某古典SFのあらすじが大体エロ漫画って話

16歳の誕生日にやっと宇宙船を買って貰ったコーティー。早速親の目を掻い潜って、憧れの宇宙旅行に飛び出した!
旅の途中で、最近行方不明になったという二人の男性宇宙飛行士のメッセージ・パイプを発見するコーティー。メッセージによると、なんでもエイリアンとのファーストコンタクトに成功したらしい。でも二人の様子はなんだか変……。コーティーは二人の救出に向かうことにした。
しかし、冷凍睡眠から目覚めたコーティーはびっくり。なんとメッセージ・パイプに付着していたエイリアンの「イーア」に寄生されてしまったのだ!イーアは他の生物の脳に住み着いて、宿主の体を動かしたり、血管をキレイにしたり、はたまた神経系をコントロールして宿主を幸福にしたりできるらしい。行方不明の二人の様子がおかしかったのはそのせい……?
最初はイーアの生態に驚くコーティーだったが、出会ったイーアであるシルが若い女の子(?)で、人間にも友好的だと知り、すっかり仲良くなるのだった。
しかし、行方不明の宇宙飛行士達を追ってコーティーとシルが到着した星で見たのは、野獣のようなセックスをする二人だった!なんと教育を受けていない若いイーアは己の性欲をコントロールできないらしいのだ。自分もそうなってしまったらコーティーの体をめちゃくちゃにしてしまうと怯えるシル。コーティーの体から離れようとするが、もはやそれは手遅れで……。
二人の旅は、いったいどうなる!?
なんのあらすじでしょーか。
正解は「たったひとつの冴えたやりかた」内の表題作です。クールな題名で有名だから書名だけ知っている人も多いでしょう。こういう話です。
いや、小説の雰囲気は全然そんなんじゃない。私、女の子と小さい生物が旅する話好きなんですよ。ライアの冒険とかマルドゥック・スクランブルとか。夢中で読んでいたら、気がついたらエロ漫画みたいな設定の中に放り込まれていてびびるっていうね。
表題作も含めて三本の中編が入っていますが、冒険物語の王道をやりながらもしつこいくらいエイリアンの性の話が出てくる。まぁ異星の生き物の説明をするなら根幹として生殖のシステムの話しなきゃ駄目でしょというのはわかるんですが、いやそれにしても出るな。中編三本は司書が図書館利用者に推薦しているという設定なんですが、その話と話のつなぎのパートにすら、利用者が司書にセクハラ発言するシーンが出てきます。種族が違って性の倫理基準が全然違うからこの世界ではセクハラに当たらないのか?どうなんだ?
ふざけた紹介をしましたがそのような見方をするととっつきやすく、王道で童話的雰囲気の(こんな書き方しておいて?)面白いSFでした。異星生物エロをかく皆さんやそれ以外の皆さんにオススメです。

小説が翻訳される過程で失うもの

これを友達が読んでいて面白そうだったので衝動的に買って読んだのだが、以下はその内容の直接の感想ではない。
昔からネイティブでない言語において詩的感覚を含めて文学を楽しめるのかということに興味があったので、それに近いことを考えた。今回はその逆で、言語側が翻訳された時、文体による詩的感覚が残るのかという問題だ。
例えば第1章の冒頭では以下のような文章が引用・翻訳されている。

She slipped swift as a silver fish through the slapping gurgle of sea-waves.

