起床。

古賀さんのインタビューだ!この連載、オモコロの原宿さんのも見たけどウェブ編集者がやたらつやつやしている特に情報量のない写真が並んでいてその点がよくわからないな。
アイディアをどう出すかという問題に対して「思いついたことをすぐメモする」という回答は頻出する。古賀さんも日記をやっているのでやはりなと思ったし、ペンギン・ハイウェイでアオヤマ君もやっていた。そして私も読む度によっしゃ今日からやったるぞ、と思うのだが毎回挫折している。
結構メモをとる人間としての自負があるので遺憾なのだが、原因は2つある。
まず、「どういうことをメモするか?」という問題がある。先人達は「気になったことはどんな些細なことでも」とか「後で見返してなんでこれメモしたんだ?ってこともメモってます笑」とか言うのだが絶対嘘である。思ったことを全部メモしていたらいくら記録媒体があったって足りないんだから。この「思ったこと」と「思いついたこと」の境目がわからない。そうすると徐々に「これは思いついたことじゃなくて思ったことだからメモしなくていいかぁ」という堕落が始まる。これが第一の問題。
何故堕落が始まるかと言えばメモするのが多少なりとも面倒くさいからだ。ここで「どういう手段でメモをとるか?」という問題が立ち上がる。現代的にはスマホが一番の選択肢になるし、後から整理するのも楽そうだがこれには致命的な見落としがある。私はスマホを持ってない。以上だ。
ただ、スマホを持っていたとしても多分上手くやれないと思っていて、私はガラケーもiPadも全然携帯できないのだ。業務上必要なのに家に置いてきたりする。それからこのスマホも万能ではなく、絵や図が簡単には描けないという欠点がある。図で書いておきたいな!という時に書けないというストレスは結構大きくて、それがメモしなくてもいいかぁにつながる。じゃあアオヤマ君に倣ってポケットの中の小さなノートとボールペンだ、と思うのだが、これは一週間と保たずにノートがぐちゃぐちゃになった。
第二の問題の唯一の解決策は世界に一つしかない。腕にマジックでメモすることだ。山に暮らしているときはそうやってアイディアとタスク管理をしていた。腕が真っ黒になってて会う人会う人に気味悪がられた。
なんでもメモする、というのは誠によく聞く習慣なのだが、こんな習慣をもっている人なんて本当にいるんだろうか。見たことがない。これまでの推測をまとめるとそのような人は、例えばスーパーで何か思いついたら、子供を「ちょっと待って!」と引き止めて、牛乳の棚の前で立ち止まりその場で30秒くらい徐にスマホをいじりだすことになる(または腕まくりしてマジックで己の腕に何か書き込み始める)。そんな人がいたら人生の中で一度くらい「この人、今思いついたことをメモしている!」と気がついてもいいはずだ。
幻なんじゃないかなぁ。
引き続き部屋にショウジョウバエが湧いており(自然発生説)集中力が切れて最悪だった。最悪ではない。昨日より確実に数は減っているから。思うにゴキブリは不快な感情を引き起こすより他に人に危害は加えないのだから、集中力が切れるという明確な害を及ぼすハエ類の方が害悪なのではないか。特に私はこの集中力の切れ方が半端なくて、ハエやカの類が目の前を飛んでいると何もかもを放ぽっりだして急に狩りモードに入ってしまうのだ。おかげで物は壊すわキーボードの上にコーヒーをひっくり返すわもう大変。ちなみに本日の狩りの成績はアースジェット使用時とトントンくらい。
上記事実を日記に記すか迷ったがそもそもなんでハエが発生しているかって、まめに自炊をやっているからである。よって褒めてください。生ゴミはちゃんと捨ててます。捨てても湧くんです。
「私vsアースジェット」、古賀さんのインタビュー記事を受けて私が本日唯一メモした内容。

起床。

今日は全体的に低調な日だった……。頭は回らねぇしモデルは動かねぇし部屋に羽虫が入ってきたし、あとは創作についてよしなし考え事をしたりしていた……。
大神は天空まで続く塔の外壁に張り付いて延々と登るというミッションを課されてめちゃくちゃ怖かった。あんなことを書いた罰か。

