分別と多感感想

原題:Sense and Sensibility 出版年:1811年 モーメント オースティンの長編としては一作目(全六作)で、続く二作目は最も有名な「高慢と偏見 (Pride and Prejudice) 」。どちらも韻を踏んだ2つの単語が接続詞andでつながっているが、分別と多感はいわば「分別 vs 多感」といった物語の中の構図を表したタイトルだ。 物語の中の勝敗は明らかで、分別の代弁者・エリナーは困難を乗り越えエドワードを夫として獲得した一方、多感の代弁者・マリアンは恋した男が実はろくでなしだと判明し、エリナーの態度を見習うようになる。さらにはマリアンの最終的な夫が分別よりの人間ということで、論ずるまでもなく分別の圧倒的勝利である。 しかし、物語の外に出ると人気を得ているのは今も昔もマリアンであるらしい。これは解説で述べられている所感だが、確かにSNSなどで感想を探してみると「マリアンの方に共感した」といった感想はよくみつかる。そもそも共感をベースに語られなくてもいい気がするが、対立構造があることでどちらの陣営へ所属したいといった感想を述べやすいのかもしれない。 しかし、マリアンへの共感は必ずしも多感な現代人の多さを示している訳ではなさそうだ。というのも、小説は明らかにエリナーへの共感を阻む構造になっているからだ。エリナーとエドワードの出会いからしてそのやり口は強烈で、なんと二人の会話は直接話法では描写されず、エリナーとマリアンの会話を通してエリナーがエドワードの美点を語るという控えめな愛情表現が行われるに過ぎないのだ。 エリナーはこの本の中心となる三人称の語り手なのだが、実際に喋っているシーンはマリアンやお喋りおばさんのジェニングス夫人の方がずっと多いだろう。分別と多感においては、直接話法で会話する量の多さそのものが、多感な人物像の描写になっている。 エリナーの唯一といっていいほど長回しの台詞は、マリアンへの反論の言葉だ。失恋に落ち込むマリアンだったが、実は彼女を慰めてくれるエリナーも数ヶ月前に失恋していたことを知る。一切そんな素振りを見せなかったエリナーに驚いたマリアンは、エリナーがさして落ち込んでいないように見えたのはエリナーの気持ちが大したものではなかったからだと感情的に詰る。それに対してエリナーは、数ヶ月この状況を誰にも伝えることのできなかった己の苦しみがいかに大きなものだったかを珍しく長々と述べている。しかしそんな台詞の中でもエリナーの喋り方は極めて理性的であり、寡黙な人間が突然長々と喋りだしたことで、ある種の恐ろしさを感じさせるようなシーンとなっている。 普通、直接話法の少ないキャラクターだからといって、視点人物が共感を呼ばないとは限らない。むしろ直接話法に代わる内省的な描写は読者への共感や支持を生むケースも多いだろう。しかし、エリナーは地の文の中でさえエドワードへの愛情を読者に語りかけるといったことはない。むしろエリナーはマリアンを慰めることで、エドワードのことは考えまい、読者には伝えまいとしているように映る。最終的にはエドワードと結婚し、幸せになったという描写をそのまま信じるのであれば、エリナーをミステリにおける「信頼できない語り手」とも捉えることができる。 分別と多感は、物語の筋だけなぞれば多感の浅慮を窘め分別の重要性を強調するプロットであった。一方で、直接話法と間接話法を通して、分別をもつ人間のどこか底知れなさを描く物語でもあったと思う。

