猫のいる町に帰りたい

 どこに埋めようかと考えた時、あまり土が固くない場所がいいなと思った。中途半端に片付けて、そのうち雨風で削られて地表に晒されるようなことがあってはいけない。でも僕の体力には限りがあり、それは今更どうしようもない。だから土は柔らかい場所であってほしい。
家のすぐ隣には小さなお寺があって、場所柄はちょうどよかったけれど、掘れそうな地面があったか定かではないから却下した。五分や十分で掘れるものではないのだから、人が出入りする場所では好ましくない。時間もないし、遠くには行けない。交通機関を使う手もなくはないが、あまり遠くでは寂しがるだろう。そう考えると、場所の候補は絞られてくる。頭の中にこの町の風景を思い浮かべて、家から出発してあちこちを覗いていく。引っ越して来てからずっと空き家だった近所の家の庭。却下。小さな公園のトイレの裏。駄目だ。人通りの少ない方へと歩いていくと自然と駅とは逆の方向に歩くことになって、やがて町の外れまで行き着いた。そこは隣町との境界線に沿って広々とした川が流れていて、モモともここでよく発声練習をした。一度僕達が歌い始めると、同じ岸辺で寛ぐ人は勿論、隣町の河原に佇む人達までがこちらを振り返るのが悪くない気分だった。いつかそこにもう一度立つモモを想像したら、悪くないな、と思った。
窓際に改めて視線をやる。猫は外に出ることを望むように、窓枠に前足を掛けたまま、崩れ落ちるように死んでいた。生きている時は脱走なんてしようともしなかったのに。けれどもその気持ちもわかるような気がする。見た目だけではなくて、振る舞いにもどこか気品のある猫だったから、こんな姿はモモに見られたくなかっただろう。横たわる身体に手を差し入れて、下からそっと持ち上げる。猫の身体はまだほんの少しだけ温かくて、僕は不謹慎にも冷蔵庫に入れられるのを待つ鍋の温度を思い出した。粗熱が冷めつつある夕飯と同じように、今まさに猫の身体からは命の熱が抜けていっているように思えた。やがてその身体は、部屋に置かれた布団やギターや食器と同じように、空気の熱さをそのまま受け取る、物の温度になる。手に感じるその予感が、もうこの身体に意思はないのだと思わせた。よく見ると足が一本おかしな角度で曲がっていた。どうやら怪我をしているのに無理をしたらしい。直してやりたくてそっと指で摘んで曲げようとしてみたけれど、もう到底そんな行為が許される柔らかさではなかった。
とりあえず新聞紙で丁寧に包んでからビニール袋に詰めてみたけれど、まるでゴミのような扱いで嫌になってしまった。押入れの手前にキャリーバッグが置いてあるのは知っていたが、生きている間そこに入っていた姿を知っていたから、それを使うのはもっと嫌だった。結局ケーキ屋の名前が書かれている茶色の小さな紙袋をみつけて、それに入れてやることにした。ビニール袋と大差ないような気もしたけれど、ゴミよりはケーキの方がいいだろう。この前二人で商店街を歩いていたら、モモがケーキ屋のお姉さんから売れ残りを貰ったのだ。はしゃいだモモがその場でケーキを庇いながら覚えたてのダンスを披露したから、お姉さんは道端で爆笑した。ケーキを貰って踊るだけで人を笑わせるってすごいな。アイドルにでもなった方がいい。
家を出ると、真上からの直射日光とアスファルトの照り返しに挟まれて、動画の早回しのように袋の中の肉体が腐っていくような錯覚を覚えた。保冷剤を入れてくればよかった。僕は少しでも影になるようにと、紙袋を両手で抱えて前かがみに歩いた。すれ違う人からみたら、随分とケーキを大切に抱えている人だと思われたことだろう。
家から二十分ほど歩いて辿り着く河川敷はきれいに整備されていて、どちらの岸辺も夏休みを迎えた親子連れで賑わっていた。しかし、ここから上流方向に向かうとすぐに藪が生い茂り始めて、人影は疎らになる。練習を終えた後、モモとよくこちらの方面を散歩した。モモは川縁の草陰に隠れている小魚を捕るのが上手かった。上流の方からばしゃばしゃと藪ごと蹴飛ばして、驚いた魚が流れに沿って下流に逃げるのを網代わりのビニール袋で掬うのだ。僕はいつもそれを眺めて満足してから、食べられそうな雑草を物色した。
ちょうどモモが狩場に使っていた縁を見つけたのでそこから川縁に降りる。ここまで降りると、川沿いの道路にいる人の目から河川敷は死角になる。降りたすぐ傍に割れた四合瓶をみつけて、穴を掘るのにちょうどいいから拾っていく。行き当りばったりだ。
河川敷を少し歩くと、僕の背丈を少し越えるくらいの木が立っていたのでその根本を選んだ。なんとなくそういう場所のほうが、増水があっても流されにくいような気がしたのだ。思った通り、砂利を含んで湿った土は僕の貧弱な体力と装備でもなんとか掘り進めることができた。藪蚊が何度も耳元を旋回する。紙袋の周りに寄ってきた蝿は毎回追い払った。水辺ではあるものの、七月の日差しは容赦なく背中を焼くようだった。汗が服の中を伝っていく。
五十センチほど掘ったところで、川で大きめの魚が跳ねる音がして、僕は我に返った。紙袋ごと入れるつもりだったけれど、最後にもう一度姿を見ることが弔いになる気がして新聞紙を剥いだ。身体が腐り落ちているなどということは勿論なく、足が曲がっている以外は生前の姿と大差なかった。灰色の毛並みは随分きれいに整っていた。最初に家に来た時には糸の混じった綿埃のような有様だったのに。オリーブ色の目が開いたままだったので、閉じてやった。この目でいつも少し驚いたように僕達の音楽を見つめていた。穴の底にそっと置いて、土をかぶせる。土をしっかりと押さえつけなかったからだろうか、戻した土は猫より一回り大きいくらいの小山になった。僕は大きく息をついて、髪についていた泥を払った。重労働だったが、初めてこの猫のためになることをしてやれたような気がした。僕がモモに頼まれた餌やりを半日忘れて、それでようやっと小声で主張をするくらいの、控えめな猫だった。飼い主たるモモを悲しませるようなことは、きっと望まなかったに違いない。けれども猫の思いも僕の重労働もきっと徒労に終わるだろう。モモは疲れ果てるまでいなくなった猫を探すだろうから。
まだその時には早い気がして、土の山に手を合わせることはしなかった。帰り路を急き立てるように、すぐ傍で蝉が鳴いていた。

*    *    *

最寄りの駅に降りると一際強い風が吹いて、道路脇に溜まった桜の花びらを一気に舞い上げた。帰り道の人々から小さな歓声が上がる。幼い子供が桜の群れに突っ込んでいって、どよめきは微笑ましい笑い声に変わった。そういえば今年はまだ花見をしていない。去年は天気がいいからと外に連れ出されて、花見と称して一週間に何度も外で食事をしたのだが。今年は一応アイドルらしい仕事が入って、昼間二人が揃って家にいることもないままに桜の季節は終わろうとしていた。けれどもイベント好きのモモのことだ。その話を持ち出したら明日にでも決行しようと言い出すかもしれない。二人きりの予定なら賛同して弁当を作ってあげてもいい。
僕は二枚目のアルバムに入れる曲が全て揃って上機嫌な帰り道だった。駅前のスーパーはタイムセールの時間だったけれど、ここの肉は大して安くないので寄らずに帰る。早くアルバムのことをモモに報告したくて、僕は心持ち歩幅を広げて家路を急いだ。目論見の通りモモは先に帰っていたようで、外から見上げると家の明かりが点いていた。
「ただいま」
立て付けの悪いドアを開けると、玄関口に座り込んでいたモモがぱっと振り返ってばつの悪そうな顔をした。背後には引っ越しで使うはずのダンボールが一つ組み立てられていた。何も考えずに中を覗き込むと、タオルの上にはぼさぼさの毛玉が頭を抱え込んで丸くなっていた。短い銀色の毛並みや大きな耳を見るに、ペットショップに売られるようないい血統に思えたが、そこに泥やら血やらがへばりついていていて、余計捨て猫といった風情も出ていた。よく見ると肋も浮いていて、髭が揺れるのを見るまでは生きているかどうかも確信が持てなかった。
「それ、どうするの」
非難の気持ちはなく、純粋な疑問として尋ねたつもりだったが、モモは目を伏せた。
「ごめん、わかってる。貰ってくれる人を探すつもりだよ」
困らせたかったわけじゃない。勿論モモがそうするつもりなのはわかっていた。僕達の引っ越しは三ヶ月後に迫っていて、ペットの可否なんて条件の内に入れていなかった。仮に住居の条件を変えたところで、今の僕達に動物の命を預かれるような暇があるとは思えない。あってはいけないのだと、強く思っているのはむしろ僕よりモモの方な気がする。僕はてっきり、引っ越した後には荷解きのための休みが貰えると思っていたのだけれど、今の所はそういう話は一切出ていない。
猫から目を離して部屋の奥に目をやると、餌を入れるプラスチックの食器やらキャリーバッグやら、既に猫グッズが一式揃っていた。
「あの、それ、買ったわけじゃないから。商店街の反町さんに貰ったんだ。反町さん、猫いっぱい飼っているでしょ。貰ってくれる人がいないかって訊きにいったら、使ってないからって全部くれた。飼える人も探してくれるって。これから病院も連れてかなきゃいけないけど、野良猫だったら、最初はタダで診てくれるんだって」
僕が何も言わないうちからモモが腕を振り回して早口で弁明する。モモ自身、拾ってよかったものかまだ悩んでいるように見えた。きっとこの猫に出会うのがもう少し前だったら、僕達は人間二人分を生きるのが精一杯で、僕達以外の動物に目をやることなんかできなかっただろう。もう少し後だったら、僕達は綺麗に整えられた街に引っ越して、捨てられた動物に出会う機会などなかっただろう。引っ越すまでの三ヶ月間。貰ってくれる人をみつけて、それまでの間ここで飼うだけ。そう思ったからモモも捨てられた猫を抱き上げてしまったのかもしれない。猫は僕達の暮らしの隙間にちょうどするりと入ってきた。
「……しばらく家で飼ってもいい?」
「モモの好きにすればいいよ」
努めてフラットに聞こえるように僕は言った。
モモは動物が好きだ。モモ本人に訊く前から知っていた。町を歩く目線がつい犬や猫を追っているし、発声練習で公園に寄っても休憩中に鳥を見つけて「ユキ、あのハト、羽がふわふわしてる!」と教えてくれる。モモが大学に入った後、モモが主体的に世話をするなら家族で犬を飼ってもいいという話も出ていたらしい。「結局オレがアイドル追っかけて忙しくなったから、保留になっちゃった」と笑っていた。
多分そうした生活も僕が彼から奪ったのだろう。僕のところに来る前のモモの話を聞くと、血管の隅まで、血に代わって冷たい水が駆け巡るような、名伏しがたい気持ちになる。ただ申しわけなく思うのも違う。僕はあの時そうしないと生きていけなかった。僕は奪ったし、それを返してやることはもうできない。返すことができるなんておこがましいのだと思う。今だってきっと、僕がちょっとでも不快な顔を見せたらモモはすぐさまこの猫を拾った場所に戻しに行くんだろう。だからこそ、今はモモの好きにすればいいと思った。

