのような面の集合にすぎない、そこは納得している(いや、本当はあまりしてない。全部見たいので)。でも本来それはその相手にしか見えないはずの一面であるべきでは?表、裏ならぎりぎりOKだ。裏は一生私に見えないから。でも三面以上あるともう無理だ。厳しい。落ち込む。
これは自分に向けてもそうで、究極のところネット上でもあけっぴろげに本名を晒しておきたいという欲がある。平成のインターネットに育てられた人間として、ネットで本名を晒すなどド素人がすることだという価値観を叩き込まれてはきたが、今の時代、慎重になるべきはそこではないのではないかという気もする。しかし情報拡散は不可逆であるから、この件は人生をかけて慎重になって損はないのだろう。本名を晒したところで自分がすっきりする以外の得もない。私がもっと屈強になれば……あるいは……。
10人ほどフォローして二文程自己紹介を書いて疲れたので終わりにした。あとで見に行ったら1人フォローが返ってきていた。
ラジオを聞いていると言ったが、ふとどんなラジオ番組でもゲストが来ている回が苦手だと気がついた。これは、あれだ。人見知りだ。
注文していたカレーのレシピ本が届いた。自炊はそこまでしないのにカレーだけめちゃくちゃ上手かったら面白いかなと思ったので。
前に書いたように先んじて作者への信頼が必要なので、よく作るカレーレシピの主が所属するユニットの著作から選んだ。どきどきしながら開いたが、どのレシピもスパイスやミキサーがちょっとずつ欠けていてちょうどすぐには作れないものばかりだった。やはりレシピはドリルではない。すっかり落ち込んだ。週末はオモコロに載ってたカルダモンカレーを作ろう……。
ダンガンロンパ2をクリアした。最終章の畳み掛けるメタと押し付けがましい展開がかなり興ざめ。ゲームが大なり小なりナラティブだという話をちょっと書いたが逆に言うと「ここまでプレイしたならプレイヤーは皆こういう感情になるはず」という予測は大なり小なり傲慢なんじゃないか。
カレーのレシピ