人間―動物文学の研究(途上)

動物文学の勉強をしてるんだけど、ちょっとずつ文献を読み進めているのでまとめてみる。適宜更新していきます。
とはいえ、動物文学という言い方をするとマジモンの動物が主役の文学(シートン動物記とか)が出てきちゃってちょっと興味の方向性と違うことに気がついた。
動物文学 – Wikipedia
動物と人の関係性に注目して文献を探すと好きな方向の研究ができそう。そういう文学の用語は知らん。人間―動物文学。

捕食被食関係

  • 性食考
    • 子どもの本と〈食〉物語の新しい食べ方
必ずしも人間は食う側ではない。哺乳類は系統的には被食者の側の生き物ですからね。
子供向けの物語によく出現するっぽい。

動物文学はその性質として児童文学の分野と結びつきやすく

ってテキストがさっきのWikipediaにもあるけどここの関係性は必然ではないと思う。例えば子供に動物のぬいぐるみを与える(性食考)など。不思議なので調べる。

獣姦

  • 聖なるズー
  • 性食考
    • 昔話のコスモロジー ひとと動物との婚姻譚 (小澤俊夫の昔話講座)
    • 犬婿入り
一番興味あります!(大声)
実は愛玩動物としての地位や搾取暴力の対象よりずっと歴史のある関係性。日本や非西洋の神話・昔話には「原始的な感覚」としての動物と人間が渾然一体となった世界観が存在するため。でもそういった世界観と現代の獣姦へのタブー感(聖なるズー)とは相当な断絶がありそう。
搾取や暴力の対象
  • 動物の声、他者の声
    • 風媒花
    • 奇妙な仕事
    • 飼育

今頑張って読んでおります。

動物は語らない、動物は書かない、動物は歴史を持たない、動物は世界が貧しい、動物は罪の自覚を持たない……。これらの《動物》を意味づける言説が、私たちの生きる世界をどれほど根本から基礎づけているか。逆に、これらの言説の権威を転覆したときに、どのような世界が私たちの前に現れてくるか。(『動物の声、他者の声』)

この辺が面白い。断絶してるね~。

愛玩動物

必然的に現代の作家になる。
馳星周は割と近い題材でいろいろ書いていそうな気配があるので、別の作家を探したいねぇ……。おすすめがあったら教えてください。批評的視点が欲しいんだよなぁ……。ちょっと犬身が面白すぎて超えられる気がしない。

二次創作小説の中にある小説を書くコツ

文章読本を集めるのが結構好きという話をしたけど、最近文章講義もちょっと受けている。そういった所で出てくる創作のコツの中で、二次創作(特にCPモノ)って創作の入口としてめちゃくちゃ機能しているなと思ったのでその話をする。

コツ1「キャラクターをなんらかの状況に放り込んでストーリーを作る」
これは表現を変えて様々な書物講義の中で頻出する。テーマを直接描いたりプロットを立てるのではなく、キャラクターが勝手に動くのを待つ、そうなるまで準備するってやつです。
二次創作をやる上では、わざわざ考えなくても衝動としてこういうやり方から始まることが多いと思う。AとBがCしたらどうなっちゃうの!?キャー!みたいな。
それが同じジャンルの二次創作を続けていくと何故かだんだん抽象的になってきてプロットが入り組んで来て……いかんよ……(あくまでコツを掴んだ創作をするとやりやすいよって話なので、そうでない創作が悪いわけではないです)。

コツ2「視点人物と描写したいキャラクターは別に設ける」
創作の一つの型として、凡庸な視点人物から魅力的な人物を描く、というものがある。いくらでもあるけど、例えば「博士の愛した数式」とか。初心者は自分が主人公の小説(私小説)を避け、家族の誰かを書いてみるといい、というのもよく言われるコツ。
カップリング物でAがBを観察していれば必然的にこういう構図になりそう。
ちなみに私はモモ視点がかきやすい。理由はわかるね。

コツ3「キャラクターの設定を作り込む」
コツ1を実行するためには本編に出ない部分までキャラのことを考えることが大事だと言われる。年表やプロフィール帳を作るといった型作りが推奨されることもある。
言うまでもなくオタクがようやるやつ。そもそも設定を作り込まなくても、原作が二次創作に登場するキャラクターの背景となりうるというなんだか逆説的な状態が生じうる。

ということで二次創作のやり方って創作のコツを勝手に通ることになっている気がする。面白いね。

ラブコメ好きに勧めるジェイン・オースティン(オタクと偏見)

作者紹介

ジェイン・オースティン (1775~1817)
主に身内に読ませるため、幼少から創作活動を始める。
二十一歳から本格的な執筆活動を開始。三十五歳に「ある婦人」のペンネームでデビュー。この時代、女性作家は実力勝負するために性別を隠して出版することもあったが、身内で承認欲求が満たされていたためこのペンネームになったとかならんとか。結局ペンネーム関係なくめちゃくちゃ売れる。精力的に執筆活動を続けるが、体調不良のため夭折。享年四十一。
固定カプ厨で田舎の女の恋愛しか書かない長編字書き。コメディと(時にブラックな)ユーモアを心底愛しており、真面目にロマンスを書こうと思ったら第一章を書き終わる前に絞首台に吊るされるとまで言っている。