*    *    *

丸まっていた時は気がつかなかったが、病院から帰ってきた猫は一本の後ろ足を少し引き摺るように歩いていた。
「生まれた時からこうだったんだって。でも、それ以外は健康って言われたよ」
「あまりそうは見えないけど」
足に障害があることを知ってますますモモは猫に肩入れしたらしいが、当の猫は部屋の隅に背をつけて、頭を前足の間に収めてまた丸くなってしまった。モモと反町さんが用意した猫用のベッドが部屋の反対側に置いてあるのだが。腹が減っているとか足が痛むとかそういうことではなく、猫にはあまり生きる気力がないように見受けられた。明日の朝には今の姿のまま、部屋の隅で冷たくなっているような気さえする。そのつもりなら、最初からモモに見つからなければよかったのに。モモを不必要に悲しませないでほしい。その時になって僕はようやっとその猫に起伏のある感情を抱いた。これ以上モモの負担を増やすなよ。僕一人の分しかないよ。
モモは猫を見やると、黙って首を振った。今モモにできることは何もないようだ。家に押しかけて、生きてくださいと土下座するのも猫相手では通用しない。沈んだモモの顔を見ていて、僕はアルバムの話をまだしていなかったのを思い出した。
「そういえば、アルバムに入れる曲、全部決まったんだ」
俯いていたモモがぱっと顔を上げた。
「そうなの! 聞きたい!」
そう言われると思って、楽譜を揃えてギターも担いで帰ってきた。モモのためだけに一曲一曲、収録する予定の順番で弾いてやる。曲が終わると、これはモモが主に歌う曲だとかこれはアルバムのメインにしたい曲だとか解説を沿える。初めて聞いた話でもないだろうに、モモはうんうんと大きく頷く。帰ってきてからずっと暗い顔をしていたモモがようやく笑顔を見せてくれて、僕は大いに満足した。僕は猫よりもモモの笑顔に貢献している。
「あっ」
三曲目の途中で観客が突然声を上げるのでライブは中断を余儀なくされた。モモが指を差す方向を見ると、部屋の隅の猫が頭を上げ、目を丸々と見開いてこちらを凝視していた。その顔はいつかステージを見上げていた男の子を思い出させた。さっきまで死にそうな顔をしていたが、そうして目を見開いていると猫みたいな顔だ。元々猫なんだけど。
「こいつRe:valeの音楽がわかるんだよ!」
「急に大きな音が鳴ってびっくりしただけじゃない」
「猫にも良さが伝わるなんて……さすがはユキさんのギター……」
「聞いてないね」
観客は一人と一匹に増え、隣の部屋から壁を殴られるまでコンサートは続いた。猫は最後まで飽きることなくこちらを見ていた。

*    *    *

予想に反して、次の朝には猫は少し元気になっていった。足の障害は生まれつきだと医者が言った通り、前の足を椅子に引っ掛けて、右足をばねにして上に飛び乗ったりする。片足しか使わない様が逆に器用に見えた。やはり最近まで飼い猫だったようで、トイレの場所は一度で覚えた。その後も狭い家の中をゆっくりと歩き回って匂いを嗅いで、最後にはモモが差し出したベッドに潜って二度寝を始めた。猫を気遣ってバイトを一日休んだモモもその姿に安心して、家で雑誌向けのコラムを書くと言っていた。せっかくモモが家にいるので僕も家の中にいたかったのだけれど、あいにくアルバムの作業は一切終わっていなかったので、僕は渋々ギターを担いでスタジオに出掛けた。
日が暮れて、スーパーに寄ってから家に帰っても、まだ猫は眠っていた。
「一回起きたよ」
モモが指差す先にはテニスボールが転がっていた。猫のおもちゃということらしい。僕はそれを拾って猫の寝床に押し込んだ。
夕飯を作るつもりでお湯を沸かし始めると、猫は起き出してまた部屋をうろうろし始めた。僕の足をぐるりと周回した後、猫はモモが座っている椅子の足に爪を立てようとした。
「モモ、椅子が」
「あ! 駄目だよ!」
猫はモモを見上げて困ったように首を傾げた。昨日から思っていたが、この猫はほとんど鳴かない。
「そうだ。あれ出すの忘れてた」
モモは立ち上がって、縄が巻き付けられたポールを猫グッズ置き場から取り出して部屋の隅に置く。
「にゃあ、おいで」
「にゃあ?」
「こいつの名前」
いかにもテキトウにつけました、といった名前なので僕は少し意外に思った。鳴かない猫にもあまり似合っていない。まっとうな名前をつけて情が移らないようにと思ったのかもしれない。しかし当の猫は自分が呼ばれたとわかったようで、部屋の隅まで歩いていって棒に巻かれた縄で爪を研ぎ始めた。そういう風に使うものなのか。必要最低限の物しか置かれてこなかったこの部屋で、そのポールを含めた猫グッズ達は少し浮いていた。
爪を研ぎ終えると、猫はまたネギを切っている僕の足元に寄ってきた。とはいえ僕に構ってほしいわけではないらしく、前の住民の置き土産である床の染みをしきりに嗅いでいる。業者がしつこく掃除をしたようで、僕達が入居した時は塩素の臭いしかしなかったが、猫の嗅覚には感じられるものがあるのかもしれない。僕がうどんを食卓に運ぶ頃、やっと猫は満足したのか、その後は染みの上の何もない空間をじっと見つめていた。
「そこ気に入ってるんだよ。お昼にもそうしてたし」
「気に入ってるのかな……」
「違うの?」
キャットフードを皿に空けながらモモが言う。足のない幽霊には猫も親近感を覚えるのかもしれない。
僕達が食事を始めると、猫もキッチンから退いて自分の夕飯を食べ始めた。わざわざ同じ時間に食べ始めなくてもいいと思うのに、随分真面目な猫だ。食べ終わると再び寝床に戻って寝始めた。
「よく寝るね」
「ユキ、羨ましそう」
モモが小さく笑った。

