庭の話の話
宇野常寛「庭の話」読んだ。共同体の中で安直に得られる承認欲求を越えて、構成していくあるべき場(=庭)とは何か探求をしていくという話。庭とは自分ではどうしようもできないものと関わる場所、何をしたかでは評価(承認)されない場所、孤独な己を一部公に開示する場所、とのこと。ただし、既に庭が現実に存在するという話はしていなくて、庭を一部実現している例として、コインランドリーに付随するカフェ、福祉施設、特異な形式の会社などが登場する。
宇野さんの著書の初読は「ゼロ年代の想像力」だった。先に読んだ「動物化するポストモダン」に対して、「ゼロ年代の想像力」はかなりオタク的に覚えのあるところが多かったので(年代が主要因だろうけれど)よく覚えている。「庭の話」でも、庭の中で浪費に失敗し傷つき変容する例として、スラムダンクの二次創作をやる腐女子の例が出てくる。そのパートの筆致が壮絶で、原作に「傷つく」姿は個人的にも共感できた。だからこそ、現実世界に化現する庭の例として即売会が出てこないのはやや不自然にさえ見えた。自分ではどうしようもない原作と関わり傷つき、その場にいるなあと思い(例えば敵対カプが隣のスペースに)、そこに孤独な己を同人誌として叩きつける場、庭そのものじゃん。
クリエイティブなんかじゃない
まあ、人類皆が架空の物語に対して二次創作したいという欲望なんか持っていないし、そんな世界はちょっとキモいというのはその通り。「庭の話」冒頭でも、人は誰しも世に問いたい思想やアイディアがある訳ではない(ので、手軽な承認を得られる手段として例えば極右、極左のコミニティに属して「賛同」を示す)という話が出てくる。
でも、人類皆同人誌を作らないけど、創作はするじゃん、と思う。私が今月作ったものは以下。
- 同人誌(世界で一番いい本)
- ペーパー(世界で一番いい無配)
- 指導教官が教授に昇進したのでお祝いのビデオレター(指導教官が「なにか」にいっちゃったため報道番組にインタビューされる関係者風)
- エッセイ漫画3本(興が乗ったの制作時間2時間くらいのラフなものをいっぱい描いた)
- ブログ記事(随筆・随筆・麻雀勉強のメモ・即売会の感想)
- 動物が登場する絵本と小説のプレゼン(時間なくて全然準備できなかった)
- ソースコード(食い扶持を得るため)
- 長谷川あかり氏のごはん(食うため。無精してプレーンヨーグルトの代わりに家にある加糖ヨーグルト使ったら失敗した)
そんなに特別なことばっかじゃないじゃん。ビデオレターは研究室のOBOGが全員提出しているわけだから(してるよね?)。エッセイ漫画は小学生が授業中にする落書きの延長をやっているような気がしているし、ブログ記事は長めのTwitterだし、ごはんも作るし。失敗もするし。
今の会社に転職した辺りから、時代の流れを受けてオタク趣味を隠さないことにしている。特に漫画を描いている話をすると「クリエイティブな趣味なんだね!」と言われる。そのあたりも時代っぽいな。
クリエイティブじゃないけどな、と思う。これは個人がもつ言葉の印象の話だけれど、クリエイティブってやっぱり特別な職種につく言葉だと思ってるから。でも敢えて肯定から始めるとしたら、俺が特別なら人類皆特別ですよ、と言える。
蜜月を過ぎても
DEATHNOTEにハマりにハマっている友人が「(今が)萌えてるカプとの蜜月」と書き綴っており、あまりに好きな表現なのでずっと反芻している。来るよね、蜜月。やがて蜜月でなくなってしまう時が来るのをオタクは知っているからこそ、蜜月が存在すると理解できる。
1つの蜜月が終わるだけならまだしも、やがてそれに出会っても蜜月である時期がどんどん短くなって、やがて蜜月に足る時間が来なくなったらどうしよう。そういうことをここ数年よく考えている。年を食ってパーティーが終わって体力の衰えを覚えて頭に走る電気信号が減って蜜月は過ぎて中年が始まる。
それに沿うと、都市伝説解体センターとの蜜月は、本に収録した1話目を書いた瞬間から3話目を構想した瞬間までだった。3話目を描き終えた今は蜜月じゃない。
それでも、いや、それにも関わらず本にできてよかったなぁと思う。ブログ記事(恐らく世界で2、3人しか読んでいないでしょう)も立派な創作ではあるけれど、雪玉を転がすように本まで作れて、おまけに即売会にまで出られたことこそがよかった。思えば、提出〆切ギリギリに思いついて帰宅して2時間で作ったビデオレターがウケたらしいことも(お披露目の場に私がいなかったのは残念だが)、友人がエッセイ漫画を褒めてくれたこともよかった。それは承認欲求とは少し違う気がする。
今月は年賀状を描かなきゃいけない。結局ずっとここに小さな庭を作っていくしかないのだから。