亜鉛、あるいは菜食主義者の一人暮らし

空腹だと感じている内は、腹が減った内には入らないのだ。放っておくとその内にキリキリと痛みだして、最後に何も感じなくなる。それでようやく空腹だ。一日一食と半分しか食べられなかった暮らしで学んだ。
そういう訳で、百は腹が減っている気がしなかった。時刻は夜の九時。昼食を食べたのが午前九時なので、丸十二時間何も食べていないことになる。何か食べた方がいいのはわかっているが、一刻も早く眠りたかった。明日も家を出るのは早い。
早朝五時から放送されるニュース番組に、コーナーのゲストとして週二で出ることになった。夜の十一時には寝て、朝は二時に起きる。電車は動いていない。岡崎を起こすのも申し訳なくて、百は自分で車を運転することにしている。そこから六時の番組に出て、あとはもうどうしようもない。普通の人々と同じようにスケジュールが始まる。
千と別々の暮らしを始めて一ヶ月。百の生活はめちゃくちゃだった。
今にも瞼が落ちそうだが、胃に何かいれないと眠りも浅くなる。渋々「非常食」と書かれた段ボールを漁ると、カップラーメンを発見した。季節限定のミルク味に湯を注ぐ。千には渋い顔をされるが、百はコンビニ食が結構好きだ。行く度に新しい商品が出ているので話のネタになる。
立ち上る湯気を顎にあてながら緩慢な動作でラビチャを返していく。途中で一瞬意識が途切れて、気がついた時には五分以上が経っていた。その後で段ボールの中から割り箸を探すのに、また五分を要した。
口に入れた麺は、なんだか妙に水っぽかった。もともと料理などできないが、ついに決められた線まで湯を注ぐことすらできなくなってしまったか。しばらく噛み続けていて、水っぽいというより全く味がしないのだと気が付いた。風邪だろうか。しかし体調は悪くない。まるで舌が切り取られてしまったように、味覚だけが消えている。スープまで腹に収めてから百はスマホを開き、「味 しない」と粗雑な検索ワードを打ち込んだ。一番上に表示された広告だらけのページに目をやる。
味覚障害の原因は亜鉛不足! ページの一番上ではゴシック体がそう主張していた。なんだか地味な病気があるものだなと百は思う。鉄分が足りなくなと貧血になることくらいは百も知っていた。高校で付き合っていた彼女がいつも顔を真っ白にしていたので。しかし亜鉛とは。理科の授業で名前を暗記した記憶しかない。
ページをスクロールしていく。普通に暮らしているならば十分足りるはずの亜鉛が、食生活が乱れると不足してしまうことが原因らしい。清涼飲料水を毎日三本以上飲む人は要注意! という文字を見つけて思わず笑ってしまう。オレじゃん。ページの末尾にどぎついマゼンタが「でも忙しくて栄養バランスに気を使えないアナタにはこれ!」と栄養ドリンクの存在を謳っていたので、百はそこでタブを閉じた。
貧血でなくてよかったな、と思う。百が何も言わなければ誰にもばれることなどないだろうから。次の飲み会ではもう少し気をつけて意欲的にカキフライを食べるようにしよう。

そこからは怒涛の飲み会だった。早すぎる忘年会のシーズンが始まってしまったから仕方ない。ただでさえ多忙だった百のスケジュールは尚更しっちゃかめっちゃかになった。もう流石に呼ばれれば何処へでも顔を出すような仕事の仕方はしていないが、宴の席となれば話は違う。今のやり取りはなくても将来の仕事のために顔を売りたい相手はいくらでもいる。信用は築くよりも、維持する方がずっと難しいのだ。スタジオからロケ先、チェーンの居酒屋から高級フランス料理店まであちらこちらに駆け回った。一日五食食べた翌日は一日一食しか食べられなかった。そうしている間に胃の隙間にアルコールを流し込む。カキフライは食べ損なった。
連続七日の飲み会を終えた夜、ようやっと忘年会ラッシュは一段落した。久しぶりに全うな時間に静かな晩御飯が食べられるらしい。
誰を誘おうかな、とアドレス帳を開きながら百は考える。一人で食べるという選択肢はなかった。会合がなくとも、この時期に声を掛けておきたい業界人などいくらでもいるのだ。このプロデューサーとは一昨日話したから大丈夫、この新人さんは多分来週の打ち上げで会うことになる。さっき覗いたバラエティの打ち上げに混ぜてもらうのはどうだろうか……。チャットの窓を切り替えながら廊下の角を曲がると、そこには思わぬ人物が立っていた。白銅色の長い髪に黒のコート。百がついこの前プレゼントしたばかりのカシミアのマフラーを巻いている。見間違えるはずもない。千の方も百に気が付いてゆるゆると手を振る。
「ユキだ! どうしたの? 今日ここで収録じゃないでしょ」
「スケジュール変更になったんだ。来週の撮影、先にしてきた」
「教えてくれたら遊びに行ったのに……」
「モモはモモの仕事で忙しいだろ」
そこで百は少し違和感を覚えた。千はいつでも楽屋に百を呼びつけたがるというのに。
「今日は誰と食べに行くの」
「え……」
何故だか百は試されているような気がした。千に、ではない。何かへの正しさを求められている気がした。
「イケメンな相方と……?」
「へぇ、そうなんだ。いいね」
そう言うと千は勝手に背を向けて歩きだしてしまう。慌てて百はその後を追いかけた。