*    *    *

 モモは拾ってきた後も、動物病院や猫好きの反町さんのところに通って貰い手がいないか訊いて回っているらしく、毎回律儀にそれを報告してくる。別にこのままここに居着いたら困るとか、そんな心配はしていなかったけれど。居候の猫は案外分を弁えていた。来た日には元気がなかったが、もともと大人しい猫だったようだ。家を走り回ったり食事を求めてうるさくすることもあまりなく、大体は部屋の隅の寝床で寝ているか、毛繕いをしているか、染みの上を見つめている。モモにべたべた甘えたりもしなかったので、その点僕は幾分安心した。猫なんだからそういうものだとモモは言ったけれど、僕は猫の平均を知らないから。
一度、猫にブラシを掛けてやっているモモが「撫でてみたら」と言うので、僕もほんの少しだけ触ってみたことがある。毛並みは大分よくなっていたけれど、まだ拾われた当時の質感を残していて少し砂っぽかった。大した肉も付いておらず、触れた数センチ先に骨と心臓があるのが感じられた。少しでも力を入れると潰れてしまいそうで、それなのに触れた指先は僕達と同じ温度をしていて、そのギャップが妙に恐ろしくて僕はすぐに手を引っ込めた。猫は触られて嫌がるでもなく、撫でられて上機嫌になるでもなく、そこにあった手にあまり関心がないようにモモの膝の上でゆったりと伸びをした。でも僕にしてみれば噛み付いたり引っ掻いたり姿を見せるだけで物陰に隠れないだけ随分いいし、少し感動さえした。そう言ったらモモに笑われた。モモは動物に嫌われたことがなさそうだ。
猫には長毛種と短毛種というタイプがおり、長毛種は季節に関わらず毎日ブラシを掛けてやらなければいけないらしい。モモが反町さんから貰った本を片手に教えてくれた。なんて面倒なんだ。僕は戦慄した。毛が長いと手間がかかるのは人でも猫でも同じらしい。この猫の毛が短くてよかった。しかし短毛種でも毛が部屋中に落ちることには違いないらしく、猫が家に加わってから一週間ほど経ったある夜、モモはドラッグストアの袋を下げて家に帰ってきた。
「服に毛が付いてるって言われちゃった」
モモは袋から粘着クリーナーを取り出すと、床に掛け始めた。コロコロに気を引かれたのか猫が寝床から出てきたが、モモが部屋の反対側にボールを転がしてやるとそちらを追いかけて一人で遊び始めた。
「ユキさんの髪が落ちてる」
モモが粘着テープから丁寧に僕の髪を剥がしてしげしげと眺めた。ここに住んでいるんだから髪の毛くらい落ちているに決まってるだろう。一緒に暮らし始めてもう随分と経つのに、モモはまだたまにそういうよくわからないことを言う。
モモがその髪を明かりに透かしたり指先でくるくる回したりして、なかなか手放そうとしないので僕は言った。
「髪の先、切って」
「今?」
「今」
モモが流しの下から新品のゴミ袋を持ってきて、顔を出す穴を開けてから僕に被せた。まず人間用のブラシで髪を整えてから、少しだけ束を取ってくるくると捻る。扇のように広げて、千円の梳きバサミで先端を切る。そうすると切った先の仕上がりが自然になるのだそうだ。あまり凝ったことをするとボロが出るので、毛先を整える以上の難しいことはしない。それでもモモは僕に気を使って一連の動作をとてもゆっくり行うので、随分時間がかかる。今日は何故か一回切る度に髪を梳くので、尚更時間がかかっていた。
一通り後ろの髪を切り終えたモモが、「前髪もちょっと切るね」と言ってヘアクリップでサイドを止める。それから正面に回ってブラシを構えた。
「目閉じないの」
「うん」
ふふ、とモモが小さく笑う。髪を切る度にお馴染みのやり取りだったから。
「緊張しちゃうから閉じて」
僕は大人しく目を閉じて、前髪を撫でるモモの指に委ねた。
「この前出た番組のメイクさん、美容師の資格も持ってるんだって。わかる? ほら、ユキとバンドの話で盛り上がってた人」
切り終えた前髪をぱらぱらと落としながらモモが言う。嫌な予感がしたので、僕は目を瞑ったまま言った。
「これからもモモに切ってもらう」
口に髪が少し入った。モモが苦笑した気がする。
ゴミ袋を脱いだ後、床に落ちた髪をモモが楽しげにコロコロで掃除して、「ユキの毛が生え替わった」と言った。猫がまたコロコロに飛び付いてきたので、今度は僕がボールを転がしてやった。

*    *    *

次第に僕は居候の猫が嫌いではなくなっていた。
モモの言うことを信じたわけではないけれど、確かにその猫は音楽に敏感だった。僕がギターを取り出すと身体を持ち上げて姿勢を正し、大きめな耳をそばだてて、僕が練習を終えるまで頑なにその姿勢でいる。たまにリズムに合わせて尻尾が揺れている。そんなに気にかけているのに傍には寄ってこない。僕が猫を嫌いになれなかったのはその仕草のせいだったかもしれない。
猫は僕の音楽を気にかけていたが、それでもモモの猫だった。普段は走る兆しも見せないのに、モモに呼ばれると自由な三本の足ですぐさま駆け寄っていく。自分では上手く掻けない首の後ろをモモが掻いてやると、嬉しそうに頭をモモの手に擦りつけた。拾ってくれたのが誰かということをきちんと理解している、義理堅い猫だった。僕はその所作にも満足していた。モモを困らせるようなら僕だって容赦しない。何を容赦しないのかはわからないけど。
猫は目立った事件を起こすこともなく、愛想を振りまくでもなく、ただこの家に溶け込んでいた。ちょうどその頃、Re:valeはアルバムを出すのと同じくして小規模ながらライブツアーをする予定になっていて、毎日猫に構ってやれるほどの暇がなかったのも事実だ。モモは勿論、岡崎事務所にとっても初めてのツアーで、経験者の僕も一切役に立たないので、右往左往という言葉が本当にしっくりくるくらいあちこちに電話をかけたり挨拶に出かけたりしていた。そこに僕達の引っ越しも重なって、家で互いの顔を見るのも寝る前だけという日もたまにあった。猫が去る日が来るのと同じ速度でこの町での暮らしも終わろうとしていた。花見には行けないままだった。

*    *    *

引っ越しをするということは、最寄りのコンビニが変わるということなのだなと、ふと思った。
今の家から駅の方に歩く道の途中には、聞いたこともないような名前のコンビニが立っていて、そこが最寄りのコンビニだった。老夫婦が経営していて、高校生の孫がよくバイトに入っていた。雑誌の種類が少ないのでたまに近所の人に文句を言われていたが、枝豆入りの手作りのパンが評判だった。モモはいつ知り合いになったのか知らないが、引っ越した頃から老夫婦と男子高校生に好かれていて、一度アルバイトにも誘われていた。モモがそのコンビニに就職すればいつでも顔を見に行けるので、そこで働いてほしいなと密かに思っていたのだが、モモは結局バイトの誘いを断ってしまった。「オレが入ったら、あの子バイトやめちゃうもん」と言っていた。
一方で目の前にあるコンビニは、おそらくは日本で一番数の多いチェーン店で、品揃えもバイトの人数もあのコンビニとは比べ物にもならない。変なパンも売ってない。でもここでモモがバイトをしてくれれば、いつでも顔を見に行けることには変わりない。ここで働いてくれないだろうか。
「寄って行きます?」
僕が大手のコンビニを見つめたまま動かないのでおかりんが尋ねた。首を振って、隣の駐車場に止められた社用車のドアをスライドさせる。ツアー宣伝用の慣れないインタビューが終わった後、六時過ぎから引っ越し先候補の内見に連れ回された僕は身体の芯から疲れきっていた。
「お疲れ様でした。まっすぐ帰っていいですよね?」
「いいよ。モモも着いてきてくれればよかったのに」
インタビュー終わりに内見の予定があることは前々から決まっていたので、モモも一緒にと誘ったけれど、どこぞの狐顔の飲み会に顔を出すからと言って断られたのだ。
「千さんの家を決めるんですから、百さんが着いてくる必要ないでしょう。わがまま言わないでください」
おかりんはにべもない。それも僕には不満だった。事務所が家の候補を選んできた時には、既に別々のパンフレットが用意されていたのだ。僕の新居は防音設備を条件に随分厳選されていて、今更変えてくれとも言い難い。だったらモモが僕の家の隣に住んでくれればいいと思ってモモに渡されたパンフレットを覗き込んだのだけれど、モモの新居の候補は何故か全て隣りの区だった。
モモはあの辺りに縁でもあっただろうか。例えば親族や昔の友人の類がいるだとか。しかし家族と縁を切っている人間が今更家族以外の親類や友人の傍に住むというのもよくわからない話だ。そうすると僕の防音設備と同じように、仕事で便利な場所として選ばれるくらいしか理由は思いつかない。けれども仕事で便利な場所なら、僕の家の隣りに住むのが一番便利に決まっている。要するに僕はわがままを言っているわけではなくて、隣りに住まない理由がないよねと、そう言っているだけなのだ。
一人で下手な弁論大会を繰り広げている間に、おかりんは慣れたハンドル捌きでワゴンをアパート前に横付けした。
「お家の候補、来週までに選んできてくださいよ」
「わかってる」
車を降りながら僕は適当に頷いた。資料を持って帰ってきたので、モモに選んでもらおう。
見上げる僕達の家の窓には明かりが灯っていて、僕は今更ながらにそれが嬉しかった。その明かりが示すことの第一として、モモは家にいる。第二として、モモは眠っていないということが言えるからだ。そうやって帰れる日も、もう一ヶ月もない。センチメンタルに浸るでもないけれど、僕はなんとなく玄関のチャイムに指を伸ばしていた。静かな夜には不釣り合いな軽やかな音が鳴って、ぱたぱたと狭い家の中を走る音と、ドアスコープから訪問者を確認する僅かな間の後、ドアが開いた。
「おかえり! なんでピンポン鳴らしたの?」
「出迎えてほしくて」
変なの、と笑いながらモモは奥に引っ込んだ。僕の目的は達成されたと言える。
シャワーを浴びて、モモが敷いてくれた布団に倒れ込む。それを待っていたように隣に寝そべるモモが言った。
「ねぇユキ、作戦会議があるんだけど」
随分懐かしい物言いに思わず口角が上がってしまう。同居を始めたばかりの秋口の頃だった。まだアイドルとしての仕事はほぼ皆無だった中で、地方の小さなイベントの出演依頼があった。出演はついでで、ほとんど雑用係みたいなものだったけれど。そこのプロデューサー、もとい、取り仕切っているおじさんが「顔がいいだけで音楽はオマケみたいなもの」だとか、知ったような顔で言うからつい口論になってしまったのだ。「音楽を聞く気がないならわざわざ呼ばなくてもいい」とか、言った気がする。結局出演の前にその仕事は駄目になった。おかりんにもモモにも迷惑をかけて帰ってきた一日の夜、「作戦会議をしよう」とモモは言った。「芸能界にはオレみたいなのが好きな人とユキみたいなのが好きな人がいるから」と続けられた時には笑ってしまった。モモのことが嫌いで僕のことが好きな人間なんているわけない。それを狭い浴槽の中で膝を突き合わせて、顔を近づけて小さな声で、さも極秘事項みたいに言うから可愛くて。けれども、人間関係を築くことが不得意な僕に気を使って立案してくれた、人脈を分割するという「作戦」であることだけはきちんとわかっているつもりだった。
それに比べると、今日発令された作戦の意図は僕には不可解なものだった。
「一緒に暮らしてたこと、これからは秘密にしよう」
どうやらこの作戦会議をするために、今日のモモは飲み会も早引けして寝ずに待っていてくれたらしかった。
「……どうして?」
「バンさんが見つかった時に困るから」
何故モモと一緒に暮らしていたことと万が見つかることが繋がるのか僕にはよくわからなかったが、モモが真剣な顔をしていたからそれ以上は訊けなかった。
「すごく近所に暮らしてたってことにしよう。そしたらユキが料理作ってくれてたって言っても不自然じゃないし」
「僕、そういう隠し事苦手だから、うっかり喋っちゃうと思うよ。そうすると嘘をついていたことになるけど」
一年半も一緒に暮らしていたのだ。普通に話していたらどこかに綻びも生じるだろう。ちょうどその時、自分のことも忘れないでくれ、とでも言いたげに部屋の隅で猫が鳴いた。普段は静かな猫なのに珍しいことだ。
「猫のことも黙っていたほうがいいのか?」
「確かに一緒に暮らしてなかったらそうなるか」
うーん、とモモは布団の上に仰向けになって頭を掻いた。具体例を考えてみて、どうやらこの作戦は上手くいかなさそうだと自分でも思ったようだ。モモ自身、僕にそんな大層な演技ができるとは信じられなかったらしい。
「わかった。じゃあできるだけでいいから、ぼかす感じで。ややこしくなりそうだから嘘もつかなくていい。そもそもあんまり昔の話題にならないようにすればいいもんね」
「できるかな……モモがそう言うなら頑張るけど……」
「できるよ、頑張って!」
今日は大分喋って歩いたので、眠くなってきた。それに気がついたモモがすぐに電気を消してくれた。おやすみと言われて、口の中でそれらしき言葉を返す。どうして次の引越し先ではすごく近所に暮らしてくれないのかと尋ねようと思っていたのに、忘れていた。明日起きたら訊いてみよう。