白波(しらなみ)ざわめく潮海(しおうみ)のさなかの白銀(しろがね)の魚さながらすいすい進む淑女さ

見て分かる通り原文は”S”の韻が踏まれているので、訳でも「し」で韻が踏まれている。実際の翻訳小説の訳文ではないが、正直無理がある。「潮海」はそこまで一般的な単語ではないし、「白銀」は「はくぎん」と読む方が先だろう。アルファベットは表音文字で漢字は表意文字だから時には読みを示す必要がある。ふりがなを振ればいいだろうという主張もあるだろうが、ふりがながある文章とふりがながない文章では与える印象が違うのは明らかだと思う。日本語の中でさえそうだ。
当然だけど、言語の構造なんて同じじゃない。時制の章ではもっと明らかで、良くない例文として出ている現在時制と過去時制が入り混じった文章が、日本語に訳すと違和感がない文章になってしまっており、訳者自身がそれを指摘している。
日本語と英語では品詞も共通していない。日本語にはセミコロンも存在しない。英語を勉強し始めた時は誰でも過去完了ってなんやねんと思ったはずだ。
名詞や動詞は日本語と英語で同じじゃないか、視点の問題はどんな小説にも存在するじゃないかという反論もあるだろうが、それは人に物や物語を伝えるという目的の必然性から収束しているだけであって、動詞のない言語や視点が分類できない実験的な小説だって私が知らないだけで存在してもおかしくない。
翻訳された小説とそうではない小説において固有名詞を置き換えて並べらたら、見分けってつくのだろうか。本文では時制を固定することが海外文芸風の練習になると述べられている。時制が鍵になるかはよくわからないが、確かに海外文芸風の文章ってある。その存在自体が、小説の翻訳の普遍的な難しさを表している気がする。
そう考えると、翻訳された小説が伝えられるのは根本的にはストーリーだけなのかもしれないなと思う。勿論それ以外のものをなるべく伝えようとするのが翻訳者の努力だと思うけれど、その努力も含めて、それは翻訳者の技量を通した文章でしかない。ある言語が死んだ時、その言語で作られた文学も一緒に死ぬのだな。

犬身感想

人が犬に例えられる時、それは多くの場合、飼い主に例えられる特定の相手への献身・愛情深さ・忠誠の象徴だったりする。しかし犬身において犬になった主人公、フサと飼い主の梓の関係は「犬に例えられる人」のそれとははっきりと異なる。フサは「犬に例えられる人」ではなく犬そのものだからだ。
一番それがはっきりと記されたシーンは下記だ。

「この犬がわたしのいちばん信頼している家族ですからね」
フサが顔を上げて梓に向かってにっこり微笑んだ時、朱尾が梓に尋ねた。
「どういう家族ですか、イメージとしては? 弟? 息子? それとも夫?」
朱尾はわざと凡庸なことを言っているのかとフサは疑ったのだが、梓も苦笑に近い笑いを漏らした。
「人間の家族に当て嵌めて考えたことはないですね。犬は犬ですから」

この台詞だけなら簡単だ。朱尾が尋ねているのは本当に凡庸な質問だし、梓の答えも凡庸と言える。けれどもこの凡庸な台詞こそがこの小説のルールで、覆ることのないものだ。
私は「聖なるズー」の作者との対談(冒頭部)から「犬身」を知ったので、フサが犬になった後には、犬の性欲に身を焦がし苦悩するのではないかと思って身構えていた。そうでなければ朱尾との契約における追加条項が機能しないからだ。しかし、梓にとってフサは「夫」でも「兄」でもない。描写こそまるで性描写のように艶やかであるものの、フサの愛情は最後まで自覚としてはプラトニックなものとして描かれている。であれば梓が性から隔離された清楚な人物かというとそれは違い、むしろ「人の性(近親相姦)」と「犬の本能的な勃起」の対比によって「犬は犬ですから」が強調されている。
最も「犬は犬ですから」を感じたのは、小説を読み終わってからだった。ストーリー全体を振り返ってみると、梓の転身は朱尾や未澄の、つまり傍にいた「人間」の影響であって、フサは何の役にも立っていないことに気が付く。最後に彬に体当たりしたくらいが精々だ。
犬に成り立てのフサは、人の言葉で梓の力になれればよかったと夢想するが、親友の未澄にさえ踏み込ませなかった梓のプライベートな領域に出会ったばかりの房惠が力になれるはずなどなく、それは房惠の奢りに過ぎない。フサは犬であったから梓の物語の全てに立ち会い、犬だからこそ傍観者の視点でそこに立っていただけだ。フサと梓の絆は犬身のストーリーを進行する原動力では決してない。フサは犬らしく飼い主を舐めていただけだ。その妙が振り返ると素晴らしく「犬は犬ですから」というルールに忠実に思える。
さらにストーリーを振り返ると、「犬であるフサ」は勿論、「房惠が犬に転じたこと」も梓の物語にそよ風さえ巻き起こさないのが面白い。たまにフサは自分の仕草が人間らしくはなかったかと省みるが、梓にしてみればフサのそういった仕草が人のように見えるのは「飼主馬鹿と笑われるかも知れませんけど」といった程度の話で、まさかフサが人間の変化した姿だとは疑いもしない。梓が落ち込んだ時など一度はキーボードを叩いてまで言葉を発しようとしてしまうフサだが、結局梓が見る前に文字は消去され、何事もなく終わる。「犬は犬ですから」というルールに反するからだ。
本来そのルールに従うなら、房惠は犬になることができない。それは犬身が唯一破らなければいけないルール違反だ。そこで朱尾(メフィストフェレス)が登場する。間テキスト性を借りて、ルールの外にいるものによって一度だけの違反を許すのだ。朱尾の愛嬌は様々な過去の作品に登場する悪魔を彷彿とさせるが、犬身はファウストではないので、最終的に犬は超常的存在にも勝利する。
人が犬に変身する物語。そう聞くと、なんだか大層な物語が始まるような気がしてしまう。しかし人が犬になるということは、飼い主の日常に寄り添うということだし、飼い主の人生を大きく変えることはできないということでもある。犬身は徹頭徹尾そのことを描いた小説だった。
ただ、犬身は当然のように犬と飼い主の間に性的交渉は存在し得ないという前提に基づいたものが物語だ。聖なるズー「以降」の犬身も読んでみたいと思ってしまうのは、現代のわがままだろうか。

