ビフォア・ザ・ラスト・サパー

バラエティで緊張するなんて久しぶりだ。とうの昔に慣れたはずの照明が随分眩しい。じりじりと皮膚が焼かれるようで、襟足に汗が伝う。
パンを千切ると、中から油の乗った肉汁がじわりと染み出す。残りの具材はよくわからない。おいしそうだな、と素直に思うけれど。
アップの画像を撮るために、カメラマンが近付いてくる。手元が大写しにされているのを感じる。肌がびりびりと震えている。
咀嚼して、飲み込む。
振り返って千の方を見た。視線があうと、千は百に笑いかけた。あの日々のようだと百は思う。作った料理を食べてもらうことを喜ぶ、そういう性質の人なのだと思っていた。けれどもその認識は本当に正しかっただろうか。
「さぁ百さん!お味の程は――!?」

*    *    *

なるほど、芋を揚げたものがコロッケなのだから、里芋を揚げたものもおいしいに決まっている。今度家で作ってみてもいいかもしれない。
物珍しさで注文した里芋の唐揚げを頬張りながら三月は考える。百貨店の上階にある個室の居酒屋であった。
「とにかく、事態が深刻なことはわかって貰えたと思う。そもそも三月が原因なんだから」
本日の五種盛りを前にして神妙な顔をして三月の先輩--Re:valeの百は言った。寒ブリを賞味しながら三月が曖昧に頷く。旬の魚も新鮮で美味い。
きっかけを作ったのは三月が先月出演したバラエティ番組だった。構成上は、一流のシェフがゲストに登壇して、料理の意外な食材や値段を当てるという他愛もないコーナーだ。しかし何しろ調理師免許をもつ三月のトークがハマった。いかにも職人肌といった気難しげな顔をするシェフが、三月の喋るにつれて眉間の皺が取れていく様はSNSでも評判だった。
想定外のヒットに家電メーカーのスポンサーは大変喜んだ。当然のように他のアイドルとシェフでシリーズ化を、という話になり百に白羽の矢が立った。三月と同じくバラエティを得意とする若手アイドルであるし、グルメ番組で百が大きな口で肉やら魚やらに齧り付く姿はよくテレビにも流れる。
そこまではよかったんだ、と百は溜息をつく。
プロデューサーにも当然わかっていた。あの盛り上がりは三月だからこそできたものだ。トークは一流の百だが、台所事情には詳しくないだろう。三月を司会に据えて今後も番組展開ができればよかったが、そう簡単にはいかないのがこの業界だ。しかしNEXT Re:valeの三周年特番を見たプロデューサーは名案を閃いた。Re:valeを二人一緒に呼んで、シェフとの専門的なトークは千に担当してもらえばいい。正に二人でRe:valeと言うやつだ。ついでにNEXT Re:valeでも好評だった千の食事を食べる百の姿も映せば、Re:valeのファンだとか言うスポンサーもにっこりだ。岡崎事務所としてもセット売りは歓迎するところであった。構成はトントン拍子に決まり、かくして百はNEXT Re:valeに続いて再び千の料理と一流シェフの料理の食べ比べに挑戦することになったのだった。題して、『一流料理人vsダーリン! 手料理食べ比べクイズ!』。
「千さんから『三月君にお礼を言わなきゃね。久々にモモと一緒の仕事だ』って、わざわざ連絡きましたよ」
「そう……」
「何が問題なんですか?」
「……」
百は渋い顔で烏龍茶を一口啜った。今日は車で来ているのだろうか。
「オレ、ユキのご飯の味、全然わかってないっぽいんだ……」
「えぇ!?」
個室に張りのある三月の声が響く。「しぃ!」と百が人差し指を立ててた。なんだかバラエティっぽいやり取りだなと三月は思う。
「NEXT Re:valeで千さんのハンバーグ、自信満々に当ててたじゃないですか」
「あれ、まぐれ当たりなんだよね……」
三月はようやく箸を置いて居住まいを正す。確かに全ての事の発端は三月なのかもしれない。NEXT Re:valeで出題されたあの食べ比べ問題を発案したのも、他でもない三月だったのだ。ハンバーグはソースや見た目が似ていても、玉ねぎを炒めるか否か、つなぎの量などに個性が出やすい。百も好物だと言っていたので、これは中々の良問だと三月は一人悦に浸っていたのだが。
「でも食レポとか出てるじゃないですか」
「食レポに重宝されるアイドルは、グルメな子じゃなくて好き嫌いがない子だよ」
さらりと百が言う。環と陸の顔を思い浮かべて、三月は納得してしまった。あの二人のはしゃぎっぷりを見るとまた作ってやる気力も湧くというものだ。それは視聴者に共感を与えるものと同じなのだろう。
「ねぇどうしよう三月! ユキにバレちゃうよ! 今までの料理全部味わって食べてなかったことが!」
「味わってなかったんですか?」
「味わってたよ! 味わってたけど……あのハンバーグだって正解だと思ったし……。でもオレ、本当にわかんないんだよ、そういうの……」
店員が野菜の天ぷらを運んできて、会話がしばし途切れる。普段は店員相手にもファンサービスを欠かさない百だが、顔さえ上げなかった。
「でも、そんなこと今まで千さんに隠し通せてたんですか? 一緒に暮らしてた頃から千さんの料理食べてたんでしょ」
「今まで全部おいしいって言って食べてた。ユキはそれで喜んでた」
「なるほど……」
「そもそもオレ、ユキの料理だけじゃなくて、多分料理の味全部よくわかんないんだよね。高い店の料理もコンビニの弁当もおいしいなって思うし。嫌いな食べ物も全然ない」
三月は唸る。料理の味がわからないというより、拘りがないのだろう。いわゆる味音痴というやつだ。確かに三月とて、まずい苦手だと言われれば以後の味付けを調整もするが、おいしいと言われれば、その後特に考慮することはない。現に何度も百と食事をした三月も気がつかなかった。
「確かにいますよね、そういう人。作るこっちとしては文句言われなくて楽ですけど」
「ホント? 作り甲斐ないな、とか思わない?」
「オレは思わないですけど、確かに専門学校にはそういうこと言ってた奴もいたかな」
それを聞いた百は机に顔を突っ伏した。嘘はつけない和泉三月である。千がどちらのタイプかはわからないが、中々に手の込んだ料理を作るなとは思っていた。前に事務所でクリスマスパーティーをした時には盛り付けにも随分拘っていた。
「三月、頼むよ……。必勝法とかないの……?」
「必勝法……。あっわかった。スタッフに答え教えてもらいましょうよ」
「オレもそれは考えたけど、当たっても外れても面白いと思われてるっぽい。それに答えを聞いたことがユキにばれたら困る」
百は酷く真面目な顔で言うのだが、話の中身はなんだか間が抜けていて困る。笑ってしまったら気を悪くするだろうか。
とりあえず今わかることとして、どうやらこの場は先輩が奢ってくれそうだ。それを確信した三月は日本酒のメニューを手にとって店員を呼んだ。