チャート

決定木 (3)

作品所感

  1. 分別と多感
    デビュー作。分別寄りの姉・エリナーと多感寄りの妹・マリアンのダブルヒロインと見せかけて、エリナーの方にも割と多感がある。しかし語り手のエリナーはそれを語らない、という幸せストーリーに見せかけた認知の歪みがある。
    真面目な感想
  2. 高慢と偏見
    代表作。私賢くて人を見る目に長けてるわと自負するヒロインのエリザベスが高慢ちきの金持ちダーシーと出会って喧嘩する。喧嘩の原因は両者にあるのだが、やりこめられたダーシーがエリザベスに認められたくて頑張るのが他の作品にない持ち味。
    エリザベス自身が冗談好きなので全体的にかなりコメディな一作。娘の結婚しか老後の楽しみがないママとそういう俗世のことには興味ないパパ(エリザベスのことはお気に入りだったので結婚してしまい寂しがっている)がいい味出してる。なんでこの二人結婚したんや。
  3. マンスフィールド・パーク
    内気すぎる居候・ファニーがヒロイン。しかしお世話になっている従兄弟一家全員で素人演劇することになっても役者を断固拒否するなど我の強い一面がある。この演劇が作品全体の暗喩になっている。
    一切浮気せずにずっと慕っていた従兄のエドマンドとくっつくのが実は珍しい。やっぱ頑固なんだと思う。身長差カプ(断定)。六作の中でも長めの作品だが、青い鳥はすぐ側にいたんだねとエドマンドが気がつくのは作品の最終盤で、書きたいところしか書いてない感がすごい。
  4. エマ
    誤解すれ違いが錯綜するミステリ風ラブコメ。エマがずっと勘違い女で個人的には一切好感がもてないのに最後まで面白いのがすごい。オースティンの作品は女姉妹が頻繁に登場するというか男兄弟は一切出てこないのだが、エマにもハリエットという妹分が登場する。しかしハリエットがナイトリー(エマの男)に恋していると知った途端、身分違いの恋だと詰ってハリエットにめちゃくちゃ冷たくする。六作の中で最も身分差が痛烈に表に出ている一作。
  5. ノーサンガー・アビー
    死後に「説得」と共に発表されたが、執筆時期は最も早い。小説好きで妄想癖のある元気な女の子キャサリンが主人公。十七歳のはずだが読後感はどう考えても厨ニ。でもヘンリーはそういうとこがかわいい言うとります。
    途中で挟まる作者の主張(小説愛)が強い。さながら少女漫画の枠外から主張してくる作者のごとく。
    前半の社交都市バースと後半の田舎ノーサンガー・アビーの対比がきいており、六作の中で一番風景描写がいい。オースティンは人間以外の描写をほとんどしない。
  6. 説得
    なんとヒロインのアンと海軍軍人(これはレア職)ウェントワースとの恋物語は、親戚からの説得にアンが折れて八年前に破局している。そこから再会した二人。出世した元恋人。再び燃え上がる恋が描かれるのかと思いきや全然描かれないのですごすぎる。読者とヒロインをやきもきさせた末の最終盤、手紙のシーンが圧巻。
    六作の中では最もロマンス寄りに分類されるらしいが、これはラブコメを極めた作者によるアンチラブコメだと個人的には思う。

参考書籍

この光文社古典新訳文庫が入門としておすすめ。エリザベスの口調が相当くだけている。
豊富な注釈と解説、物語の鍵となる戯曲の翻訳までついているよくばりセット。去年出版されたばかり。
訳者は長編六冊全てを一人で訳した経験をもつ。あと「ジェイン・オースティンの読書会」も。
エマの中公文庫は読みにくいのでやめたほうがいい。
ジェイン・オースティンを学ぶ人のために
作者経歴、主要六作の解題など。

