最近テクスト論の立場で物を喋ることが多いので、テクスト論ってこういうことだと噛み砕いておきます。学術的に間違ってる部分があったらすいません。優しく指摘してください。 テクスト論というのはなんらかの作品(文学など)を語る際の立場です。1968年にフランスの批評家ロラン・バルトが出した「作者の死」というエッセイに端を発すると言われます。 テクスト論が立てる誓いは一つです。「テクストのことはテクストとしてしか見ないぞ」。テクスト以外のものとは何かというと、作者です。作者というのはそれまでテクストにとって特別視されていた存在なので、作者が死ぬことで読者は全員が平等になり、読者の批評(オタク言葉で言うところの解釈)も平等になります。 例えば国語の問題でよくいうところの「このときの作者の考えを述べよ」はテクスト論的ではありません(設問が物語の場合)。「作者は1973年に地元で震災を経験していて、この小説は作者の悲哀を描いている」もテクスト論的ではありません。あとは挿入描写がない作品における「この作者はA×Bのつもりで描いてる。ツイッターではABが好きと言ってたから」もテクスト論的ではないです。作者の思想や近況は作品に影響を与えるかもしれないが、そのプロセスは読者は推察できない、しない、というのがテクスト論の立場です。 ではテクスト論ならどう語るかというと、これは読者次第としか言いようがありません。テクスト論において批評とは読者と文字列たるテクストが不可分に混ざりあった結果の相互作用です。援用する主義主張、他の作品、時代背景、全て読者次第で自由です。「作品の批評」とは「作者の思ったこと」ではなく「読者の思ったこと」です。 Q. そうは言っても、「山に登った」という台詞を「海で泳いだ」と解釈することはできない。ある程度は「正しい批評」が存在するんじゃないの? A. 他者に伝わりやすい批評や他者に支持されやすい批評は存在します。作者による自己批評は何より支持されやすいかもしれません。でもそこに特段の正しさはないです。 あとは主観的な批評(自らの感性に依る)と客観的な批評(他の作品や主義主張、あるいは高度な教養に依る)という軸も存在します。これもどっちがいいとか悪いとかはないです。 Q. どうしてテクスト論の立場をとるの? A. 私の感性を守るためです。 現代では好きな本の作者は雑な政治的意見で炎上するし芸能人は不祥事を起こして作品ごと発禁になるしソーシャルゲームの運営はnot for meな施策ばかり打ちます。同人活動においてもそのようなギャップは尽きません。それでもテクスト論の立場に立つと、私が作品から受けた影響とそれらのを切り離して論じることができます。これは心の健康にいいと言えます。 具体的には、私は「その作家の作品を好む」ことと「作者を応援する」こととは切り分けて考えています。作者に作品の外で失望した結果、その作家の作品を買う気が失せるのは普通のことです。それは作家を商業的に応援したいと思えなくなったに過ぎないことだからです。「購入する」という行為はときに「物品として所持する」以上の意味があることだと思います。 Q. 私はテクスト論の立場には立ちたくない!作者さんのことだってもっと知りたいよ! A. いいんじゃないでしょうか。 私は私の感性を守るためにテクスト論に立つと書きましたが、逆に「この人がこの作品を書いたことにこそ励まされる」というケースも当然あると思います。私も友達が出した尖った同人作品には痺れます。 文学において作者の主義思想を知ろうとする研究は作家論という別の体系になりますが、順序としてはこちらが先行でした。そもそもテクスト論は不自然です。何故なら人間は喋る言葉から相手の思想を類推しようとしてきた生物だからです。 最初に述べたようにテクスト論は単なる立場なので、文学研究者でもない市井の民がどんな立場に立つのも自由です。なんなら辛いときだけテクスト論を逃げ場に使ったっていいと思います。 Q. 私はテクスト論の立場には立ちたくない!私は私の思う通りに読者にだって読んでほしいよ!A. 立派だと思います。 