*    *    *

そもそも幼少の頃から、百は料理の味に頓着などなかった。とにかく量が欲しかった。いつでも何か食べたかった。九十分間、頭を使いながら走り続けるというのはそういうことだ。意識的に肉を食べるようになったのもコーチがそう言ったからで、普通の食事では壊れる分の筋肉に作る分が追いつかなかったというだけだ。
だから全然困らなかった。突然食事が食パンとゆで卵だけの質素なものになったって。一日二食か、たまに一食になったのには少し難儀だったけれど、それもやがて慣れた。けれども繊細な同居人はどうやらそういう訳にもいかなかった。
「好きな食べ物なんですか?」
呼吸を整えて百は尋ねる。大声で歌っても構わない場所というのは案外町中にはなくて、公園のベンチから子連れの母親が不審そうな目でこちらを見ていた。
「野菜とか果物。マスカットとか豆とか」
「マス、カット……」
そう言われた時に一瞬、モモにはそれがアメリカ大統領の名前か何かのように響いた。嫌いではない。けれどもぶどうの中でも、マスカット。モモは生涯でマスカットを何度食べたことがあるか考えてみたが、ちっとも思い出せなかった。マスカット味のジュースの方が余程馴染みがある。
「普通のぶどうじゃダメなんですか?」
「甘すぎるから」
品種による味の差なんて考えたこともなかった。マスカット以外には何があるだろう。巨峰というのはあったと思う。デラウェアは多分衣服ではなくぶどうの名前だ。でもユキさんは巨峰でもデラウェアでもなくて、マスカットが好きなのだ。百はなんだか嬉しくなった。大好きなRe:valeの音楽は、そういう細やかな違いを好むような人から生まれてきたのだ。だからその時から、デラウェアは特別になった。ライトグリーンのぶどう。Re:valeのユキの色。
けれども千が思う存分デラウェアを食べられるようになる日はそうすぐに来るとは思えなかった。デラウェアどころか普通の野菜や果物さえ危うい。野菜というのは贅沢品なのだ。大学にも実家から通っていた百は、そういうことを初めて知った。
百が千の肌荒れを心配するようになった頃、百の耳たぶには穴が空いて、千は震える手で包丁を握るようになった。
それからの千の上達振りは目を見張るものだった。料理を始めたばかりの一人暮らしの男児というものは、もう少しめちゃくちゃをやるものではないだろうか。べちゃべちゃした炭が混じったチャーハンだとか、固くて生臭い人参の煮物だとか。少なくとも百の周りはそうだった。もういない、百の周りは。
その点、千はとてもスマートで、百がどこからかレシピ本を手に入れてくるとそれに載った料理を順番に制覇していった。百は毎日のように千を褒めそやした。その本が一通り終わると千は尋ねた。
「モモの食べたいもの作ってあげる。何が食べたいの?」
「なんでも好きです!」
「何かあるだろ。好きなものとか、嫌いなものとか」
「全部おいしいです! ユキさんのご飯が世界一おいしい!」
元気一杯そう叫んだ。嘘を吐いたわけではない。少し大袈裟にはしゃぎすぎてしまっただけなのだ。その失敗を今でもずっと引きずっている。
だってそう言うと、千はとても幸せそうに笑うから。曲が作れなくて落ち込んでいる千が、食事を作って、百がそれを食べるだけで喜んでくれるから。その姿を見て、百は少し千のことがわかった気がした。きっとそういう性質の人なのだ。誰かに何か作って、それを受け取ってもらうことが歓びになる人。
ちゃんと最初に伝えておけばよかった。でも、なんて?
百が言いそびれている間に千の料理はどんどん上達して、それに比例するようにRe:valeは有名になって、反比例するように二人で食卓を囲む時間は少なくなった。千がどこぞのバラエティで初めての料理コーナーを持った頃、二人は別々に暮らし始めた。
千が秘密を嫌うことを、百はつい最近知った。その事実を百が今まで知らなかったのは、百の隠し事が露呈したのが初めてだったからだ。けれども百は困っていた。だって些細な嘘なんていくらでもある。千が初めての海外撮影に行っている間、ロビー活動に精を出しすぎて体調を崩したこと。千を取り込もうとした星影の一派を懐柔しようとして、百の方が星影から睨まれたこと。今でもあの人の顔を正面から見られないこと。百が千を見ている時に考えること。見ていない時に考えること。百が生きるためにそれらは必要だったし、千にはいらない。それだけのことだ。そんなことをいちいち千に伝えてどうする。
言えないことが星の数程あった。それはこれからも呼吸をするように増えていくのだろう。そうやって、千に愛想を尽かされるまで生きていくのかもしれなかった。