*    *    *

猫がいなくなったのは、引越しの三日前のことだった。
その時には、猫は反町さんのところに引き取られることが決まっていて、引越しの当日に迎えが来るはずだった。反町さんはモモの話を聞いた時から自分が引き取ることを考えてくれていたらしい。猫の足が悪いのもあって少しばかり躊躇していたが、猫が大人しく、さらには音楽に造詣が深いのを知って引き取ることを決めたそうだ。反町さんは家で最近ピアノのレッスンを始めたから、とモモが教えてくれた。猫は音楽の才で引き取り手を得たわけで、それが僕には他人事ながら少し誇らしかった。
猫がいなくなった日、僕はどうしても早朝からツアーの打ち合わせに出掛けなければいけなくて、なんとモモよりも早く起きて家を出た。と言っても、一度モモに起こしてもらってモモがまた寝ただけだけれど。前日にも深夜まで居酒屋のバイトに勤しんでいたモモは、昼前から少しだけ別のバイトを入れていた。最後の稼ぎ時とばかりにツアー練習の合間にバイトを詰め込んでいる。引っ越し資金を稼がなくてはいけないそうだ。それは僕も同じであるはずだったが「ユキはツアーの準備に集中して!」と、モモは寝起き三十分後とは思えない爽やかさで僕を送り出してくれた。
昼過ぎに、僕が日差しにやられてへとへとになって帰ってくると、モモはもうバイト先から帰って来ていて、青い顔をして言った。
「ユキ、どうしよう。にゃあがいない」
二週間ほど前にも姿が見えないことがあったが、その時は荷造り前のダンボールの中に落ちて出られなくなってしまっただけだった。前足を引っ掛ける場所がなかったのだろう。それを思い出したモモは全部のダンボールのガムテープを一度引っ剥がして中を確認した。猫はいなかった。それから風呂場の覗ける隙間を全部覗いて、台所のあらゆる扉を開けて、ゴミ箱を底まで漁った。家中を探すと言っても、八畳一間の小さな家だ。高い場所に登れないあの猫に隠れられる場所などほとんどなかった。
「遠くには行けないと思う」
モモは確信に満ちた宣言をして、家のすぐ裏のお寺の敷地から捜索を開始した。確かに窓から脱走したとすれば行く先はそこになる。僕はモモに虫除けスプレーを渡してやって、あとは後ろを着いていった。
こうして歩いてみると、よく知った町だなと思う。この寺院もそうだ。本来ならこの町に親戚などいないモモと僕には縁のない場所だけれど、去年の夏に腰を痛めた大家さんに頼まれて、彼女の家の墓を掃除しに行ったのだ。モモがやたらと張り切って綺麗にしたものだから大家さんには大層感謝され、以後は何かと果物やら菓子やら墓前に備えた余り物を差し入れしてもらった。「オレの家もお彼岸の時、墓掃除がオレの当番だったから。なんか思い出しちゃった」と、掃除が終わった後に差し入れのスイカを齧りながらモモは言っていた。モモがその墓を掃除することはもう一生ないかもしれない。
かなり当てをつけた墓地の捜索だったようだが、不発に終わった。モモは団地の隙間に押し込めたような、小さな公園の数々に捜索範囲を移した。こういう公園は昼間の練習によく使った。モモがいるとしょっちゅう町の誰それさんに話しかけられて練習が中断するところが欠点だ。去年の花見も最初はここでしたんだった。
振り返ってみると、生まれた時から住んでいた地元よりも、一年半暮らしたこの町の方が余程思い出深いかもしれない。子供の頃は外にいる時間より部屋で一人でエレクトーンを触っている時間の方がずっと長かったし、高校からは、万の地元の方がまだ記憶に残っている。結局、外を歩くきっかけがないと、引きこもりの僕は町の情景など覚えていないのだ。この町においてそれが誰なのかは言うまでもない。どんな思い出でも隣にいた。
奇妙な一年半だった。刃物を持って、他人のために料理をして、家に帰ると誰かが同じ空間にいて、狭い風呂に二人で肩を並べて、話して、歌って、猫を拾って。この町に来る以前の僕からは想像もできなかった。一緒に暮らそうかと提案したのは僕の方だったのに、まぁ何も考えていなかったと言っていい。これからの生涯で、また他人とそうして暮らすことがあるだろうか。その時の相手はどうしてモモではないのだろうか。前を歩く背中を見ながら思う。白いTシャツが汗で背中にへばりついていた。モモは休まず歩き続けたし、僕はその後ろを着いていった。本当は別々に探した方がよかっただろうけれど、この位置のままずっと歩いていたい気分だった。幸いなことにモモも「ユキは向こうを探して」とは言わなかった。
日が沈み、夜御飯の時間もとうに過ぎて、ようやくモモは商店街の端っこの縁石に座り込んだ。モモは長い溜息を吐いたきり顔を膝の間に埋めて、黙りこくっていた。思っていたより遠くには行かなかった。この商店街も歩いて十分ほどの場所にあって、肉が安いスーパーがあるから普段からよく使っている。とにかくモモは徹底的に近所の捜索に費やして、あの町外れの川には近寄りもしなかった。考えてみたら当たり前だ。猫は足を怪我していたのだから、そんなに遠くに行けるわけがない。
「この町なら、野良猫になってもちゃんと生きていけるよ。足は怪我していたけど、それには慣れているだろうし」
ようやく僕は口を開いた。僕がきっかけを作らなければモモは一晩でも猫を探すと思った。モモの気が済むならそうしても構わないけれど。
モモはそれでも何も言わなかったので、僕も隣に腰を下ろした。どこか遠くからピアノの音が聞こえてきた。ピアノはメヌエットを八小節だけ弾いて、そこで今が夜であることを思い出したかのようにぴたりと止んだ。
「オレがバイト行く前にもっとちゃんと見て、病院連れて行ってやればよかった。なんか変だなって思ったのに」
モモは絞り出すようにそれだけ言って、また黙ってしまった。僕は家を出ていこうとしていた猫の姿を思い出していた。猫の身体のことはよくわからないけれど、怪我そのものが原因というより、怪我をしているところから無理に身体を動かしたことが原因だったようにも見えた。モモは、自分が家に戻るまで猫はじっとしていてくれるだろうから、それから酷くなっているようなら病院に連れていけばいいと判断したのだろう。けれども猫の最期をモモに伝えたところで、今のモモの気持ちが明るくなるとは思えなかった。猫が最期にモモには頼りたくないと思ったことを、モモはどう感じるだろう。モモだって怪我を負った猫がこの町のどこかで生きているとは信じていないかもしれない。それでも、僕が黙っていれば最期の姿をモモが知ることはないのではないか。
モモはやがて立ち上がり、ズボンに付いた砂を払った。
「ごめんね、夜遅くまで。帰ろう」
僕は頷いた。引っ越しの準備はまだ半分残っている。

*    *    *

「もうすぐこの町ともお別れだね」
シャッターを下ろしたアーケードの中を歩きながらモモが言った。またいつでも帰ってこられる、とは言えなかった。帰る場所なんてない。家は明々後日引き払うし、帰ってきたところで家族や親類がいるわけでもない。こんなにも大事な場所なのに、この町には何の標もなかった。僕達は偶然この町に辿り着いて、そこを通り過ぎて遠くに行く。次に引っ越す家は二十三区の中にあって、スタジオにも事務所にも近い七階建てのマンションだった。なんとなく、僕は次の街のことを何も知らないまま、また次の街に引っ越すのではないかという気がしている。
モモは寂しいと思っているのだろうか。少し歩幅を広げて、モモの隣に並び、顔を盗み見た。
「寂しくないよ。だってもっと上に行くから」
僕の心の声が聞こえたように、モモは僕の方を向いて急に宣言した。その言葉通りに、モモの目には殺風景な世界の中で頂に登ろうとする人間の意志が煌々と光って見えた。
「そうね」
商店街を通った反対側にある、あの河川敷を振り返った。猫は死んでしまった。同志を失ったような気がした。だから僕はこの町に墓標を立てたのかもしれない。