私も自分が意図した演出がその通りに読まれなかったら未熟さを感じて落ち込むと思います。一般にそういった感情は上達への原動力なのではないでしょうか。 テクスト論はあくまで読者の立場であって、作者の立場からの「私の演出が読者に伝わると嬉しい」という願いとは矛盾しないと思います。「私の演出が伝わる読者にしか読んでほしくない」までいくと、確かにそのための行動が必要だと思いますが。 同人活動をする現代のオタクこそ、テクスト論を知っておいても損はないんじゃないでしょうか。そこでは我々は、国語の問題を一方的に解かされる学生の立場ではありません。自分の作品と作家たる自分、他者の作品と読者、自分と他者の関係で悩んだり苦しんだりします。現代の批評理論を賢く利用してよき同人ライフを送りましょう。 参考文献 文学のトリセツ 「桃太郎」で文学がわかる!(小林真大)とりあえずここから始めればよいのではないかと思います。人に説明しようと思って改めてめくるとよく書けてるな~この文章って思いました。 批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義(廣野由美子)私が文学批評に興味を持った最初の一冊です。ジェンダー批評のところでオタクの喋りと完全に一致するのがめちゃくちゃ面白いのでぜひ読んでください。フランケンシュタインを読んでから読んだ方がいいですが、課題図書が一冊で済むのは良心的です。 読者はどこにいるのか 書物の中の私たち(石原千秋) 作者がいないなら読者だって俺達のことではないぜという本です。
Category: 文学・批評
聖なるズー感想
論理に裏打ちされた言葉で明確に語られることこそないけれど、あまりにもわかりやすく終始「人間と何が違う?」ということを問いかけ続けている。言語の外に性行為の誘いを受け取ろうとすることは、ヒトの男女の恋仲においても貴賎を問わず散々議論されていることなのが興味深い。受け取る目がないだけでそれが当然存在しうるはずだという、エピソードを踏まえた議論には納得できる。考えてみれば生き物だから当たり前だ(動物の種認識というのは大分テキトーなので)。 序章と最終章ではノンフィクションらしい筆致で感情を存分に揺さぶってきたが、基本的には研究者らしい批評の目線で綴られるのも精神の健康によかった。パッシブとアクティブの語りやすさに関わる議論、男性器の持つ暴力性なんかは、よくそこに気がつくなと思った。猫でも馬でも、結局膣のサイズが性行為における暴力の有無を決めうるという議論も身も蓋もなさすぎて(というと言い方がよくないが、なんていうかあまりに生物学的すぎて)笑けてくる。 でも素直に受け止められない部分もあり、「ロマンティックなズー達」では愛(性行為における対等性を導くとされている)がなければセックスしたら駄目なんだろうか?という疑問が必然的に想起される。例えば動物行動学がより発展して、求愛のシグナルが(そこにパーソンの理解がなくても)科学的に解析できるなら、性欲を解消するためのセックスが(ヒト同士で成立するのと同様に)成立しうるのではないか。本書がテーマにしているパーソンを理解した上での性行為はやっぱり一角に過ぎなくて、実際には獣姦の中にもっと多様な性のあり方が広がっているような気もするし、ゼータの外の人々やエクスプロア・ベルリンの体験に作者もそれを感じているだろう(この辺調査が進んだらまた本にしてほしいよな。博士に進学しているから期待できる)。 日本に獣姦を規制する法がないのは意外だった。FANZAで規制されてるからてっきりあるものかと思ってた。ヒトのレイプ作品とか普通にあるわけだから、これも一つのセクシュアリティに対する差別かなとは思うが、もうちょっとステップがないと現実の理解の促進には到底寄与しないかも(だって動物との純愛をテーマにした作品なんてほとんどない訳だし)、と感じた。まぁ創作がいつだって現実の理解のためにあると思ったら大間違いだけどさ。 動物を飼うことに興味がないのに概念の動物と人間の愛情について興味がありすぎないか?なんなんだ?