起床。

腕が微妙に痛い。腱鞘炎かも……。腱鞘炎について、名前をよく聞く実態のよくわからない恐ろしい病気だというイメージがある。腱鞘炎だとしたら原因は明らかで、春に買ったトラックボールマウスがでかすぎるせいだ。対策用にリストレストを買ってあるのだがどうやら無意識に脇にのけているらしい。ほぼ新品だが買い替えた方がいいかも……。それで朝一に自分のトラックボールがどれくらいで売れるのかメルカリで眺めた。恐らく面倒で出品なんかしないのに何故こういうことをしてしまうのか。私のお下がりのトラックボールマウスが欲しい人がいたら声をかけてください。

「春にして君を離れ」読み終わった。めちゃめちゃおもしれ~!
ジョーンをプア・リトルと呼び、蔑む権利はロドニーにも読者にもはないのではないかと思う。解説で栗本薫(の夫)が、ロドニーが現在の立場に甘んじているのは本人の判断の責任であって妻の責任ではないと指摘しており、それには大いに同意するが、同様に子供達のこれからの幸不幸は子供達自身にあるし、バーバラの自殺未遂は母親の責任にはならないと思う。ジョーンは子供を庇護すべき時代の責務を立派に果たした(レスリーと同じように自分が第一と思うことをやりきった)ことを誇ってもいいはずだ。寧ろジョーン自身の父母と同じように、ジョーンがそのような人間だったからこそ子供らが批判的にで怜悧に、自然を愛し、自由と愛のために生きるよう育った風もあったと私は思っていて(結果論として、だが、物語なんだから結果論しか語り様がない)、その背景にはジョーンとロドニーが農場ではなく法律事務所の元で働いた結果、経済的に不安のない家庭で育てられたという因果があると思う。エイヴラルが母は何もしていないと言っているが、流石にそれは当時の家庭の様を想像すれば、酷い言い様というか、的を射ていない幼い感性ではないか。例えば本が読めない学校に進んだらエイヴラルはあのような人間になったか?ロドニーも子供に与えることができたものをわかっているから今の状況に甘んじているんじゃないか。だからジョーンがいない時間を「休暇」と呼んだ。「仕事」に戻るものとして。
それに、「ジョーンのようなタイプの人間」がいて、そういう女は愚かだという見方も違うと思う。ジョーンがショーンやブランチにそうしたように、ロドニーがジョーンにそうしたように、誰だって自分の立場から勝手な想像で他人を哀れみ、育てた子供と自分の価値観が食い違って強権的になり(そうはいっても暴力を奮ったり毎日ヒステリックになったりしないんだからいい母親だ)、自分は他人とは違う進歩的な人間だと勘違いしたりする。実際、砂漠の中の田舎駅に読む本もなく置き去りにされてそういった内省を一つもしない人間なんているんだろうか?
どこまでも主観の物語だと思う。例えばジョーンが一時的に得た思考を元に、帰ってきてすぐにエイヴラルに「罪」を告解したとしても、エイブラルにしてみたら「だから何?」といったところだろう。それでエイヴラルが子供時代に得た思い出が美しいものに変わるわけではない。でもそれと同様に、ジョーンの認識が旅に出る前に戻ったとしても、事態は何も悪い方向には向かっていないのだ。
酒が飲みたくなったので飲み会を調停した。
偉いので今日も少し仕事をして、モデルが動くようになった。よしよし。
使っている技術が一応今流行の……というやつなのだが、そういうものについてウィキペディアのページを見るとでかい歴史の中の些細な1ページ(文字通り)にすぎないということを実感できておおらかな気持ちになる。
「申し上げにくいお願いですが」から始まるウィキペディアの寄付願いに応じると簡単なアンケートがついてくるのだが、寄付理由を聞く選択肢に、寄付をお願いするメールの文面がよかったから、という選択肢があって笑った。そこの魅力自覚あるんだ。