料理が好きな人間は、皿洗いが好きな人間と皿洗いを憎む人間に大別されるらしいとどこかで聞いたことがある。僕はそこまで嫌いではない。肩の力を抜いて何も考えないのがコツだ。この前三月君に訊いたら「料理が終わっちまったなって気がするからそこまで好きじゃないですね」と言っていた。普通は面倒くさいとか手が荒れるとか、そういうネガティブな理由を挙げるものだと思うのだが、なんだか彼らしい前向きな意見で面白かった。自分が大量の皿を片っ端から洗う映像を眺めながら、僕はそんなことを思い出していた。
「これって店長の仕事なのかな?」
映像の中の僕が呟いて、スタジオではモモが声を上げて笑った。以前NEXT Re:valeで好評だった職業体験企画の第二弾。今回はŹOOĻの子達をゲストに招いている。今日は最終回の収録で、僕が職業体験をした時の映像を皆で見ている。御堂君の御指名は一流ホテルのフランス料理店に勤める料理長だった。こういうレストランは分業制なので本来皿洗いは料理長がやる仕事ではなかったのだけれど、僕の苦労している姿を撮りたいというわがままなスタッフの要望に付き合った結果がこれだ。第一弾で楽君がマジシャン体験を提案してきた時にファンの声に流されずに断っておくべきだったと思う。
「すげぇ数の皿。めちゃくちゃ人気の店なんだな!」
「狗丸さんはご存じないかも知れませんが、フランス料理ですからね。一人のお客さんが沢山使われるんですよ」
「今日中にこの量終わるの? この番組のスタッフ容赦ないなー」
ŹOOĻの勝手なコメントが入るが、収録自体は割合楽しかった。ファンとスタッフの皆には悪いけど、皿洗いだって量が多いだけでそこまで苦労するようなことじゃない。今は全自動食洗機に任せているけれど、昔はこうして洗っていたのだから。
「でもあんたが皿洗いって、全然似合ってないな」
そんな風に昔のことを思い出していたので、スタジオで御堂君が僕に向けて言った一言には考えなしに返してしまった。
「そんなことないよ。二人で暮らしていた頃は僕が食事作ってたし。モモと駅前の居酒屋で一緒にバイトしたこともある」
「二人で!? バイト!?」
台本になかった台詞に御堂君は素で驚いたようで、僕はそこでやっと失言に気がついた。多分彼は僕達が一緒に暮らしていた時期があったことさえ知らなかっただろう。隣に座るモモが顔をしかめた気がしたがそれは勿論幻想で、モモは愛想良く応じた。
「そう、バイト! でもオレが厨房メインでユキがホールだったの。今と逆だよね!」
スタジオが笑い声に包まれる。そのバイトはモモの口利きで入ったにも関わらず、ホール担当だった僕がまたお客さんの告白を断って問題を起こし、厨房に回されたが結局クビになったので笑い話ばかりではないけれど。それでも楽しかった思い出だ。
ちらりとスタジオの外に目をやると、ディレクターが「そのままリバーレの話で尺稼いで!」と殴り書きしたカンペを振り回していた。話せることならいくらでもあるけれど、いいのだろうか。僕はちらりとモモを見たが、本番中のモモはカンペを読んでも表情を変えたりしなかった。
「他にはどういうアルバイトをされていたんですか?」
巳波君が尋ねて、モモが応じる。
「オレは接客業が多かったかな? さっき言った居酒屋とか、パチスロのスタッフとか。あとは工場の日雇いとか、イベントの裏方もやったな。あっ交通整理のバイトも多かった」
「犬の散歩したよね」
「したねぇ。ユキめっちゃ吠えられててウケた」
「全然アイドル関係ないんすね」
「そう! なんでもやったよ、本当に貧乏だったから。でもその時の経験って今の自分にもつながってる気がする。オレ達を応援してくれてる人ってそうやって毎日働いてるわけじゃん。今回の企画見た人が、そういう風に周りの人のことに興味持ってくれたら嬉しいな! 仕事ってさ、その人にとっては当たり前のことだけど、他の人が話聞くとすごく面白かったりするから。そういう、誰でももってる特別なところを見せられてたらいいな」
上手くまとめたなという同業者としての感想も込みで、ŹOOĻが感心した声を上げる。
「しかしRe:valeにそんな貧乏時代があるなんて知らなかったな。変な話、あんたらはずっとトップアイドルだった気がしてた」
「そんなわけないだろ。お金なくて髪もモモに切ってもらってたくらいだから」
言った後に、あ、と思った。視界の横のモモが、一瞬だけ放送中はしないような顔をしたから。眉をひそめて、歯を噛み締めて、けれども単純に怒っているのとも違う。泣き出す一歩手前の子供のような顔だった。モモは確かに童顔で泣き虫だけれど、だからと言って普段の顔が本当の子供に見えるわけじゃない。どうしてそんな風に感じたのだろう。怒るならともかく、悲しむような話題でもないのに。モモが何を思ったかはわからないけれど、これは本当に言ってほしくないことだったのだなということくらいはわかった。
それは本当に一瞬の出来事で、僕が瞬きをする間にモモの顔はすぐにテレビ向けの表情に戻っていた。モモがいいコメントをしてまとめた直後なので、御堂君には悪いけれど今のやり取りはカットされるだろう。けれどもモモのあの表情はカメラにも抜かれないでいてほしかった。モモのあんな顔、あまり人に見せたくない。
縋るようにディレクターの方を見るとカンペは「バッチリっす!」に変わっていた。スタジオの映像がディナータイムの豪華な料理に切り替わって、僕達の同棲時代の話題はそれきりになった。その後はずっと、焼け付くようなモモの視線を隣から感じながら収録を終えた。

*    *    *

二人きりの楽屋のソファに腰を下ろすと、モモは即座に開戦の口火を切った。
「テレビではああいう話しないでって言ったのに」
可愛らしく頬をふくらませているが、内心そこそこ怒っている。僕もモモの泣きそうな表情は気になったけれど、この点に関しては悪くないのでご機嫌を取るつもりはなかった。
「バイトをしていた話の何が駄目なんだ。見ている人にも親近感が湧くから自然とそういう話題になる分には悪くないって、打ち合わせでおかりんも言ってたろ」
「一緒に暮らしてたって言わなくてもいいじゃん。打ち合わせでもそう言ったよね?」
「わかったとは言ってない」
「前は頑張るって言ってたよ」
覚えがない。きっと寝しなに言わされたのだろう。
「隠すようなことでもないだろ」
あまりに相方と仲が良い体で売っていると、万がRe:valeに戻ってきた時にややこしくなるという言い分は、今でも信じ難いけれど、まだわかる。けれども万が見つかった今となってはその理屈は通じないはずだ。
「今のユキのイメージに合わないもん。ファンの皆だって喜ばない」
「むしろ喜ばれてる方だろ」
モモは僕がファンからの評判を何も知らないと思ってそんなことを言うのかもしれないが、流石の僕だって聞いている。僕達が一緒に暮らしていた際のエピソードは、一つ公表されるたびにファンの間で大盛りあがりの種なのだ。モモの努力が功を奏してか、そもそも同棲時代のことを知らないファンも多い。その度に、先輩のファンがあの番組ではあんなことを言っていた、昔の雑誌ではこんなことも言っていたと、丁寧に教えてあげるのだった。
「これからファンになる人もいるってことぉ……」
モモはわざとらしく口を尖らせた。
直接訊いたわけではないけれど、モモがあの頃の話をしたがらない理由はなんとなく察しがついていた。あの時代は、モモにとっては輝かしい日々とは言い難いのだろう。モモは僕の力になれないことに苦しんでいたし、僕はモモの力になれないことに苦しんでいた。今のモモにとってはあまり言いふらしたいことではないのかもしれない。しかしここまで喋るのを嫌がられるとは思わなかった。「売れない芸人さんみたいじゃん」と、前にこの議論をした時のモモは苦笑いで言ったけれど、実際売れない芸人のようなものだったろう。確かに清貧という言葉とは程遠い、食べるにも困るような暮らしもあった。けれどもそれだけではなかったはずだ。少なくとも僕はそう思っている。モモはそうではなかったのだろうか。
モモが立ち上がって楽屋のペットボトルを一本取った。いつもの炭酸飲料ではなくて、ただの水だった。一気に半分ほど飲み干した後、思い出したように振り返って言う。
「そういえば、ユキが皿洗いしてたお店は駅前じゃないよ」
「そうだっけ?」
「台風の日にさ、ユキが傘持って迎えに来てくれたじゃん。辞めたのに気まずいとかないんだなって思ったけど」
そう言われて、確かに最寄り駅は同じだがもう少し歩いたところにある別の店だったと思い出した。最初の頃は色々なバイトを二人で転々としていたのによく覚えているものだ。
「そうだ。傘二本持ってきたのに壊れてたんだ」
「そう! 壊れてるのに気がついて、しょんぼりしてるの可愛くて、しかも駅から結構歩いてびしょびしょだし、でも壊れてない傘をオレに差し出してくれたから超イケメンだなって思ったよ! 髪の毛がこう、ね、ほっぺに張り付いてて……映画みたいだった……」
「本人ここにいるんだけどね」
モモが笑わせてくるので、思わず突っ込んでしまう。テレビの収録で話すのとは全く違う、きらきらした顔で語ってくれるから、僕は余計に寂しかった。モモだって決して昔のことを忘れているわけではないのに、人前ではそれを口に出すなと言う。Re:valeを再結成してすぐの頃の僕は、事務所のことさえも心の底から信頼したわけではなかった。だからあの時代の僕達のことを証言できるのは、本当に僕達自身の他には誰もいないのだ。それくらい、あの頃の僕達は世界に二人きりだった。今の僕達は日々人前で話したり、たまに歌ったりするけれど、人の目に晒される僕達の大部分はモモが喋る言葉で形作られている。モモが口を閉ざしてしまったら、そのままあの時代は幻になって、世界から消えてしまうような気がしていた。御堂君がRe:valeはずっとトップアイドルだったのだと思っていたように。モモはそれを望んでいるのかもしれない。でも僕はそれに抗いたくて、あの頃の思い出をたまに人前で口にしてしまう。その度にモモは怒るけれど、僕にも考えがあってのことで、モモと喧嘩をしたいわけではないのだ。だから僕はぎこちなく停戦の合図を送ってみた。
「今でも迎えに行くのに。車で行くから傘が壊れても、駅から遠くても大丈夫」
「えぇっ……セレブな上にイケメン……!」
「車、そこまでセレブかな?」
「迎えに来てくれる気持ちがセレブなんだよ!」
「そうなの?」
三分前まで口喧嘩をしていたとは思えないやり取りで、こういう所が僕達のいい所だし、天君なんかに言わせれば悪い所なのだろう。見計らったようにおかりんとモモのサブマネージャーが呼びに来て、僕達はそれぞれ別の現場へ向かっていった。あの頃の話をどう扱うか、結論はうやむやのままだった。前にこの話をした時もこんな風に決着がつかずに終わったような気がするし、モモも僕も意地っ張りなのでこれからもずっとそうかもしれない。いつかはあの猫を迎えに行ってやらなければいけないのに。