*    *    *

親の仇のように百が目の前の皿を睨む。意を決して力強くスプーンを握り、牛肉と玉ねぎを掬い、噛む。そして大仰に飲み込む。テレビみたいな動作をする人だな、と天は思った。
「どうですか」
「……お肉がやわらかくて、おいしい」
「よかったですね」
カットだ。コメントはともかく表情があまりにも硬い。天は頭の中で編集指示を出した。
百がオフの日にわざわざ連れてきたのは高級住宅街の中に佇むロシア料理の店だった。百が天を同行させる店のチョイスとしては珍しい。そう思って訝しんでいたら事情を聞かされた。クイズで千の料理を当てるために、わざわざシェフ側の料理をお忍びで食べに来たと言うのだ。それをプロ意識と言っていいものか、天には少々判断が付きかねた。
「おいしいけど、オレこんな料理食べたことあるのかな。そもそもビーフストロガノフって何? シチューとは違うの?」
魔法使いの名前っぽい、と百は呟いてもう一口掬った。
「ビーフストロガノフにはサワークリームが入っていたと思います。白っぽいでしょう」
「なるほど……。あとオレ、シチューの白くない方とハヤシライスの違いもいまだによくわかんないんだよね」
ちっともわかっていなさそうだ。天はボルシチを啜る。見た目でじゃがいもだと思っていたのはりんごだったらしい。
「こっちにもサワークリームが入ってますよ。食べてみますか?」
「いいや。多分番組でも肉料理が出ると思うから。他の物食べると味忘れそう」
百の表情は真剣そのものである。
「百さんが味音痴なのはわかりましたが、その割にはおいしい店に詳しいですよね」
「グルメな人と一緒に行って感想聞いとくんだよ」
そういうやり方を使う人だと知っているので、今更驚きもしない。百にとって食事とは多分に外交の手段なのだろう。まさに天自身が、こうしてその恩恵に預かっているように。
「一緒にご飯食べるとどういう人かもわかるからさ。好みのお店とか知っといたら便利だし」
そう言うと百はいつも通り大きな口を開けて残りを平らげ始めた。味わう気はなくなったようである。そもそも百は食べるのが早すぎると天は思う。ちゃんと噛んでいるのだろうか。
「おいしかった! 本番はもう少しわかりやすい料理ならいいけどな……」
「わかりやすい料理って、例えば」
「すき焼きとか。ユキはすき焼きにトマト入れるから」
「ロシア料理ですき焼きは出ないでしょうね」
大体それでは別の料理になるではないか。運ばれてきた紅茶を啜って天は溜息をついた。
「そもそも料理の味がわからないくらい、あの人、気にもしないでしょう」
「そうかなぁ……」
天にも共感できないではない。大切な相手だからこそ、隠したい事はいくらでもある。例えば自分があの家を去った本当の理由だとか。でもどう見てもこれは違うだろう。こんな事まで秘密にしてどうする。小出しとか、ガス抜きとか、そういう言葉がおおよそ似合わない不器用な人である。
「こんな所で油を売っていないで千さんの家に食べに行ったらいいでしょ。一緒にご飯を食べるとどういう人がわかるそうですよ」
「天が冷たい……」と百は呻く。心外だ。天は店員を呼んで、さっきから気になっていた自家製ジャムのクレープを追加で注文した。