SFを楽しむ

三年くらい前から割と意識的にSFを読んでいる。 自然科学を修めている人間なのだが、社会科学と対比した自然科学って、学問する対象よりは世界の理を探す人間の働きに本質があると思う。自然科学は世界vs人間、社会科学は人間vs人間。 だから単純にサイエンスが対象とするものをモチーフにした小説ではなくて、世界の謎が解かれる小説を読むと、サイエンスフィクションだな~と思う。 具体的にそれを感じた小説としては、ジェイムズ P. ホーガンの「星を継ぐもの」がある。人類は宇宙のどこから来たのか、といった謎を巡るSFなのだが、解説でも ストーリーを中途半端に語るよりSFにサイエンスを取り戻す、50年代SF(ハイライン、アシモフ、クラーク)の血を継ぐ70年代のSF (メモからなので正確な引用ではない)と語られていた。 書籍に詰め込めるものは限られているというより、書籍から受けとれる印象というのは限られているので、「星を継ぐもの」でサイエンスに集中できたのは、他の要素に心が動かされないからだと思う。解説では「ストーリー」という言葉を使われているが、私はキャラクターを削いだ結果だなと感じる。 当たり前だがキャラクターが立っているからSFとして魅力的でないということはない。先の解説にはハイラインが出てきたのだが、「月は無慈悲な夜の女王」は割とキャラクターも魅力的なSFだなと思う(→当時の感想)。キャラクターを描くことが多くの場合(時に必須のように)物語の魅力と取られる中で、それで掬えないジャンル特別評価点を与えているといった感じだ。本格ミステリに対してトリックやフェアさ、純文学に対して文章への拘りや構造の冒険を評価するように、SFに対して「世界を語ることに注力しすぎてキャラクターへの描写が疎かになっている状態」にポイントを与えている。 「星を継ぐもの」は、キャラクターを削ぐことで読者をサイエンスに集中させているが、実際には物語の中でキャラクターを全く語らないことは不可能で、SFを読んでいて「人間への興味がないね~」と感じる時、逆説的にサイエンスらしさを感じることがある。 実際にそれを感じた作品には「夏への扉」「三体」などがある。最近読んだシナリオだと「十三機兵防衛圏」にもそれを感じるのだが、ゲームという媒体ではキャラクターを完全に捨てることはできないのだと思う。しかし、このような切り口で語ってしまうと「キャラクターを描けていない」という批難に聞こえるので難しい。批難ならまだしも、読みが浅いというか、単純に「登場人物に共感できなかった」と区別して、客観的に人に伝えるのが難しいと思っている。