現代を生きるオタクのためのテクスト論

最近テクスト論の立場で物を喋ることが多いので、テクスト論ってこういうことだと噛み砕いておきます。学術的に間違ってる部分があったらすいません。優しく指摘してください。

テクスト論というのはなんらかの作品(文学など)を語る際の立場です。1968年にフランスの批評家ロラン・バルトが出した「作者の死」というエッセイに端を発すると言われます。
テクスト論が立てる誓いは一つです。「テクストのことはテクストとしてしか見ないぞ」。テクスト以外のものとは何かというと、作者です。作者というのはそれまでテクストにとって特別視されていた存在なので、作者が死ぬことで読者は全員が平等になり、読者の批評(オタク言葉で言うところの解釈)も平等になります。
例えば国語の問題でよくいうところの「このときの作者の考えを述べよ」はテクスト論的ではありません(設問が物語の場合)。「作者は1973年に地元で震災を経験していて、この小説は作者の悲哀を描いている」もテクスト論的ではありません。あとは挿入描写がない作品における「この作者はA×Bのつもりで描いてる。ツイッターではABが好きと言ってたから」もテクスト論的ではないです。作者の思想や近況は作品に影響を与えるかもしれないが、そのプロセスは読者は推察できない、しない、というのがテクスト論の立場です。
ではテクスト論ならどう語るかというと、これは読者次第としか言いようがありません。テクスト論において批評とは読者と文字列たるテクストが不可分に混ざりあった結果の相互作用です。援用する主義主張、他の作品、時代背景、全て読者次第で自由です。「作品の批評」とは「作者の思ったこと」ではなく「読者の思ったこと」です。
Q. そうは言っても、「山に登った」という台詞を「海で泳いだ」と解釈することはできない。ある程度は「正しい批評」が存在するんじゃないの?
A. 他者に伝わりやすい批評や他者に支持されやすい批評は存在します。作者による自己批評は何より支持されやすいかもしれません。でもそこに特段の正しさはないです。
あとは主観的な批評(自らの感性に依る)と客観的な批評(他の作品や主義主張、あるいは高度な教養に依る)という軸も存在します。これもどっちがいいとか悪いとかはないです。
Q. どうしてテクスト論の立場をとるの?
A. 私の感性を守るためです。
現代では好きな本の作者は雑な政治的意見で炎上するし芸能人は不祥事を起こして作品ごと発禁になるしソーシャルゲームの運営はnot for meな施策ばかり打ちます。同人活動においてもそのようなギャップは尽きません。それでもテクスト論の立場に立つと、私が作品から受けた影響とそれらのを切り離して論じることができます。これは心の健康にいいと言えます。
具体的には、私は「その作家の作品を好む」ことと「作者を応援する」こととは切り分けて考えています。作者に作品の外で失望した結果、その作家の作品を買う気が失せるのは普通のことです。それは作家を商業的に応援したいと思えなくなったに過ぎないことだからです。「購入する」という行為はときに「物品として所持する」以上の意味があることだと思います。
Q. 私はテクスト論の立場には立ちたくない!作者さんのことだってもっと知りたいよ!
A. いいんじゃないでしょうか。
私は私の感性を守るためにテクスト論に立つと書きましたが、逆に「この人がこの作品を書いたことにこそ励まされる」というケースも当然あると思います。私も友達が出した尖った同人作品には痺れます。
文学において作者の主義思想を知ろうとする研究は作家論という別の体系になりますが、順序としてはこちらが先行でした。そもそもテクスト論は不自然です。何故なら人間は喋る言葉から相手の思想を類推しようとしてきた生物だからです。
最初に述べたようにテクスト論は単なる立場なので、文学研究者でもない市井の民がどんな立場に立つのも自由です。なんなら辛いときだけテクスト論を逃げ場に使ったっていいと思います。
Q. 私はテクスト論の立場には立ちたくない!私は私の思う通りに読者にだって読んでほしいよ!
A. 立派だと思います。
私も自分が意図した演出がその通りに読まれなかったら未熟さを感じて落ち込むと思います。一般にそういった感情は上達への原動力なのではないでしょうか。
テクスト論はあくまで読者の立場であって、作者の立場からの「私の演出が読者に伝わると嬉しい」という願いとは矛盾しないと思います。「私の演出が伝わる読者にしか読んでほしくない」までいくと、確かにそのための行動が必要だと思いますが。
同人活動をする現代のオタクこそ、テクスト論を知っておいても損はないんじゃないでしょうか。そこでは我々は、国語の問題を一方的に解かされる学生の立場ではありません。自分の作品と作家たる自分、他者の作品と読者、自分と他者の関係で悩んだり苦しんだりします。現代の批評理論を賢く利用してよき同人ライフを送りましょう。
参考文献
文学のトリセツ 「桃太郎」で文学がわかる!(小林真大)
とりあえずここから始めればよいのではないかと思います。人に説明しようと思って改めてめくるとよく書けてるな~この文章って思いました。
批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義(廣野由美子)
私が文学批評に興味を持った最初の一冊です。ジェンダー批評のところでオタクの喋りと完全に一致するのがめちゃくちゃ面白いのでぜひ読んでください。フランケンシュタインを読んでから読んだ方がいいですが、課題図書が一冊で済むのは良心的です。
読者はどこにいるのか 書物の中の私たち(石原千秋)
作者がいないなら読者だって俺達のことではないぜという本です。