起床。

三連休の中日なのでだらだら仕事をする日にする。休みってまとめて来るより週の真ん中に来てくれた方が嬉しくないか?もっと言うとまるっと休日があるより一日の労働時間が短くなる方が嬉しい。本当は裁量労働制なのでそういうスタイルも許されている。が、このような価値観の体現は怠惰のために実現に至っていない。
今日の重大発表……なんと……ようやく嫁のポスターを貼り直した。
長い道のりだった。3月に友人が新居に訪れ、「前の家に貼ってた木曾ちゃんのポスターないじゃん。嫁じゃなかったのか」と言われて忸怩たる思いを抱えて以来、ずっと一大プロジェクトとして取り掛かっていた嫁ポスター設置計画。まず取り掛かったのは場所の選定であった。窓の上部、30度ほど手前に倒れ込んでいる斜めの壁という一等地を確保。両面テープで一度貼ったが何故かポスターの上の辺の水平を取ると下の辺の水平が合わない。さらにしばらくするとテープの強度が足りなかったか落下。3Mの更に強力なテープをわざわざ買い足すも、30度とは言え下向きの自重に耐えきれないようでまた落下。なんなら前のテープの方が保った。押しピンがどこかにあった気がしたがどうやら旧職場に寄付してしまった。100均に行く度に買うのを忘れる。そうこうしているうちに3Mテープ同士がくっついてポスターがピンチ……。等の困難を乗り越え、本日昼、ようやく嫁のポスターはあるべき場所にあるべきように収まった。あとは日焼けで色が抜けるまでここにいてもらう。
説明しづらいのだが、いかにもオタクがポスター貼りそうな壁にオタクっぽい水着美少女のポスターが貼ってあるところが気に入っている。これがインテリアってやつか。
親から仕事の状況、熱中症等体調の問題について近況報告をするよう催促が来ていた。面倒だったので昨日のカレーの写真だけ撮って送ったら「なんだか知らんが、美味しそうだし元気そうで何より。」とのこと。確かに身も心も元気でない人間はスパイスカレーを作ろうと思わないだろうな。便利な知見を得た。
親曰く、昨日は妹が家に寄って一緒に京アニ「聲の形」を見た、お前も近日中に顔を出せとのこと。何故昨日のうちに声をかけない!?

起床。暑い……。クーラーつけて二度寝……。

もう一度起床。
ぽちょぽちょ大神をやる。ダンガンロンパでしばらくアクションはうんざりだと思っていたのにまたアクション要素があるゲームを買ってしまった。
春にゼルダをやった時にも思ったのだが、高所を飛び移ったり高所で戦闘するアクションが異様に下手だ。なんなら狭い足場を普通に歩いているだけでも落ちる。見ているとまるっきり足が竦んだ生き物の動きをしている。いやはっきり言うと結構怖いのだ。自分が高い所に登った時と同じような、あの鳥肌が立つ感覚がある。落ちても狼は死なないのにな。ゼルダの方はグラフィックがすごく綺麗なのでそのせいかと思っていたが、また同じ感覚があるということはグラフィックではなくもっと別の要素で引き起こされている感覚のようだ。
19時頃に決心して立ち上がりカレーを作り始めた。材料買ったし日記に書いたしマリネもしてあるしな……。一度スーパーに出かけるため外に出たが、換気扇からすごくタイの匂いがして笑ってしまった。このままカレーを作ることが習慣化すると近隣の住民にカレーの人として認知される可能性がある。前のアパートにはたまに筑前煮を作るお姉さんが住んでいたのを思い出す。顔は知らない(女性専用アパートだったのでお姉さんではあるはず)。
見た目も匂いもよかったが味は微妙だった。酸っぱすぎるな。カルダモンとレモン汁でマリネしたところまではよかったはずなのでカレーとの相性が好みではないだけか?食う前に味見をしろという話だが、味見で調整できる料理って限られていると思う。スパイスは入れるタイミングが割と前だしマリネしている時点で肉の味は決まってる。味見したってどうしようもなかったのだ。味見絶対主義反対。
「春にして君を離れ」読み始めた。とりあえず内容以外の話をするが、”Absent in the Spring”に対する「春にして君を離れ」という訳が本当にかっこいいしはまってる。私は翻訳小説をそこまで読むわけではないのだが、昭和の翻訳って妙に味のあるものが多くて好きだ。(ちなみに1984年の新訳では「オリエントより愛をこめて」という訳になってる。これもなかなか思い切ったな……)。しかしイギリスのミステリの大家アガサ・クリスティの本を訳すことになって、この本はこれから日本では「春にして君を離れ」と呼ばれることになると決めるのはどんな気持ちだろうな。