目覚め
エテルノ王、崩御。
その報せを聞いた時、観測者はいよいよこの世界に最期を告げることを決めた。五年に渡る戦争は、観測者にそう思わせるのには十分だった。戦争というよりそれは、一方的侵略と呼んだ方が正しかっただろう。エテルノは砂より他に誇るものもない哀れな星だったのだ。近年鉱石の輸出で急速に国力をつけたアルバになど、敵うはずもない。戦が長引いたのは単純に、人が歩くにはあまりに強力なエテルノの日差しがアルバの行軍を昼の間だけ遮ったからに過ぎなかった。皮肉なことに、アルバは星の誕生以来悲願であった陽の光にこそ、行く手を阻まれたことになる。
そもそもこの戦の始まりとて狂言じみていた。いくら戦争でエテルノに勝ったところで、エテルノの大地が神話のような力をもって崩れでもしない限りアルバの土地が陽の光を浴びることなどないのである。そんなことは小さな子供でもわかる。それでもこの国がなんの資源もない砂漠の国へ突き進んだのは、アルバの内政と経済事情と王の精神的疾患が複雑に絡み合った結果であった。そこに武器輸出大国であるラーマ、傭兵産業が急速な発展を遂げるベスティアの思惑が拍車をかけた。病んでいるのはアルバとエテルノだけではない。内戦に疲弊した鋼鉄の国、享楽に耽る水の都、差別が蔓延る杜の町、閉塞感に包まれた信仰の地。どの星も等しく疲弊し、どの星も等しく救いの手を求めて観測者に声を上げていた。
そうであるから観測者は自らが生まれた巨大な宮殿でただ、願った。この世界に平穏が訪れるように、と。願いを受けて六つの星はゆっくりと軌道を変えた。それらはやがて一つになり、人々を乗せたまま燃え尽きる。
観測者が最後にエテルノを訪れようと考えたのは、そこにあるはずの星玉の欠片を回収し、保護するためだった。この世界の終焉は十数年の内にやってくる。それでも、エテルノの欠片が砂に埋もれたままというのは都合が悪かった。願いを叶える力は喪われたとはいえ、あの真紅の欠片はエテルノの命そのものだ。エテルノだけが先に滅び、その結果起きる大きな混乱の中で世界が終わることを観測者は善しとしなかった。数度羽を打ち下ろし、大屋根が開いた宮殿からそのまま暁の空へ。砂漠の星に向けて白い竜は飛び立った。
欠片の気配を追って辿り着いたのは、エテルノの王都からはほど遠い地方都市の市場だった。市場というのは戦争が起きる以前はそうだったという意味で、今では貧しい難民がより貧しい難民を相手に食料を毟り取る場でしかない。それでも路地には厚手の布で作られた、簡素な天幕が並んでいた。朝方この市は現れ、暑すぎる昼を避けて再び日が沈んだ頃に市が設けられるのである。老婆がどこぞの家から盗まれたのであろう煤けたホブズを布の上に並べている。その隣には血の跡の残るボロ布に包まれて、乳飲み子が眠っていた。エテルノ人らしい縮れた黒髪。肌はこの国の人間にしては随分白く、そこに目を引く紅斑が散っていた。この国の人々は日夜強い日差しに晒されるので、普通は外に出たからといってこのような斑はつかないものである。しかし苛烈な戦は民の誰一人として家の内に引き籠もることを許さなかった。貴族も病人も、今や焼けるような日差しの下に放り出され、このような紅斑を拵えているのである。幼子がそのうちのどちらなのかは観測者にはわからなかったが、目を留めたのはその奇妙に膨らんだ胸元である。観測者はそこに確かに星玉の欠片が発する鼓動を感じ取れた。
「買うのかね、買わんのかね。値切りなら聞かないよ」
老婆が口にした値は戦争が始まる前からすると三倍程の値だった。嗄れ声で目覚めた幼子が、大きな目をゆっくりと開く。瞳は欠片と同じ、血を流したような真紅であった。老婆が顔を隠すようにボロ布を引き上げ、幼子は首を竦めて少し鳴いた。
「一つ頂きましょう」
老婆が銭を求めて差し出す手には目もくれず、観測者は欠片に手を伸ばす。すると幼子は、自分に手が伸ばされたと思ったのか、自らもその手を観測者に伸ばしてきた。そして少しむくんだ手で、観測者の細い人差し指を握った。
人に直に触れられたことなどその長い生涯でほとんどなかった観測者が覚えたのは、生理的な恐怖だった。思わず指を引き抜いたその瞬間、幼子は割れんばかりの大声で泣き出した。市を歩く人間が数人、幼子の方を振り返る。しかしそれだけだった。誰もが飢えたこの場所では、こんな声はあまりにありふれており、怒鳴るのも馬鹿馬鹿しいほどだったのだ。
そうであるから、幼子が命の限り張り上げたその声は光の束のように真っ直ぐに、観測者を徹底的に、粉々に、滅茶苦茶に打ち砕いた。観測者の身体を構成する組織の一つ一つが震え、破れ、体液が流れた。ここでもう一度観測者の手を握れないならばこのまま息絶えてしまう、そういった動物が見せるような切実さが言葉を持たない幼子の声にはあった。救ってやらなければならない。半ば暴力のようにそう思わされる。実際、胸元の宝石に目を付けただけであろう老婆がきちんと赤子を養うとは到底思えず、あのまま置いておいたならば遅かれ早かれ幼子は死んでしまうところだった――というのは後々冷静になった観測者が言い訳がましく考えたことではあったのだが。
元来、星巡りの観測者はそのような行動原理は持ち合わせていないはずだった。観測者は世界の行く末を決めるしか能のない創造物だ。その遂行に不要な本能など、備わっているはずもない。しかし何を思ったか星玉の護り人は、観測者の形をこの世界の動物に似せて作ってしまったのだ。形は機能を決めるものである。それは観測者の創造主たる護り人にも覆しようのない理であった。鉱石や鉄鋼に奴した身ならば、こんな目には合わなかっただろうに。
そういうものだと思い知る。人の形をした生き物はすべからく、この声に敵わないのだと。
今や観測者には、取れる道など一つしかなかった。ただ泣き喚く幼子を引っ掴んで、来た道をもう一度走り出した。市場に瞬間活気が満ちる。「人攫いだ!」と声がする。反論さえできない。抱きかかえられた幼子はぐずぐずと鼻を鳴らし、短い指で観測者の前襟をひしと掴んだ。観測者は酷く惨めだった。創られて初めて、この世界の人と獣に同情した。こんなにも稚拙な心に支配されて過ごす生涯は、なんと苦しいものだろう、と。
予感がしていた。この事実をもってして、いつか大きな過ちが起こりそうな予感が。そしてその時に最も不幸になるのは、今胸に抱くこの赤子であるだろうということも。
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