*    *    *

昔のことばかり思い出すのは年をとった証とはよく聞くけれど、本当なのだろうか。一度あの頃のことを思い出すと次々と他の出来事も思い出す気がする。その日の夜は二人で暮らしていた頃の夢を見た。でも夢の中のモモは長毛の大きな猫を連れていて、話が違うじゃないかと僕は思った。でかい猫はモモに甘えてばかりで、モモが座っているとすぐ膝に飛び乗って頭をモモの腹に押し付けて、モモの仕事の邪魔をしていた。腹が立った僕が猫の尾を引っ張ったら何故か尻尾ごと抜けてしまって、びっくりして夜中に目が覚めた。なんだったんだ。猫の尻尾を掴んだことなんてない。
それからまた昔のことを思い出したのは、早くも翌日のことだった。その日は土曜の昼間によくあるような町歩き番組のロケで、朝から北関東の小さな商店街を訪れていた。外から人が大勢訪れる町ではないけれど、根差す人の暮らしやすさがどことなく伝わってくるような活気があった。母親がベビーカーを押して歩くのによくすれ違い、路地裏には洒落た喫茶店が目に入る。商店街にはこの辺りの大手スーパーが入っていたけれど、その店頭には近所で採れたであろう野菜が泥がついたまま並んでいる。
お喋りは相方に任せればいいし、長らく苦しんでいた「t(w)o…」のCM用アレンジは一昨日終わったし、僕はモモの半歩後ろをのんびりと歩いていた。薄手の長袖で過ごしやすい、うららかな秋の午後だった。外を歩き回るのはそこまで得意ではないけれど、これで仕事というなら気楽なものだ。その時に、こんな光景を前にも見た気がすると、ふと違和感を覚えたのだ。きっと今日訪れることがなければ一生名前を知ることもなかったであろう町だというに、何故だろう。歩きながらしばらく考えて、思い出した。二人で暮らしていた町の商店街に似ているのだ。駅前から少し歩いて、細い道からアーケードへ入る時のなんとなく感じる安心感。どこか遠くから響いてくる昼下がりの楽器の音。しかし、改めて見渡すと既視感は朝霧のように薄れて消えてしまった。よくあることだけれど、焦点を結んでみると全然似ていないような気もする。あの町の商店街もアーケードの上にすずらんが飾っていた気がしたけれど、地方の町並みは大体こんなものだろう。
僕が既視感を覚えたのは半歩先を歩くモモのその背中だったかもしれない。モモはいつも背筋を伸ばしてすたすたと爽快に歩くけれど、僕の歩調は平均より大分ゆっくりなので、どちらかが意識しないと僕達の距離はどんどん広がってしまう。今ではモモが気にしてくれるからそんなことはないけれど、一緒に暮らし始めた頃のモモは頻繁に後ろを振り返って、想像より三歩ほど後ろにいる僕にびっくりしていた。僕はその所作が犬の散歩みたいで気に入っていたけれど。今日は番組に求められる絵の都合で先を歩いていたモモが、ちょっと立ち止まって後ろを歩いていた僕を小突く。
「ユキ、撮影中だよ!」
「あぁ、うん。ごめん。気持ちよかったからぼーっとしてた」
「のんびりしてる顔もイケメンだけど、もう少し頑張って!」
流石に昨日の今日で撮影中に「ここって一緒に暮らしていた町に似てるよね」と言い出すほど無神経ではなかったので、僕は意識して歩幅を広げた。そうするとモモの隣に並べる。
短いアーケードを抜けた先は、少しだけ上り坂になっていて、神社の境内へとつながっていた。そこで映像を締めるのがいいだろうというディレクターの判断で、僕達の撮影はやっと終わることになった。朝から家を出て、珍しくモモがハンドルを握った車の中で少しだけお喋りをして、駅前に降りて、商店街を回って、食事をして、もう四時を回ろうとしていた。この時間の使い方には未だに慣れない。これはたった三十分の番組なのだ。
「じゃあ今日の収録終わりです! お疲れ様でした!」
エンディングを撮り終わって鳥居の前でディレクターが言うと、場の空気が一気に和やかになる。すぐさま今日の飲み会の打ち合わせが数箇所で立案され始める。今年最後のビアガーデンがいいとか、この辺りで飲むのもいいんじゃないかとか。僕は一日中歩いて疲れたのでまっすぐ家に帰るつもりだけれど、モモは僕を送り届けた後にはどこかの飲みの席に加わるのだろう。家のワインを開けたら僕の家の席に座ってはくれないだろうか。手間がかからないものなら何か作ってあげてもいい。
その時だった。社の裏手から大きな泣き声がして、スタッフと僕達は一斉に振り返った。赤ん坊の声のように聞こえたのだ。モモと隣りにいたスタッフが顔を見合わせて、すぐに声のする方へと走った。全員がぞろぞろと後ろに続く。本殿の裏はあまり人の出入りのない資材置場になっているようで、錆びたドラム缶と鉄骨の周りはクモの狩り場になっていた。モモが雑木に隠れた厚手のビニールシートを躊躇なく引っ剥がすと、声の正体はすぐにわかった。
「猫だ」
子猫は身体から一回りの余裕もない小さなアルミのゲージの中に閉じ込められていた。痩せ衰えてはいなかったものの、ゲージに身体を擦りつけたからかあちこち毛が剥げていて、血を流す地肌が見えていた。品種が同じに見えたので、似ている、と一瞬思ったが、顔を見たらそんなこともなかった。猫は大勢の人間が突然押しかけて驚いたのか、さっきよりももっと大きな声で鳴いて、ボロボロの毛を逆立ててこちらを威嚇していた。
「わ、本当だ。猫ちゃんだ。なんでこんなところに閉じ込められちゃってるんですかね。アライグマ用の罠かな」
「馬鹿、捨てられたんだよ」
呑気なスタッフの発言をディレクターがばっさり切り捨てた。ゲージをビニールシートの下に隠した分、捨てる気すらなかったかもしれない。ほとんど殺すも同然だ。高層マンションの都会暮らしではほとんど身近に触れることのないような、悪意に晒された動物の姿だった。
「かわいそう……警察に持っていくのがいいのかな……。それとも飼える人、います?」
そんなことを急に言われて気軽に「はい」と言えるような人がいるだろうか。スタッフ同士が顔を見合わせて沈黙する中、モモが声を上げた。
「オレが預かるよ。ちょっとツテもあるから」
その言葉を聞いて、スタッフ達は見るからに安堵したようだった。
「任せちゃっていいんですか? よかった、百さんなら安心です」
スタッフの皆は次々と猫に背を向けて、何事もなかったように飲みの計画へと戻っていった。番組中に立ち寄った飲み屋の魚が美味しそうだったとか、明日の打ち合わせもついでにしようとか。モモがゲージを持ち上げて底に付いた泥を軽く払うと、猫は尾を踏んづけられたような叫び声を上げ、モモの腕に噛みつこうとしてゲージに激突した。急な展開に猫も驚いているのだろう。
「まだ叫べるくらいだし、怪我してるけど元気そうだね。よかった」
モモが呟いて、車に向かう。後部座席にゲージを置いてシートベルトでしっかりと固定すると、助手席に座った僕に言った。
「先に家に寄るね」
「いいよ。着いてく」
「神奈川の方まで行くからちょっと遠いよ? いいの?」
僕は頷いた。モモは不思議そうに一つ眉を動かしたけれど、特にそれ以上は反論せずにエンジンを掛けた。人が大勢でなくなって落ち着いたのか、車が走り出してからは、猫は後ろで大人しくしていた。モモはいつもよりも丁寧にカーブを曲がった。
二時間と少しのドライブの末、高速道路を降りたところで僕はやっと行き先がわかった。いつかモモと一緒に来た、天君とモモの行きつけだという猫カフェがこの町にある。モモはナビを見ることもなく、郊外のショッピングモールに車を滑り込ませた。平日の夕方で、駐車場に泊まる車も疎らだ。一階にあるカフェの入口までモモがゲージを抱えていくと、受付の女の子は目を見開いた。Re:valeでなくて、抱えられたぼろぼろの猫の方に驚いたのだ。
「店長さん呼んでくれる?」
奥から出てきた店長はゲージを一目見ると、受付の女の子に猫を任せて、モモと僕を奥の事務所のスペースに案内して、その後は勝手がわかったようにテキパキと電話をかけ始めた。
「ここで飼われるの?」
「とりあえず保護してくれる施設に連絡して、そこが里親を探してくれるんだよ。ここの系列のカフェで引き取ることも結構あるけどね。でももうちょっと人馴れしないと駄目かな。お客さんに噛み付くなら、猫カフェじゃ引き取れないもん」
モモは淡々と教えてくれた。
「本当はいくらこうやって拾っても、捨てる人がいたら解決にはならないけどさ。でもにゃんこは悪くないし、あそこでゲージの中に閉じ込められて死ぬよりはマシだと思うから」
それに応じるように猫カフェに勤務する真っ黒な猫がモモの足にすり寄ってきた。顔なじみの猫だったようで、モモは猫の顎をくすぐって「おやつが貰えると思ってるのかも」と小さく苦笑した。
猫を拾った場所と状況を簡単に説明した後は、二十分ほど待たされただけで僕達はカフェを出た。甘え続ける黒猫にモモが「また来るね」と声をかけた。
駐車場までの道で、僕は捨てられた猫の行く先について考えていた。誰にも引き取られなかった、その先があることくらいは理解できた。車の鍵を指にかけてくるくる回しながら三歩先を歩くモモの背に、僕は問いかけた。
「モモは今でも動物が飼いたいのか」
「オレがさっきの子を引き取らないのかってこと?」
そう思ったわけではなくて、モモを非難するように聞こえたなら嫌だ。僕が言葉を整理するのに手間取っていると、モモが返事を待たずに応えた。
「前はTRIGGERと当番制でもいいからちょっと飼ってみたい、なんて言ったけどさ、やっぱり一人でちゃんと世話してあげられないと難しいよね。アイドルやってる間は無理かも」
それならモモには一生無理だ。冷たい水が皮膚の下を流れる感覚。けれども、躊躇する理由は忙しさだけなのだろうか。あの猫の死目に立ち会えなかったことを気にしているのではないか。結局のところ僕がしていることはモモから可能性を奪うことだけなのかもしれない。一緒に暮らし始めた頃からずっと。Re:valeが生まれ変わってからずっと。
「モモはモモより長生きする動物を飼ったほうがいい」
また死んでしまって悲しむところを想像すると悲しい。二十代後半の成人男子などをお勧めする。モモより長生きできる自信はないけど。
「……そっか」
モモは急に振り返って、呟いた。目線は僕の頭上を通り越して遠くを見ていた。ちょうど僕の背に夕陽が落ちようとしているのが、モモの目の中に見えた。僕が五回瞬きするほどの時間を経た後、こちらに視線を戻したモモが言った。
「二人で暮らしてた頃、猫飼ってたでしょ」
その話はもうずっとしないものと思っていた。今こうして猫と触れ合った後でも、あの猫のことは不自然なほど話題には上らなかった。猫は二人で暮らしていた思い出と一緒に、ダンボールの奥底に封印されてしまったように思えた。時たま僕が人前で同棲時代の話をする時も、あの猫の話だけは自分からできなかった。猫も僕なんかに無理矢理引きずり出されては迷惑だろう。ただ一度の例外は、IDOLiSH7と仕事をしていた時に、マネ子ちゃんとのチャットでモモが自分からその話を出した時だけだ。
「にゃあも足を怪我してたんだ」
「覚えてるよ。怪我っていうか、もともと左足はなかったろ」
猫は拾われた時から、いや、獣医の言う通りならば生まれた時から、後ろ足が一本ない三本足の猫だった。高い所には登れず、室内を走ったりすることもなかったが、その割には不自由を感じさせずに部屋をゆったりと歩いていた。モモに首の後ろを掻いてもらうのがお気に入りだった。染みの上の幽霊を見るのが日課だった。Re:valeの音楽が好きな、モモの猫だった。
「そっちの足じゃない。いなくなった日の朝、捻っちゃったんだ。怪我したのは前足の方だったんだよ。ユキは知ってたでしょ」
そう言われて僕は四年越しにやっと自分の失言に気がついた。怪我をしたのがその日の朝だというのなら、先に家を出た僕がそれを知っているはずがない。猫の死んだ姿を先に見つけない限りは。
沈黙を埋めるように、駐車場の隅の方から少し季節外れの蝉の声がする。あの日と同じように。
「ユキが埋めてくれたんだね」
今どこにいるの、と静かにモモが尋ねる。会いに行くの、と僕は訊く。
「そうだよ。ダメ?」
「駄目じゃないよ」
いつかそうしてもらえるといいと思っていたんだ。