小説が生まれる/小説家になる

文章を書くことは全ての人に平等に与えられた創作活動だ。 中学生の頃、私の文学の授業用ノートに父親がそういった旨の文章を書いたのをよく覚えている。どうしてそんな事態になったのかは忘れたけれど、我が父ながらいいことを書くなと思ったのだ。 まぁ絵を描く活動だって不平等な訳はないのだが。 お絵描きとの違いは、絵の具もペンタブも必要なしに中学生でも今すぐに名だたる文豪と同じ文章を、書くことだけならばできるということだろう。記号ってそういうことだ。その手軽さ。 普通に生きていたって、手紙の中に詩的な一文を加えることもあるだろうし、ツイッターは創作手段としてそのまま使われさえもする。文章を書くという創作行為はどんな時代でも日常のすぐ側にある。 それまでROM専だった人が創作を始めるのが好きだ。 昔、私の二次創作がきっかけで該当ジャンルの二次創作を始めたという人からメッセージを貰ったのがすごく嬉しくてよく覚えている。私の作品はその人の人生を変えたと思えた。 創作する側と見る側に境界はない。同人界隈ではこういった思想は珍しくもなく、たとえば即売会の用語などにそういった意識を見ることができる。特に小説は、先に述べた文章を書くという行為の手軽さゆえに、飛び込みやすい形態の一つだろう。最近だとスマホを使って通勤時間で書いている人さえいるらしい。そうやって打ち込まれた文字も、文庫サイズに製本されて同じ棚に並べば、商的流通に乗る本と見分けがつかない。そうやって小説の同人誌を普通の本の隣に置くのが好きだ。 そういえば前述の父は多趣味な人間なのだが、金がかかる趣味も多いので最近は老後何をするか悩んでいるらしい。密かに小説でも書かないだろうかと思っている。 深緑野分のnoteが好きだ。 私の小説の書き方③プロットと失敗作 深緑野分といえば「戦場のコックたち」。戦争の最中にある日常という料理。ミステリーが小説に与える相互作用。小道具も構想も練りに練られた素晴らしい小説だ。一章を読んだだけで、これはいいものだ!と興奮したのを覚えている。 それでこのnoteだ。失敗談を語る部分がいい。あんな小説を書く作者も、同じような悩みを抱えて同じように苦しんでいるというのがしみじみわかる。私もそうやって苦しんでいたら「戦場のコックたち」のような素晴らしい小説か、それが贅沢なら自分を納得させられる一篇の文章でもいい、そういうものを生める可能性もあるだろうか。まぁ続けていれば、そういうことが起きる確率だってあるだろう。文字を打ち込むというそれに限っては同じ行為である訳だから。 突然、応援しているプロ雀士が書いた小説が出版されると発表された。 びっくりしすぎたのでとりあえずミュートした。いや悔しい。他のどのフォロワーが小説を書いたと言ってもここまで驚くことはなかっただろうに。全然準備ができていなかった。違う世界だと思っていた。 その小説を好きになれる自信がなかった。だって文章で好きになったわけじゃないもの。 幼い頃から小説を嗜んできた人間として、好きな小説も、好きな文章も、好きなジャンルもある。自分の初読の感想は大事にしているし、それに対するプライドもある。なんでもかんでもインターネットに共有しがちな人生だが読んだ本の記録だけはプライベートなものとしているし、テクスト論にも興味をもっている。それに従えばこんなのはテクスト論ど真ん中の領域だ。前にも書いたが、私は現代社会において作品へ下す評価と作家に対する商用的支援は切り離して考えている。この小説も既に2冊買っているし、読みたい友人がいれば買って送るので連絡して欲しい。であるからして、スタンスは読む前から出ているも同然なのだ。好きにはなれないかもしれないが、それによって作者を嫌いになったりすることはない。だからそもそもショックを受けるようなことでもないはずなのだ。けれども好きにはなれない可能性があると即座に思った自分にびっくりした。その驚きでミュートをしてしまった。 やはり読んでいる途中で作者のことを考えてしまったので、本の感想をここに書くことはしない。本当に大変なことだっただろうな。執筆に四年かかったらしい。四年て。お前は四年かけて同人小説を書いたことがあるか? 作者にとっては勿論初めて書いた小説だが、人気のプロ雀士が出版する小説ということで周囲からの期待も大きかったらしい。発売前から重版がかかって、随分ハードルが上がってしまったと感じたそうだ。しかし、献本されたチームメイトが即座に読んで感想をブログに認めてくれた。そのブログ記事は私が読んでも胸が熱くなるものだったけれど、作者もそれを読んで気持ちが軽くなったという。 なんて同人作家あるあるなんだ、とそれを聞いた時に思った。初めて作品を出した時のことはちょっと思い出したくないが、毎回初めてのジャンルには緊張を覚える。それに対していわゆる身内が感想をくれることほどありがたいこともない。身内なんていなかった頃があるから、その存在もありがたい。 変な話、そういったエピソードを聞いた時に、人なんだなと思った。雀荘で本人にファンレターを渡したこともあるのに。信じられないほど美しい麻雀を打つ人も小説を書く人間なんだな。 人はいつでも小説家になれる。私はその事実が本当に好きだ。その時、書かれた作品はテクスト論に従って同じ土俵に乗る。それは残酷なことでもあるかもしれない。しかしそれは私にとって、作者が大きな共感の枠組に入るということでもある。 ファンだと言ってくれた貴方、シナリオライター、父、ブロガー、深緑野分、プロ雀士。