聖なるズー感想

論理に裏打ちされた言葉で明確に語られることこそないけれど、あまりにもわかりやすく終始「人間と何が違う?」ということを問いかけ続けている。言語の外に性行為の誘いを受け取ろうとすることは、ヒトの男女の恋仲においても貴賎を問わず散々議論されていることなのが興味深い。受け取る目がないだけでそれが当然存在しうるはずだという、エピソードを踏まえた議論には納得できる。考えてみれば生き物だから当たり前だ(動物の種認識というのは大分テキトーなので)。
序章と最終章ではノンフィクションらしい筆致で感情を存分に揺さぶってきたが、基本的には研究者らしい批評の目線で綴られるのも精神の健康によかった。パッシブとアクティブの語りやすさに関わる議論、男性器の持つ暴力性なんかは、よくそこに気がつくなと思った。猫でも馬でも、結局膣のサイズが性行為における暴力の有無を決めうるという議論も身も蓋もなさすぎて(というと言い方がよくないが、なんていうかあまりに生物学的すぎて)笑けてくる。
でも素直に受け止められない部分もあり、「ロマンティックなズー達」では愛(性行為における対等性を導くとされている)がなければセックスしたら駄目なんだろうか?という疑問が必然的に想起される。例えば動物行動学がより発展して、求愛のシグナルが(そこにパーソンの理解がなくても)科学的に解析できるなら、性欲を解消するためのセックスが(ヒト同士で成立するのと同様に)成立しうるのではないか。本書がテーマにしているパーソンを理解した上での性行為はやっぱり一角に過ぎなくて、実際には獣姦の中にもっと多様な性のあり方が広がっているような気もするし、ゼータの外の人々やエクスプロア・ベルリンの体験に作者もそれを感じているだろう(この辺調査が進んだらまた本にしてほしいよな。博士に進学しているから期待できる)。
日本に獣姦を規制する法がないのは意外だった。FANZAで規制されてるからてっきりあるものかと思ってた。ヒトのレイプ作品とか普通にあるわけだから、これも一つのセクシュアリティに対する差別かなとは思うが、もうちょっとステップがないと現実の理解の促進には到底寄与しないかも(だって動物との純愛をテーマにした作品なんてほとんどない訳だし)、と感じた。まぁ創作がいつだって現実の理解のためにあると思ったら大間違いだけどさ。
動物を飼うことに興味がないのに概念の動物と人間の愛情について興味がありすぎないか?なんなんだ?