*    *    *

調べてみると、懐かしい町は車を走らせれば今住んでいる街からでも一時間とかからない距離だった。遠いと、もう戻れないと思っていたのは僕達だけだった。車内は珍しく無言だった。モモは何も訊かなかったし、僕も何も言わなかった。沈黙が少し息苦しくなってカーステレオに手を伸ばしかけたけれど、それは今ここにある沈黙の存在を肯定して、そのまま終点まで凝り固めてしまう行為のような気がして、伸ばしかけた手を止めた。結局モモは目的地までずっとハンドルを握って前を見ていて、口を開かなかったけれど、それでも今僕のことを考えていると思う。そうでなければ嘘だ。まるでお互いが傍にはいないように、お互いのことを考えている。
そうして僕達はあの町に戻ってきた。引っ越して以来、ここに帰ってくるのは初めてだった。自分の生まれた町ならこの五年で二、三回、なんならモモの生まれ故郷にすら何度か訪ねたことがあったけれど。最後にモモの地元に行った時は、Re:valeの原点を探る、という番組の企画だった。でも本当に僕達が始まったこの町のことは誰も知らない。モモの情報統制のおかげだ。
駅前の町並みは驚くほど何も変わっていなかった。今の最寄りの駅ビルは店舗の並びを覚えていられないほどしょっちゅう入る店が変わるのというのに。五年という時間はこの町にとってはさしたることのない時間だったのかもしれない。トップアイドルになって万と再会しただなんて、全部夢だったような気がする。でも、ここにはモモの車で来ていて、隣にいるモモは顔が見えないように大ぶりのサングラスを掛けて、少し年を取って。それは僕も同じだけれど。
またここで暮らせたらいいなと思うし、そんなことはできないし、そんな願いが間違っているのもわかっている。本当に僕が望んでいるのはそういう懐古的なものではなくて、もっと形を伴うもので、それはずっと昔から変わっていないことも。
河川敷まで僕が先に立って歩いた。モモは場所を知らないのだから、当たり前だ。モモがいつ懐かしい町並みに立ち止まったり思い出話を始めたりしてもいいように、横目でモモを捉えながら歩いていたけれど、モモはそんなことはせずにいつもよりも遅い歩調で僕に着いてきていた。夕飯に間に合うよう家路を急ぐサラリーマン達とすれ違う。街灯の下で僕達の顔をわざわざ覗き込んだりしない。この町にRe:valeを知る人は僕とモモだけのような気がして、ますますあの頃に戻ったような気持ちになった。
一番広い道路に沿って駅からまっすぐに川を目指すと、やがて隣町とを結ぶ大きな橋の袂にぶつかるようになっている。人がよく集るそこは少し改修されて綺麗になっていて、家族連れが数組、バーベキューに勤しんでいた。何か食べ物を落としてしまったのか、子供が泣き出す。母親らしき人影が背中を擦っているのが遠目に見えた。そこから川沿いの道を上流の方に歩いていくと少しずつ賑わいは遠ざかっていって、やがて河川敷が整備されていない、藪の生い茂った景色が現れた。川縁には人の気配はなく、たまにバイクのヘッドライトが僕達の背中を照らして、すぐに追い越していくだけだった。
「ここでモモが魚を獲ってた」
モモが「うん」とだけ応えた。モモだって忘れていないだろうし、それ以上応えようがない。会話は続かなかった。
河川敷に降りると、人の気配に驚いた秋の虫が一斉に鳴き止んだ。薄暗い中に、彼岸花の朱い花がぼんやりと浮かび上がって見える。
「ユキ、昔球根のところ食べようとしてたよね。毒抜きしたら食べれるとか言うからびっくりしちゃった」
僕は少し驚いて、すぐに返事ができなかった。結局モモが半泣きで止めるので、引っこ抜くのはやめにしたのだった。あの時モモが止めなかったら、今ここには咲いていないだろう。後日談も何もない、たったそれだけの話だ。モモに言われるまで僕も忘れていた。モモはそんなことまで覚えているのだ。この場所に至るまでの道のりの中で、モモが語れる思い出は一体いくつあったのだろう。けれどもモモは車を降りてからもお喋りをする気分ではないようだった。球根の話も、僕が魚捕りの話をしたからその返事として喋ってくれたのだろう。
河川敷を少し歩く。埋める印にした木は少し大きくなって、しっかりとそこに立っていた。さすがに猫を埋めた小山だけはもう跡形もなくて、「この辺りだよ」と僕は木の根本を指差した。
モモはサングラスを取って、しゃがんで手を合わせた。僕も後ろに立って手を合わせた。猫には随分待たせてしまって悪かった。
油断した虫が再び鳴き始める頃にモモは立ち上がって、しばらく木を見上げていた。ぬるい風が川を渡って、木の葉と僕の髪をさわさわと揺らした。
「僕がみつけた時には、もう死んでいたんだ」
「うん」
何か話さなくてはいけないような気がしてそう言ったけれど、振り向かずにモモは応えた。モモはそんなことを言わなくてもわかっていたように思う。それに、今でもやはり死んだ時の姿は伝えるべきでないような気がしていた。死んだ身体がどんな風に冷たくなっていくのかなんて、モモは一生知らなくていい。
「ここに来るまでの間、考えてたんだ。にゃあが死んだこと、どうしてユキはオレに黙ってたんだろうって」
モモがやっと振り返って、僕を見据えて言った。僕はそれに返事をしなくてはならなかった。
「オレが悲しまないように、黙っててくれたのかなって」
そんな善人じゃないし、そんなことをしたってきっとモモの悲しみが薄れないのを知っている。安否が知れないということは、相手が死んだのと同じように、いや、それ以上に悲しいことだと、僕と同じ痛みでモモは知っている。
きっと猫が普通の姿で床に倒れていただけなら、僕は死んだ猫を隠したりしなかった。猫があの家から出て行きたがっていたから、僕はそれを手伝った。そうして最初は猫のために埋めて、その姿をわざわざ伝える必要はない気がして、モモのたに黙っていた。でも、それを今日までモモに言わなかったのは僕の都合だった。けれども何と言えば伝えられるのか、こうしてモモの前に立った今でもわからない。僕もここに来るまでの間考えていたのだ。一体どんな言葉を尽くせばモモに伝わるのだろうと。
本当はもっと前に、マネ子ちゃんにあの猫の話をしたと聞いた時に、いよいよこの場所を伝える時が来たのではないかと思ったのだ。
「好きな童話の話とかしてたら、なんか流れで、にゃあの話になってさ」
髪をぐしゃぐしゃと掻きまぜながら、どこか遠くを見てあの時のモモは言っていた。僕の家で晩御飯を食べた後で、モモも僕も随分酔っていた。それでも僕の呼吸ははっきりとわかるくらい浅くなった。モモが一緒に暮らしていた頃の話を自分から人にすることなんて滅多にないし、あの猫の話をしたのは多分初めてだ。永い時間を経て、モモもあの頃の話をしてもいいと思えるようになったのかもしれない。それならば、あの日のことを話すなら今だ。今しかない。
「一生人に話すつもりなんてなかったんだけど、なんでだろうね」
僕は大きく、溜息ともつかない深呼吸をした。彼女にはそういう、人から話を聞き出す不思議な魅力がある。自分の吐いた息からアルコールの臭いがした。