某古典SFのあらすじが大体エロ漫画って話

16歳の誕生日にやっと宇宙船を買って貰ったコーティー。早速親の目を掻い潜って、憧れの宇宙旅行に飛び出した! 旅の途中で、最近行方不明になったという二人の男性宇宙飛行士のメッセージ・パイプを発見するコーティー。メッセージによると、なんでもエイリアンとのファーストコンタクトに成功したらしい。でも二人の様子はなんだか変……。コーティーは二人の救出に向かうことにした。 しかし、冷凍睡眠から目覚めたコーティーはびっくり。なんとメッセージ・パイプに付着していたエイリアンの「イーア」に寄生されてしまったのだ!イーアは他の生物の脳に住み着いて、宿主の体を動かしたり、血管をキレイにしたり、はたまた神経系をコントロールして宿主を幸福にしたりできるらしい。行方不明の二人の様子がおかしかったのはそのせい……? 最初はイーアの生態に驚くコーティーだったが、出会ったイーアであるシルが若い女の子(?)で、人間にも友好的だと知り、すっかり仲良くなるのだった。 しかし、行方不明の宇宙飛行士達を追ってコーティーとシルが到着した星で見たのは、野獣のようなセックスをする二人だった!なんと教育を受けていない若いイーアは己の性欲をコントロールできないらしいのだ。自分もそうなってしまったらコーティーの体をめちゃくちゃにしてしまうと怯えるシル。コーティーの体から離れようとするが、もはやそれは手遅れで……。 二人の旅は、いったいどうなる!? なんのあらすじでしょーか。 正解は「たったひとつの冴えたやりかた」内の表題作です。クールな題名で有名だから書名だけ知っている人も多いでしょう。こういう話です。 いや、小説の雰囲気は全然そんなんじゃない。私、女の子と小さい生物が旅する話好きなんですよ。ライアの冒険とかマルドゥック・スクランブルとか。夢中で読んでいたら、気がついたらエロ漫画みたいな設定の中に放り込まれていてびびるっていうね。 表題作も含めて三本の中編が入っていますが、冒険物語の王道をやりながらもしつこいくらいエイリアンの性の話が出てくる。まぁ異星の生き物の説明をするなら根幹として生殖のシステムの話しなきゃ駄目でしょというのはわかるんですが、いやそれにしても出るな。中編三本は司書が図書館利用者に推薦しているという設定なんですが、その話と話のつなぎのパートにすら、利用者が司書にセクハラ発言するシーンが出てきます。種族が違って性の倫理基準が全然違うからこの世界ではセクハラに当たらないのか?どうなんだ? ふざけた紹介をしましたがそのような見方をするととっつきやすく、王道で童話的雰囲気の(こんな書き方しておいて?)面白いSFでした。異星生物エロをかく皆さんやそれ以外の皆さんにオススメです。

小説が翻訳される過程で失うもの

「文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室」 これを友達が読んでいて面白そうだったので衝動的に買って読んだのだが、以下はその内容の直接の感想ではない。 昔からネイティブでない言語において詩的感覚を含めて文学を楽しめるのかということに興味があったので、それに近いことを考えた。今回はその逆で、言語側が翻訳された時、文体による詩的感覚が残るのかという問題だ。 例えば第1章の冒頭では以下のような文章が引用・翻訳されている。 She slipped swift as a silver fish through the slapping gurgle of sea-waves. 白波(しらなみ)ざわめく潮海(しおうみ)のさなかの白銀(しろがね)の魚さながらすいすい進む淑女さ 見て分かる通り原文は”S”の韻が踏まれているので、訳でも「し」で韻が踏まれている。実際の翻訳小説の訳文ではないが、正直無理がある。「潮海」はそこまで一般的な単語ではないし、「白銀」は「はくぎん」と読む方が先だろう。アルファベットは表音文字で漢字は表意文字だから時には読みを示す必要がある。ふりがなを振ればいいだろうという主張もあるだろうが、ふりがながある文章とふりがながない文章では与える印象が違うのは明らかだと思う。日本語の中でさえそうだ。 当然だけど、言語の構造なんて同じじゃない。時制の章ではもっと明らかで、良くない例文として出ている現在時制と過去時制が入り混じった文章が、日本語に訳すと違和感がない文章になってしまっており、訳者自身がそれを指摘している。 日本語と英語では品詞も共通していない。日本語にはセミコロンも存在しない。英語を勉強し始めた時は誰でも過去完了ってなんやねんと思ったはずだ。 名詞や動詞は日本語と英語で同じじゃないか、視点の問題はどんな小説にも存在するじゃないかという反論もあるだろうが、それは人に物や物語を伝えるという目的の必然性から収束しているだけであって、動詞のない言語や視点が分類できない実験的な小説だって私が知らないだけで存在してもおかしくない。 翻訳された小説とそうではない小説において固有名詞を置き換えて並べらたら、見分けってつくのだろうか。本文では時制を固定することが海外文芸風の練習になると述べられている。時制が鍵になるかはよくわからないが、確かに海外文芸風の文章ってある。その存在自体が、小説の翻訳の普遍的な難しさを表している気がする。 そう考えると、翻訳された小説が伝えられるのは根本的にはストーリーだけなのかもしれないなと思う。勿論それ以外のものをなるべく伝えようとするのが翻訳者の努力だと思うけれど、その努力も含めて、それは翻訳者の技量を通した文章でしかない。ある言語が死んだ時、その言語で作られた文学も一緒に死ぬのだな。