分別と多感感想

原題:Sense and Sensibility
出版年:1811年
オースティンの長編としては一作目(全六作)で、続く二作目は最も有名な「高慢と偏見 (Pride and Prejudice) 」。どちらも韻を踏んだ2つの単語が接続詞andでつながっているが、分別と多感はいわば「分別 vs 多感」といった物語の中の構図を表したタイトルだ。
物語の中の勝敗は明らかで、分別の代弁者・エリナーは困難を乗り越えエドワードを夫として獲得した一方、多感の代弁者・マリアンは恋した男が実はろくでなしだと判明し、エリナーの態度を見習うようになる。さらにはマリアンの最終的な夫が分別よりの人間ということで、論ずるまでもなく分別の圧倒的勝利である。
しかし、物語の外に出ると人気を得ているのは今も昔もマリアンであるらしい。これは解説で述べられている所感だが、確かにSNSなどで感想を探してみると「マリアンの方に共感した」といった感想はよくみつかる。そもそも共感をベースに語られなくてもいい気がするが、対立構造があることでどちらの陣営へ所属したいといった感想を述べやすいのかもしれない。
しかし、マリアンへの共感は必ずしも多感な現代人の多さを示している訳ではなさそうだ。というのも、小説は明らかにエリナーへの共感を阻む構造になっているからだ。エリナーとエドワードの出会いからしてそのやり口は強烈で、なんと二人の会話は直接話法では描写されず、エリナーとマリアンの会話を通してエリナーがエドワードの美点を語るという控えめな愛情表現が行われるに過ぎないのだ。
エリナーはこの本の中心となる三人称の語り手なのだが、実際に喋っているシーンはマリアンやお喋りおばさんのジェニングス夫人の方がずっと多いだろう。分別と多感においては、直接話法で会話する量の多さそのものが、多感な人物像の描写になっている。
エリナーの唯一といっていいほど長回しの台詞は、マリアンへの反論の言葉だ。失恋に落ち込むマリアンだったが、実は彼女を慰めてくれるエリナーも数ヶ月前に失恋していたことを知る。一切そんな素振りを見せなかったエリナーに驚いたマリアンは、エリナーがさして落ち込んでいないように見えたのはエリナーの気持ちが大したものではなかったからだと感情的に詰る。それに対してエリナーは、数ヶ月この状況を誰にも伝えることのできなかった己の苦しみがいかに大きなものだったかを珍しく長々と述べている。しかしそんな台詞の中でもエリナーの喋り方は極めて理性的であり、寡黙な人間が突然長々と喋りだしたことで、ある種の恐ろしさを感じさせるようなシーンとなっている。
普通、直接話法の少ないキャラクターだからといって、視点人物が共感を呼ばないとは限らない。むしろ直接話法に代わる内省的な描写は読者への共感や支持を生むケースも多いだろう。しかし、エリナーは地の文の中でさえエドワードへの愛情を読者に語りかけるといったことはない。むしろエリナーはマリアンを慰めることで、エドワードのことは考えまい、読者には伝えまいとしているように映る。最終的にはエドワードと結婚し、幸せになったという描写をそのまま信じるのであれば、エリナーをミステリにおける「信頼できない語り手」とも捉えることができる。
分別と多感は、物語の筋だけなぞれば多感の浅慮を窘め分別の重要性を強調するプロットであった。一方で、直接話法と間接話法を通して、分別をもつ人間のどこか底知れなさを描く物語でもあったと思う。

SFを楽しむ

三年くらい前から割と意識的にSFを読んでいる。
自然科学を修めている人間なのだが、社会科学と対比した自然科学って、学問する対象よりは世界の理を探す人間の働きに本質があると思う。自然科学は世界vs人間、社会科学は人間vs人間。
だから単純にサイエンスが対象とするものをモチーフにした小説ではなくて、世界の謎が解かれる小説を読むと、サイエンスフィクションだな~と思う。
具体的にそれを感じた小説としては、ジェイムズ P. ホーガンの「星を継ぐもの」がある。人類は宇宙のどこから来たのか、といった謎を巡るSFなのだが、解説でも

ストーリーを中途半端に語るよりSFにサイエンスを取り戻す、50年代SF(ハイライン、アシモフ、クラーク)の血を継ぐ70年代のSF

(メモからなので正確な引用ではない)と語られていた。
書籍に詰め込めるものは限られているというより、書籍から受けとれる印象というのは限られているので、「星を継ぐもの」でサイエンスに集中できたのは、他の要素に心が動かされないからだと思う。解説では「ストーリー」という言葉を使われているが、私はキャラクターを削いだ結果だなと感じる。
当たり前だがキャラクターが立っているからSFとして魅力的でないということはない。先の解説にはハイラインが出てきたのだが、「月は無慈悲な夜の女王」は割とキャラクターも魅力的なSFだなと思う(→当時の感想)。キャラクターを描くことが多くの場合(時に必須のように)物語の魅力と取られる中で、それで掬えないジャンル特別評価点を与えているといった感じだ。本格ミステリに対してトリックやフェアさ、純文学に対して文章への拘りや構造の冒険を評価するように、SFに対して「世界を語ることに注力しすぎてキャラクターへの描写が疎かになっている状態」にポイントを与えている。
「星を継ぐもの」は、キャラクターを削ぐことで読者をサイエンスに集中させているが、実際には物語の中でキャラクターを全く語らないことは不可能で、SFを読んでいて「人間への興味がないね~」と感じる時、逆説的にサイエンスらしさを感じることがある。
実際にそれを感じた作品には「夏への扉」「三体」などがある。最近読んだシナリオだと「十三機兵防衛圏」にもそれを感じるのだが、ゲームという媒体ではキャラクターを完全に捨てることはできないのだと思う。しかし、このような切り口で語ってしまうと「キャラクターを描けていない」という批難に聞こえるので難しい。批難ならまだしも、読みが浅いというか、単純に「登場人物に共感できなかった」と区別して、客観的に人に伝えるのが難しいと思っている。