*    *    *

後輩のアドバイスに従ったという訳ではないが、番組の数日前に百は千の夕飯のご相伴に預かれることになった。
別々の家に帰るようになってから、百はルールを定めた。千との食事の優先順位は一番下にすること。人と人とのコミュニケーションに最も重要な晩御飯という機会は、基本的には一日一回しか訪れない。万理を探すために百に残されたチャンスは千四百と五回しかなかった。しかし、千にそのルールを遠回しに理解してもらうのはなかなか骨の折れる話だった。始めの頃、何度言っても千は平気で百の分の食事を作った。百は帰ってくるものとして勘定に入っていた。そうではないと伝えるために、百は必要以上に千の家に近付けなかった。
もっとも、それは昔の話で今はそんな時限爆弾を気にする必要はない。ないのだが、期限が取っ払われたからといって突然ルールを改訂するというのも現金な話だ。千だって困るだろう。だから結局、百は百なりの言い訳がないと千の家には寄れないままで、今日の食事も一ヶ月ぶりのことだった。
家で待っていたら予定より早く「着いたよ」と千から連絡が届いたので、慌てて冷蔵庫から荷物を取り出して、駐車場に降りる。
「ごめん、お待たせ。早かったね」
「この後モモとご飯食べるって言ったら、おかりんが早めに終わらせてくれた」
なんだか気恥ずかしくて、百はそれに上手く返事ができなかった。自分からそれを言い出すならどうということもないのだが。車はまっすぐ千の家に向かっているようだった。
「スーパーは? 寄らなくていいの?」
「ネットで頼んでおいたから大丈夫」
残念だ。米を運ぶくらいしか手伝えることがないのに。混雑し始めた夕暮れの道を抜けて、二十分程で千の住むマンションに着いた。家につくと早速千はワインを開ける。飲みながら作るつもりらしい。
「これ、おみやげ」
百が差し出した袋を覗き込んで、千は顔をほころばせた。
「マスカットだ。どうしたの急に」
「親戚から届いたんだけど、母さんがオレの所にも回してきてさぁ……」
母親は勿論気を使って送ってくれているのだろうが、百の家といえば冷蔵庫にはビールしか入っていない有様だ。そんな生活の主にとって、生ものの消費期限は余りにも短い。放っておくと腐るし、腐ると生ゴミを捨てなければいけない。要するに処分がとても面倒なのだ。どうにも百の親は未だにトップアイドルたる息子の暮らしを把握していないところがあるようだ。それは勿論百がきちんと話していないからであって、百自身の責任なのだが。百は未だに、出ていったあの家との距離を測りかねているところがあった。親や親戚が送ってくるそれらは大抵岡崎事務所に横流しされることになるのだが、今回は開けてみるとマスカットだったので百は珍しく隙間の時間で母親にお礼の電話をかけた。手土産があるので、今日は千と食事をしてもいいのだ。
余程嬉しかったのか千は貰ったばかりのぶどうを皿に移して、もうつまんでいた。果たしてワインとマスカットの食い合わせはいいのだろうか。百が隣に腰掛けると、千は百のグラスへワインを注ごうとする。
「あんまり飲まないよ」
「なんで」
なんでも何も、明日は早朝から仕事なのだが。けれども普段はそんなことで断る百ではないから、千が拗ねるのも仕方がない。
「来月からオレ、ドラマの撮影始まるじゃん? ちょっと身体絞らないとまずくてさ」
「別に太ってないと思うけど……」
「ダーリン超ジェントル! でもそれは違う、全然違う! あと五キロは落とす!」
百とてアイドルなのだから、体型の管理も仕事の一環である。普段から気を遣いたいのは山々だが、少し代謝が落ちるとすぐに太ってしまう質なのだ。逆に運動すればすぐに痩せる。千にはそれがよくわからないらしく、百が調整を始めると過剰に心配をする。その理由もわかってはいるのだが。
「そもそもちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ! 新年会でマジで太ったから! お腹触る!?」
「触る」
即答した千が無遠慮に腹を摘む。色気の欠片もない仕草がおかしくて二人でしばらくげらげらと笑った。
やがて料理をする気になったのか、千は立ち上がった。百はワイングラスを持って後ろを着いていく。
「何作るんですか、シェフ?」
千は黙ってコンロの下からトマト缶を取り出した。冷凍庫からはジップロックとラップで厳重に包まれた薄切りの牛肉。冷蔵庫からねぎ、白菜。春菊と糸こんにゃくで百はようやく検討がついた。