モモはそんなにも一緒に暮らしていた頃の話をしたくないのだ。それがわかって、もう何も言えなかった。どうしてそこまで隠そうとするのかと、尋ねることさえも。モモには何も言えなかったけれど、どうしても誰かにこの苦しみをわかってほしくて、その後マネ子ちゃんには不思議なラビチャを送ってしまった。あの時、本当に話をしたい相手はモモだった。言いたいことはたくさんあった。一緒に過ごした毎日のこと。コネもツテもなくて、二人きりだったけれど、確かにこの町に暮らしていたこと。モモにとっては世界から消し去りたいような日々だったかもしれないけれど、僕はそれをとても大事に思っていること。できたらモモもそう思っていると、モモの口から聞いて確かめたいこと。貧乏だった時の経験が今に繋がってるって、モモもこの前の収録で言っていたじゃないか。あの時があったから僕はこれからも一生モモのことを大事に思えるし、こんなことは恥ずかしいから一生言えないけれど、人を愛するってどういうことかわかったような気もする。
モモがあの日々をどう思っているのか、僕にはどうしてもわからなかった。モモがあの頃の思い出を忘れているわけではなかったから、余計に。本当に辛く苦しいだけの日々だったと思っているなら、球根の話のような小さな出来事まで覚えていてくれるものだろうか。けれども正面から尋ねることもできなかった。もういい加減忘れたいのだと言われたら、僕はどうしていいかわからない。だからいつか、あの猫がそれを知るきっかけになってはくれないかと思って、ここに墓標を立てた。猫の死が確かめられない限りは、僕とモモの町が終わることもない。けれどもダンボール箱が開かれる時は果たして今なのだろうか。それがモモの正面に立った今でもわからない。僕を見つめるモモの瞳からは何も読み取ることができなかった。
「忘れ物を取りに来てくれるといいと思ったんだ、お前が」
そうやってずっと考えていたのに、いや、考えすぎたからだろうか。口から絞り出された言葉は酷く抽象的で、僕は自分の言語野に改めてがっかりした。ミュージシャンになって歌詞にでもした方がいい。けれどもここにメロディはないから、聞く人には伝わらないのだ。
「忘れるわけない」
そう思ったのに、モモはぎゅっと顔をしかめた。今にも泣き出しそうな、子供のような顔。なんだかそれは酷く原始的な感情から来る表情のように思えた。内から溢れ出すそれが、身体いっぱいに湛えられて、溢れ出すほんの手前。ふとそう思った。
「ずっと取っておくんだよ。本当に情けなくて、どうしようもなくて、でもオレの、オレだけの、一番大事なものだから。誰にも見せないで、誰にも教えないで。それで、じいちゃんになった頃に思い出すんだ」
宝物みたいに思ってる、と。
それを聞いて思い出したのは、モモに初めて料理を作ってあげた時のことだった。料理といってもそれはただの卵サンドで、食パンとゆで卵に比べれば料理の体を成していたというだけだ。スーパーで配っていたチラシにレシピが載っていて、これならマヨネーズを買い足せば包丁を使わないで作れるな、と思いついたのだ。バイトから帰ってきたモモは「ユキさんの卵サンド」というよくわからない単語を何度も繰り返し、溜息をついた。
「勿体ない……食べたらなくなっちゃう……。どうしよう……このまま死ぬまでとっておきたい……」
最初はいつものように冗談を言っているのかと思ったが、どうやら本気らしかった。「また作ってあげるから」と、僕が五回ほど繰り返すと、モモはようやく卵サンドの端と端を指先で摘んで、隅を小さく齧って飲み込んだ。あまりに控えめな一口目だったから、きっと食パンの味しかしなかっただろう。
モモにとっての宝物は、きっと食べたらなくなってしまうような、消耗品のようなものなのだ。そしてそれを思い出す時に、きっとモモは一人きりでその宝物を食べて、それを最期の栄養にするつもりなのだろう。モモの中でも僕はモモより先に死ぬことになっているらしかった。
モモが僕と同じように、もしかすると僕よりも、一緒に暮らしていた頃の思い出を大事にしてくれていることがわかったのは嬉しかった。様々なことを言葉にするモモが言葉にしないものには、言葉に表すものよりもずっと特別な理由があったのだ。けれどもそれは僕の特別とは少し違っていた。モモの中ではそれは再生産の不可能な、取り返しのつかないものであるらしい。それが僕には悔しかった。モモはその宝物と同等に価値のある日々を今からだって送ることができるのに。
「次にモモが動物を飼う時は」
モモが目を見開いた。
「一人で世話しなくてもいい。モモが忙しい時は、僕が手伝ってあげられる。だから、この町で暮らしていたことは、一番大事なんかじゃない」
モモは泣きそうな顔のまま、しばらく何も言わなかった。それはモモにはとても難しい問題らしかった。今すぐに決めなくてもいい。猫よりは長生きするつもりだ。
「そうかもしれない。でも、わかんなかったんだ。この町から出ていく時は。後はもう、上に行けば行くほど、ユキと離れるばっかりだって、そう思ってた」
とうとうモモが手で顔を覆った。今ここに悲しいことなんて何もないのに。猫を探した日の夜、泣けなかったモモが泣いているようだった。もしそうだとしたら、モモを泣かせた責任を負うべきなのは猫だけではないような気がした。僕はあの夜に、寂しくないと言い切ったモモに、きちんと伝えるべきだった。僕はそうでもない。この町で暮らした日々がとても好きだったから。でもこれからもモモが隣にいてくれるなら、寂しいけれど大丈夫だ、と。
その時だった。モモが背を向ける木の根元から、何かが飛び出してくるのを感じた。一迅の風が吹いて、モモがぱっと振り返る。それは目には見えなかったけれど、両手に抱えられるほどの馴染んだ大きさの何者か。僕は一瞬の内にあの日の重さを思い出していた。新聞紙を剥いだ時の物みたいな重さ。冷たさ。しかし飛び出してきたそれは生き生きと身体をしならせてこちらに向かって走ってきた。それはモモの足元まで駆け寄ると、服のポケットやチャックに器用に手をかけて、すいすいとモモの肩までよじ登った。僕はそいつの後ろ足が一本ないのを見た。
「にゃあ?」
モモの呼びかけに応えるように、そいつは口を開いてモモの涙をぺろりと舐めた。そして伸びをするように僕の肩に着地して、頭を僕の頬に擦りつけた。冷たい鼻がぎゅっと押しつけられ、髭が当たって少し痛い。首の後ろを掻いてやるモモに、よくしていた仕草。礼を言われた気がした。それからそいつは川面に向かって大きく跳ねた。波紋だけが点々と川の対岸へ渡っていくのを見た。
何が起きたかもよくわからないほど、あっという間の出来事だった。耳の奥にモモが名前を呼ぶ声が木霊している。その音の他には、ただ水面の波紋だけが今ここで起こった何かを肯定していた。それが川の流れに砕かれてなくなるまで、僕達は黙って見ていた。遠くの方で子供達の歓声が聞こえた。
放心したようにしばらく立っていたモモが、やがて言った。
「ユキの言った通りだったね」
何か言っただろうか。モモの方を見ると、モモは涙の跡が残る顔で小さく笑った。
「この町なら野良猫になっても生きていけるって」
そういえばそんなことも言った。本当によく覚えている。これからは少しずつ、モモの覚えていることも話してもらいたい。モモの言った言葉なら、きっと僕の方が覚えているはずだ。そうして二人で話すだけならモモだって構わないだろう。他の誰に話さなくても、僕達が覚えていればこの世界からずっと消えない。
「帰ろっか、ユキ」
モモがそう言って、僕は頷いた。明日も明後日も、アイドルとしての仕事があって、この町でない場所で僕達の暮らしが続く。川沿いの道路に登ってから、去り際にもう一度だけ対岸を振り返る。あの猫がどこかで大きな耳をそばだてて、Re:valeの音楽が始まるのを待っているような気がした。


Photo by Nikomi Wakadori

Published On: 2021年10月9日