ハイ・ライズ読み終わった……。うお~……半分読んだところで心が折れそうだったので安堵……。 読んだ本の記録は基本的にクローズドな場所でやっているけど、そうするとあまり響かなかった本に対して感想文を書くのをさぼるという問題がある。響かなかった本こそ記録しておく意義があるので。 読もうと思ったきっかけは2回あるはずだが(異なる場所で2回出会った本は読むことにしている)、片方は間違いなくバーナード嬢、もう片方は完全に忘れた。バーナード嬢でもどういう文脈で紹介されていたか忘れたので見返したら、ファイト・クラブと共に紹介されていて納得した。何故ならファイト・クラブは去年挫折したので。読書に割く時間が減る一方なので、途中で挫折してしまうとかけた労力が無駄になってしまってなかなか辛い。 ド嬢、巻末に参考文献付けてくれるの本当に助かる。わかってる。痒い所に手が届く。 私は「世界の真理に近付こうとする行い」それこそがサイエンスだと定義している。サイエンス・フィクションもサイエンスを掲げるからには、世界が主役でありそこに登場する人間は従なのだと思っている。だから登場人物がどんなに魅力的でなかろうがそれは減点要素にはならないのだが、それにしてもこう記号的人物が視点の叙述を延々と続けられると単純に頭に負荷がかかるな……。後半になるにつれて会話文を意図的に削って人物への共感を防いでいるのかもしれないが、殺人だのセックスだの集会だのを全部叙述で済ませられるのがなかなか……。何を読んでいるのかわからなくなってしまう……。この前、安部公房の他人の顔を読んだがあれは内省的になるあまり全然会話文のない小説だった。世界に目を向けても一人の人間の中身に目を向けても会話文が減ることになるというのは面白いな。 ファイト・クラブでも思ったが、暴力と荒廃みたいな描写にあまりぐっとこないみたいだ。やたらと長いし……。同様に撤退してしまった小説に時計じかけのオレンジがある。 でも世界の方の描写はロイヤルの高層マンション・カモメ・犬により動物園の比喩がかなり美しくてよかった。一冊を通して美しい風景が一瞬垣間見えたらそれだけで十分なのかもしれないな。ただ、テクノロジー三部作と言われる面は正直よくわからなくて、まぁこれは現代に置いて高層マンションはテクノロジーの象徴にはならないという時代性があるのでしょうがないかなと思う。そう考えるとSFって儚いな。宇宙が舞台のSFもそのうちこんな風に言われるようになっちゃうんだろう。 解説が読んでいて楽しかった。やっぱり文芸批評を勉強したいけどそのためには原典の読破が必要だしどこから入ったものか。
銀河英雄伝説感想
※ 本記事は銀河英雄伝説のネタバレを含みます。が、貴方が銀河英雄伝説を楽しむ上でもしかするとそれは致命的でないかもしれません。 銀河英雄伝説が我が家に来た日のことを覚えている。友人に買っておくよう頼んでおいたハサ医師アンソロと一緒に頼んでもないのに新品が届いたからだ。 彼女が前々からハマっているという話は聞いていた。数週間前に同人誌まで出しているのも傍目に見ていた。そして彼女が自分の好きな作品を私に読ませるためなら新品を買って渡すことも躊躇わない人間だということも知っていた……。中学の頃から本をほぼ一方的に貸してもらう仲だったからだ……。その節はありがとう……。 しかし少し意外にも感じていた。彼女はSFを好むような質ではないと思っていたのだ。 銀河英雄伝説、通称銀英伝のことをどのくらいご存知だろうか。私は有名な小説であることと作者の名前くらいしか知らなかった。田中芳樹歴は、CLAMPの表紙につられて中学校の図書館にあった創竜伝を読んだことがあるくらいだ。まぁでも知らなくても無理はないだろう。