家に着いた千が冷凍庫から取り出した分厚い牛肉を見て、百は目を丸くした。
「ス、ステーキ……!」
「下拵えする時間ないから、焼くだけ。いい?」
「うん! すごい!」
牛肉が流水で解凍される間に千は手早くサラダを作り上げた。冷蔵庫から豆腐やらトマトやら百の名前の知らない葉っぱやらが次々と出てきて、刻まれて、スプーンとフォークの化け物みたいな匙でぐりぐりとかき混ぜられた。野菜は少しばかりしなびているような気もしたが、もしもそうであるなら百は千の家の冷蔵庫の片付けに貢献できることを嬉しく思う。
「あ」
最後に軽く炒ったナッツとごまがボウルに加わったので、思わず百は声を上げた。亜鉛が豊富な食べ物だと、この前読んだばかりである。
「なに」
「いや、なんでも……」
マネージャーにさえもバレていないのだから、千は勿論何も知らないはずだ。野菜ばかり食べる人だから、偶然栄養価の高い食事になっただけだろう。
千はサラダをよけて、氷水に手を突っ込んで肉の塊を引き上げた。さっきから野菜を洗ったりなんだりと忙しなく冬の水道水に触れていた指の先は赤く染まっていて、百にはそれが痛ましかった。千はお構いなしに、半分解けた肉に塩やら胡椒やら刺激的な匂いのする粉やらを振り掛けて、筋を切ってからフライパンに放り込む。油の弾けるいい音と共に、にんにくの匂いが立ち上った。
「すぐできるよ。座ってて」
「うん! いい匂い! おいしそう!」
そうは言っても、今の百にどの程度味がわかるか怪しいところだが。サラダを食べればたちまち舌はいつも通りに、とはいかないものだろうか。そういう果物があった気がする。
「そう。よかった。料理するの久しぶりだから」
「え、なんで? 外で食べてるの?」
千が外食だなんて珍しい。近所に気に入った店でもみつけたのだろうか。それなら百にも教えておいて欲しかった。
「なんでだろうね。食欲ないんだ。朝と夜はあんまり食べてない」
百は顔を青くした。重症だ。何か腹に入れている分、百の方が余程マシかもしれない。言われてみると、千はここ最近ぼうっとしているし、肌の艶も欠けている気がする。現金な話である。この瞬間までそれに気が付けなかった己を百は恥じた。
けれども千は一人でも暮らしていけるはずだった。たった一ヶ月前までは、千は毎日のように食事を作ってくれていた。互いに一人暮らしを始めるにあたって、事務所から「非常食」と書かれたレトルト食品が詰まった段ボールを配給されたのは百一人だった。
だからそんな様を晒すのはやめて欲しい。百は勘違いしてしまう。役に立てたのではないかと。まだ隣にいた方が、よかったのではないかと。
「買い出しに行くのも大変だし、一人で作り置き食べてても途中で飽きるし……」
それを聞いた百は千のパソコンの前にすっ飛んでいって、スーパーの通販サイトに登録してやった。この前のドラマで共演した娘をもつ女優に教えてもらったのだ。
食事の用意を終わらせて、百の後ろから画面を眺めながら千が言った。
「ごめんね」
千が謝ることなんて何もない。それでも百が泣きそうな顔でマウスを動かしているから、千は謝っているのだろう。そんなことはしなくていいから、きちんと食事をとって欲しかった。
「こういうのがあるんだ。便利だね」
「これでもう買えるようになったから、ちゃんとご飯食べてね」
「……モモもね」
そしてようやく二人は食卓についた。味がしないと予想していたサラダは、口に入れるとなんだか妙に酸っぱくて吐きそうだった。味覚障害が起こると味の感じ方が変化することもあるらしい。無理やり飲み込んで百は笑った。
「めちゃくちゃおいしいよ! 世界一!」
その時にようやっと、百は己の食生活を反省した。


Photo by Marvin Meyer on Unsplash

Published On: 2020年1月12日