「すき焼きだ!」
「うん」
実家にいた頃は、特別な日にすき焼きが出た。それは多くの場合、百が上げた何らかの戦果の結果だった。トマトを入れるのは春原家の作法で、母親が家庭で作れる絶品料理とかいう番組で見たらしい。瑠璃は毎回のように意地悪く「百のお祝いって言ったって、百は全然味なんかわかんないじゃん」と宣った。遠い記憶だ。
一緒に暮らしていた頃、百が何の気なく「すき焼きって特別な感じがしますよね」と言ってから、千は何でもない日にすき焼きを作る。千の中には特別な何かがあるのだ、きっと。
食べ比べを攻略するヒントでもあればと思って、百は千の手元を覗き込む。
「トマト缶は? オレ開けようか?」
「缶詰潰さないで」
「潰してない!」
そうは言うものの、明らかに邪魔だったので台所からは撤退してソファに座って千を眺めることにする。千はキッチンに佇む姿も優雅だ。まな板を傾けて包丁で鍋にネギを入れる仕草だって、あんな風に映える人なんていない。百は本気でそう思っている。千が料理番組に起用されるのは、テレビの向こうの視聴者にも仕草を通じて料理の味が伝わるからに違いないのだ。
「ユキのご飯食べるの久しぶり」
千の背中に百は話しかける。
「そうね。モモが来ないなら他の子呼んで食べてもらおうかな」
けれども千はそんなことはしないのを知っている。大和を家に呼んだ時も食事は野菜ものばかりだったと聞く。つまり本来千の二食分になるはずだった食事を分けてもらっただけだ。千は基本的に、百以外の来客のためには食事を作らない。何故なのだろう。その理由を、百は知っているような気も、知りたくないような気もした。
「若い子の方がたくさん食べるもんね。その方が作り甲斐ある?」
「量を作るのは面倒」
お皿と鍋敷き出して、と千が声をかける。
トマトすき焼きと赤ワインと、デザートにデラウェア。千が「案外あう」と言うからきっと間違いない。百は両手を合わせて箸を取った。
「どう?」
「おいしい! イケメン! 世界一!」
いつも通り答えると、千はおかしげに喉の奥の方をくつくつと鳴らした。なんだか妙な反応だ。
「……何か入ってる?」
「ううん。結構いい肉入れただけ」
「なんで!?」
まだ大して噛みもしていない二つ目の肉塊を百は飲み込んでしまった。物の値段に執着しない嫌いがある千が「いい肉」だなんて、余程の高級品だ。もったいないことをした。それを言うならば百にこんな物を食べさせる方がもったいない話だが。
「マスカット持ってきてくれたから、お返しにと思って」
まずい、今のは気付けた方がよかった。味のわからない男だと思われたら困る。これまでの苦労が台無しだ。何の意味もなくこういうことをするのはやめて欲しい。大体、マスカットのお返しだなんて嘘だ。百が食べに来るというから、前から用意していたに決まっている。それが冷凍庫から出てきたのは、百が百のための言い訳を上手く用意できなくてこの機会を一回引き延ばしたからだ。
「そういうイケメンなこと急にしないで……心臓に悪いから……」
「モモが全然食べに来ないから、予算が貯まっちゃうんだよね」
百に優しくしたい期間、というやつらしい。けれども急にそんなことをされても百は困ってしまう。大体その言い方を借りるなら、一緒に暮らしていた頃から千はずっと優しかった。唐突に車をあげるだのなんだのとおかしなことを言い出すのは多分、百が千と共に食卓を囲むことがなくなって、千の優しさの行き先がなくなってしまったからだ。
千は何も隠さないのだ。今だって、ワインを飲んでご機嫌で、手の中でマスカットを弄んでいる。人に上等な肉を食わせて、どうしたって幸せそうな顔をしている。そんなにわかりやすい顔をしないで欲しい。百ならば考えてしまう。露呈してしまったらどうしようとか、そうなったら千はどう思うだろうとか、それならいっそ言わない方がいいだとか。千はそういうことを何も心配しないようなのだ。だからこんな風に、無邪気に笑う。百には全然わからない。百に一体どうして欲しいのだろう。望んでくれれば、百はそれを叶えてみせるのだが。
今なら言えるのではないだろうか。ふと百は思う。あのね、オレずっと前から。それだけでいいはずだ。けれども何度か口を開いた末に、百にはどうしても切り出すことができなくて、開いた口にはこんにゃくを詰め込んだ。結局百はあの頃から何も進歩していない。千は笑っていて、すき焼きはおいしくて、二人共少し酔っていた。ここは完全で、幸福な食卓のように見えたのだ。