初版は1982年、昭和じゃないか。銀河ってついてるし、宇宙戦艦が戦ったりするんだろう、多分。戦記はそこまで好きでもないのだが、SFは勉強すると言った手前、古典的名作を読んでおくのもまぁ悪くないだろう。当時はそう思っていた。 このように、彼女が勧める物を昔から割と何でも読んできたので、彼女も突然人に小説を送りつけるような大人に育ってしまったのだろう。私の責任は重い。 しかし返さなくてよい本ならいつでも読める、と逆に安心してしまい、実際に銀英伝へ手を付けたのは半年以上後の今年の初夏だった。銀河英雄伝説は、ラインハルト・フォン・ローエングラムが率いる皇国とヤン・ウェンリー率いる民主主義国が戦う戦記であることがわかった。描写とエピソードが上手くてさくさく読める。特に、登場人物達を説明する日常の些細なエピソードに愛嬌があるのがいい。あとユリアンが可愛い。 しかし2巻の終わりに差し掛かったところで、急にびっくりさせられた。ラインハルトの親友が2巻で死んたからだ。主要人物っぽい空気出てたのに。続きはあと8巻も残ってるのに。友人へ。なんで読む前に親友×ラインハルトを勧めた? 作者も流石に早すぎたと思ったらしく、読者の非難を受けて、5巻の後書きで「5巻辺りで死なせるべきでした」と謝っていた。それは謝罪になっていない気がする。 夏は忙しく、続きに手を付けたのは秋になってからだった。ユリアンがいつ死ぬのか戦々恐々として読み進める中、8巻でまたとてもびっくりさせられた。ユリアンの養父で何より主人公の片翼たるヤンが、ラインハルトとは関しない策略によってあっさり死んだからだ。 困惑した。当然のごとく、この10巻に渡る長編小説はラインハルトとヤンの最終決戦で幕を閉じると思い込んでいたのだ。このように予想することはキャラクタ小説的な視点から来る贔屓を置いても、一般的な物語のセオリーだろう。こんな衝撃のエピソードだから読む前から知っていても良さそうなものだが、ハマるとも思っていなかったので私は銀英伝のことを何も調べていなかったのだ。 まるで歴史小説だと思った。「竜馬がゆく」が書こうとしている物語を、実在の日本の代わりに、架空の宇宙を作ってその上で書いているのだ。だから登場人物は全員死ぬ。何故なら現在から見て過去の人間は全員死んでいるからだ。それも大戦とは関わらないところであっけなく死ぬ。何故なら歴史上の人間は小説の登場人物にされるために生きた訳ではないからだ。 それに気が付いて、三回興奮した。一に、「架空の現実」を作ってその上で「歴史小説」を書くなどという手間がかかることを試みた他の作品に思い至らなかったからだ。探せばあるだろうが、今も類似の作品はすぐには挙げられない。おまけに「架空の現実」においてはSFの背景を借りており、さらにはキャラクタエンタメ小説的でもある。二に、Aというジャンルだと思って読んでいたらBというくくりに入れるべきものだったという状況に興奮するオタクだからだ。しかもこれに関しては十分に伏線が張られており、私が下調べをしなかったことで30年も前の作品から純粋に驚きを得られたことが心地よい。三に、友人がこの小説にハマった謎がようやく解けたからだ。彼女は色んなジャンルを嗜むが、その根は歴史を愛するオタクなのである。 そういう訳で、銀英伝は本編も十分面白いのだが、本編とは微妙にずれた個人的事情により私に衝撃を与えた。ユリアンは最終巻まで生き残ってくれて嬉しかった。この「架空の歴史を描く」ことについて興奮気味に語ろうとしたら、最終巻の後書きで作者でほぼ同じことを言っており四度目の衝撃を受けた。ここまで見事な答え合わせをされると思っていなかったのだ。話すことがなくなってしまった。