*    *    *

TRIGGERの出番まではあと二時間もあった。楽も龍之介も前の仕事が押していて直前まで来れない予定だ。台本は十分読み込んだ。隙間の時間にできるそれ以外の仕事は持ってきていない。つまりそういう理由だ。心配していた訳でもない一つ上の階の先輩に挨拶をしに行く気になったのは。階段を登って楽屋の扉をノックするが、いつもの声は返ってこない。しばらく立っていると「どうぞ」と声があった。きっと自分が返事をするべきだという事実に思い当たるのに時間がかかったのだろう。扉を開けると、案の定そこにいたのは千一人だった。
「おはよう。モモならまだ来てないよ」
「そうみたいですね」
ここで帰るのも奇妙な素振りだろうが、どうしたものか。すると千が「おやつをあげよう」と声をかけてきたので大人しく向かいに座る。ケーキでも出るのかと思ったらのど飴を差し出された。この前のブリヌィは美味しかったな、と思いながら天はそれをポケットにしまった。
「今日の収録の話、モモから聞いてる? 僕の料理とお店の料理で食べ比べするんだって。モモ当てられるかな」
「どうでしょう。でも百さん、いろんなお店知ってますよね」
天は慎重に言った。あれでも一応先輩の機密事項だ。
「そう。すぐ他の人とどこか行っちゃうんだ。五年もやってるのに餌付けが全然上手くいかない」
「……人に食事を作ることを普通は餌付けと言わないのでは」
「僕もそう思った。何て言うんだっけ」
「胃袋を掴む、とか……」
「そう、それだ」
正しい言葉を覚えていたのか怪しいものだ。そして千の口振りから、天は一つ思い当たることがあった。
「……もしかして、知っていたんですか?」
最初は何を問われているのかわからなかったのか、千はしばらくきょとんとしていたが、やがて目を細めて言った。
「当たり前だろ。ずっと一緒にいたんだよ。気付かないはずないじゃないか」
得意げに千は言うが、随分と迂闊な発言だ。千が百に関して気がついていないことなど山程あるし、そういう顔を千よりは知っているつもりだ。
「百さんに言ってあげればいいのに……」
「だってモモは何も言ってこないから。なんて言えばいいの? 『お前の隠していることはお見通しだ』って?」
百の味方に立つ事が多い天だが、こればかりは千が正しい。大体天だって贔屓はしていないつもりである。千が滅茶苦茶を言うことが多いだけだ。
「それに何か隠そうとしてる時のモモはリスみたいでかわいい」
前言撤回だ。滅茶苦茶を言っている。
「モモと一緒に暮らしていた時のこと、多分、僕は一生忘れないと思うんだ」
二人が一緒に暮らした時間など一年にも満たなかったと聞いている。それでも天はそれを茶化す気にはなれなかった。共に食卓を囲んだ僅かな時間をどれほど千が誇りに思っているか、わかってしまったからだ。それは自分が弟一人のためのアイドルだった時代に抱く気持ちと同じものだったから。
「今日の収録、楽しみだな」
千がそう言うと同時に扉が開き、楽屋は急速に賑やかになった。

*    *    *

フライパンの蓋を取ると、刺激的な香りが台所に立ち込める。三月はカレー作りの中でこの瞬間が一等好きだ。最初は別々の素材だったスパイスと玉ねぎがここに来て一つの料理として調和している。オレ達みたいじゃん、とは流石にクサくて言えないけれど。スプーンで掬って味をみて、塩を少し足す。時計を見ると、ちょうど七時を回ろうとしていた。
「陸ー、テレビ点けてくれー。Re:valeさんが出てるやつー」
食器を並べていた陸がチャンネルを回す。仕上げのガラムマサラを加えて皿に盛ると、三月も食卓に着いた。今日は陸以外のメンバーは遅くなると聞いている。
「この番組、三月が出てたやつの続き?」
「そうそう。百さんが選ばれたらしくてさ」
百からはお礼のチャットが届いていたが、結果がどうなったかはあえて聞いていない。その方が面白そうだったからだ。
番組はオープニングが終わり、本日の特集はロシア料理だと述べている。おいしそうな煮込み料理が次々と出てくる。一括りにロシア料理とは言うが、その種類の豊富さもロシア料理の特徴だ。あれだけ広い国ならば当然そうなる。その辺りの背景や歴史的な経緯も含めて、シェフの映像も挟みながらナレーターが手際よく説明していく。
「こういうの食事時に見てると食べたくなるよな」
「オレは三月のカレー大好きだよ! さっきラビチャで皆に自慢しちゃった」
「オレも陸がオレのカレー食べてるとこ大好きだよ」
百との会話を思い出して三月は笑ってしまう。
映像のメインはスタジオに移って、クイズを挟みながらRe:valeがシェフと話を広げていく。シェフのトークはぎこちないし千のトークは上手い方ではないが、百が間に入ることで親しみやすさが増している。こうやって複数を相手にする立ち回りも勉強するべきだな、と三月は素直に感心した。
陸と三月がカレーを食べ終わった頃、問題のコーナーがやって来た。
「それではお待ちかね、実食のコーナーです! こちらは百さんにお願いしましょう!」
「やった! オレ食べていいの!?」
「ただし、百さんには二つの料理を一口ずつ食べてもらって、千さんの手料理を当ててもらいます。不正解なら、後は没収!」
「嘘でしょ!? オレ今日超腹減らしてきたんだけど!?」
百の悲痛な叫び声を背景に、料理が運ばれてきた。前半でも紹介があったピロシキだ。パンで具材を包んだロシアの代表的な料理だとは三月も知っていたが、実は具材は肉に限ったものではないそうだ。
「千さんはどうですか? 感想は」
「僕はこういうことに慣れてないから大変だった。でも頑張ったよ。当ててね、モモ」
百がスタジオの正面に出てきて座り、「いただきます」と手を合わせてピロシキをちぎる。断面のアップ。確かにこちらの中身はキャベツの炒め物のようだ。百が咀嚼し、喉仏が動く。眉を顰めた真剣な眼差しがアップで抜かれる。あまりの真剣さに、今日まで三月が付き合わされた茶番はこの番組のための練習だったのではないかとさえ三月は思えた。そしてもう一皿からも。咀嚼し、飲み込む。百が奥の席に座る千の方をちらりと振り返った。千は何故だか笑っているように見えた。
「さぁ百さん! お味の程は――!?」
ドラムロールの音がなり、緊張は最高潮だ。そこで突然画面が切り替わり、長閑なBGMと共に明るい部屋で女性が掃除機を掛け始めた。衝撃の正解はCMの後で、だ。
「三月、どっちかわかる!?」
陸が期待の眼差しで三月を見つめる。今やバラエティには出演する方の身である陸だが、テレビの前からでも全力で楽しむのが陸流である。
「中身が全然違ったけどな……。でもどっちが千さんだろ……」
「お肉がいっぱい入ってる方が千さんのじゃない? 百さんのために作ったならそうすると思う!」
「お、それ当たってるんじゃないか? 夫婦漫才的においしいし」
そう言っている間にコマーシャルは終わり、再びドラムロールが鳴り出す。そして鳴り止み、画面は百の大写しだ。ゆっくりと口が開かれる。
「ごめんね……これ……。オレ全然わかんないよ……」
百が俯いて、スタジオが静まり返った。画面の前の三月も思わず息を呑んでしまう。味音痴だなんて間の抜けた悩みだとは思ったけれど、まさか番組中に言ってしまうとは思わなかった。千はどうコメントするつもりだろう。同業者としては百がここからどうやって場を盛り上げるのかも気にかかる。いやでも。それはそれとして。一体どうなってしまうんだ。三月はその瞬間、この番組が収録であることも忘れて画面に見入っていた。永遠とも思える沈黙の後、会場はどっと湧いた。
「大正解!」
「こちら、どちらも一流シェフの料理でした! 同じピロシキですが、それぞれヨーロッパ風とシベリア風ですね」
「流石ですね、百さん。見破られるとは思いませんでした」
「わかるか普通!? 相方愛だなやっぱ!」
爆笑するキャストとテロップが入り乱れて途端に画面が賑やかになる。「そういうのありなの?」と言って呆然とする百のアップ。当たっても外れても面白いと思われている。そう言った百の見立てはどうやら正しかったようだ。
「百さんすごいなぁ! やっぱりずっと食べてたらわかっちゃうんだね」
陸は無邪気にそうコメントした。テレビの中の百が千をもう一度振り返る。奥に映る小さな千はやっぱり笑っているように見えた。

*    *    *

収録は無事終わり、撮れ高は上々。シェフの店で行われた打ち上げではプロデューサーも百のアドリブを大絶賛。そして深夜の百は千の家のソファで三角座りをしてむくれていた。
もう芸能界も長いと言うのに、あんな屈辱を受けるとは思わなかった。百だってプロだ。あの回答のフォローもその後の展開も色々と考えていたのに。もともと料理をする必要があった千は当然事前にこのオチを知らされていただろう。知らなかったのは百ばかりだ。千はと言えば収録が余程面白かったのか、家に帰ってからずっと機嫌がいい。スタジオで爆笑しなかっただけ褒められるべきだが。
「今度ピロシキ作ってあげるから、そんなに拗ねないでよ」
千が百の頬をつつくが、別に千の料理が食べられなくて落ち込んでいる訳ではない。千には百がどんなに惨めな気持ちでいるかわかるまい。一世一代の告白のつもりだったのに。百は膝を抱えたままくるりと千に背を向ける。千は諦めて台所に行ってしまった。もう少ししつこく百の機嫌を取って欲しいものだ。
何か仕込み始めたらしく、そのうち香ばしい匂いが漂ってきた。何を作っているのか百にはさっぱりわからないが、百の好物であることだけは間違いない。千の作る物に百の好物でないものなどないのだが。
言えないことが無数にあった。それはこれからも増える一方で、百はいよいよはち切れてしまいそうだった。少しばかり、百の負担を減らして欲しかった。
ソファから立ち上がってキッチンに回る。鍋の中を覗き込むと、豚肉の塊が濁った汁の中で静かに煮えていた。
「これ、明日食べれる?」
「朝から食べるならいいけど」
それは衝動だ。千の驚いた顔が見たいと思った。
「ううん。夜ご飯」
千が目を見開いた。百は明日のための言い訳を何一つ持っていなかったからだ。百は黙って千を見つめ返した。


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Published On: 2020年1月26日