アーコロジーの祭日

目が覚めた瞬間に、今日がその日だと理解する。
まるで長い瞬きをしていたみたいに、自然と目が開く。そこでは見慣れた天井がイルミネーションで彩ったように輝いていた。少し気の早いクリスマスみたいな光景に僕は目を細める。その日はいつもこんな風に始まる。鳴り止まない電話でもなく、連打されるインターホンでもなく。寝る前にタイマーをかけた空調が、静かに動き出す音がした。
その日はいつもそうするように、僕は今しがた見ていたかもしれない夢を思い出せないだろうかと、羽毛布団の中で考えてみる。例えば君と出会った時の夢だとか、あるいは君を弔う夢だとか。そういう風に筋道を立てて説明できる事柄によって今日が生まれてきたなら、僕にもできることがある。君と会える日の前日には、なるべく君の夢を見られるように努力してみるよ。
でもその試みはいつものように失敗に終わる。僕は今朝方の夢なんて見ていたかどうかも定かではなかったし、その日はいつだって何の前触れもなく訪れる。スマートフォンに手を伸ばして、時間を確認する。5時42分。マネージャーが電話回線を圧迫するまでは、まだ2時間と30分もあった。君からのチャットは届いていない。昨日は飲み会で遅かったようだから、多分まだ寝ているだろう。
伸びをして起き上がりブラインドを開ける。空はまだ青黒く、低いところには明けの明星が輝いていた。冬の冷たく透き通った空気が二重のガラス越しにも伝わってくる。ベランダには鳩が佇んでいた。首をすくめて、羽毛を逆立てている。去年一緒に仕事をしたモモは元気だろうかと、ふと思う。動物と芝居をするにはコミュニケーションが大切だと教わって、彼は数週間この家に暮らしていたのだった。朝は一緒に家を出て、僕が別の仕事をしている間は事務所で可愛がられて、夜は家に連れて帰ってきた。マジックの仕事をするくらいだから、もともと物怖じしない子だったのだろう。モモは僕によく懐いて、手から餌を食べてくれたし、呼べば側に飛んで来てくれるようになった。家に自分以外の生き物がいる生活は想像以上に楽しかったけれど、残念ながら今の自分の暮らしではペットなんて飼えない。君には「そもそもユキが動物なんか飼えるわけないじゃん」って言われたな。好きな相手には、結構甲斐甲斐しい方だと思うけど。モモとお別れした次の日の夜、餌をやる相手がいなくなって時間を持て余していた僕の家のチャイムが鳴った。植木鉢を抱えた君が、「植物から始めよう!」と言うので、僕の寝室には小振りなパキラが同居することになった。
窓際で微睡むパキラの枯れた葉をむしってやって、ゴミ箱に捨てようと立ち上がったその瞬間。
「あっ」
フレーズが降りてきた。その音が僕から出ていかないように、しゃがみこんで、耳を塞いで目を閉じる。主張はそこまで強くない。多分サビではないだろう。頭の中で反芻してから、口に乗せる。ちゃんと捕まえた。刻まれる三拍子がその後の転調を予感させ、優しく、けれども力強く支えるような、そんなメロディーラインだ。スタジオにボイスレコーダーを取りに行って吹き込んでから、パキラの葉を握ったままだったことにようやく気が付いた。僕は今日がその日だということを君に伝えたことは一度もない。それでも君はその日に作ったフレーズを、曲のどこに隠れていようが必ず見つけ出す。君は何も言わないけれど、目がいっそうきらきらと輝くからわかる。多分そんな風に気がついてほしいから、僕は死ぬまでその日のこと、君には教えないままなんだろう。それに、言ってしまったら二度とその日は僕には訪れないような気がする。
パンとコーヒーで簡単な朝食を終えて、電話が鳴る十分前には、出かける準備は完璧だった。僕達のマネージャーが今朝の様を見たら驚くだろうな。

サブマネージャーの運転する車の中では、壮五君と環君のラジオがかかっていた。
「今日は音楽ファンにとっては特別な日なんだ、環君、ジョン・レノンを聞いたことは?」
「おぉ、知ってる。いまじーん、ざ、ぴーぽーの人だろ」
「うん。『イマジン』を始め、数多くのヒット曲を世に送り出したジョン・レノン。三十七年前の今日、アパートの前で男に撃たれて、命を落としました。享年、40歳」
「ジョン、かわいそーだな。まだ唄いたい歌、いっぱいあっただろうな」
「そうだね。毎年この日には彼の死を悼んで世界各地でライブが行われるんだ。僕達もそれにならって、今日は彼の曲から。それでは聞いてください、ビートルズで『ストロベリィ・フィールズ・フォエヴァー』」
車内に夢見るようなメロトロンが流れ出す。朝一番になかなか攻めたチョイスだな。「チャンネル変えますか?」と尋ねるマネージャーに首を振る。いつもだったら間違いなく車内で寝てしまうナンバーだけれど、今日は大丈夫だ。
僕はふと思い立って、鞄からスマートフォンを取り出し電卓を立ち上げる。日本人男性の平均寿命は、だいたい80歳。80から26をひいて、54。乗算を押して、続けて365、×、24、×、60、×、60、=。1702944000。君と一緒にいられる可能性だ。
少ないな。計算するたびにそう思う。その値は今も目の前で一秒ごとに数を減らし続けていた。十年、二十年、五十年一緒だと言われたらずっと続く気がするのに、本当の時間はこれっぽっちしかない。きっと僕達人間は単位を変換することで、ごまかし続けているんだ。こんな値を目の前に出されたら、きっと正気ではいられないから。
満足した僕はスマートフォンをしまう。僕も死ぬなら、君より先に死にたい。

局に着いても世界はまだぴかぴかと輝き続けていて、僕には少し目が痛い。でも諦めた。今日はきっと一日中こんな感じだ。
「ユキ!」
廊下を歩いていると後ろから聞き慣れた声がして、振り返って目を見張る。今日は完全に別々のスケジュールだったので、顔は見られないと思っていたのだ。
「同じ局だから会えるかなって思って、うろついてた!」
そうやって軽々と、僕ができないと思い込んでいたことを君が覆していく。君が笑うと視界はまたいっそう眩しさを増して、もう太陽を直視しているみたいだ。朝から元気だな。鳩のモモより元気。
「どうしたの?何かいいことあった?」
君にはわかりっこないから、僕は笑う。
「秘密」
「えっ。な、なに、浮気!?」
「そんな訳ないだろ」
「わかんないじゃん!ねぇなに?バンさんとごはん?」
「違うよ」
的外れすぎてまた笑う。君が隣にいるだけで嬉しい。
「今晩、暇?」
「えーっ、今日は三月とごはん……」
「そうなの?」
落ち込んだりしない。突然のお誘いで君の貴重な時間を独占できるなんて思ってない。わかっていたけれど、僕はさも残念そうな顔をしてみせる。僕の安い芝居を間に受けて、君は途方に暮れている。
「そういうの、もっと早く言ってよ、そしたらちゃんと空けとくのにさぁ」
そうできればいいな。でもそれは難しい。僕だって朝が来て目を開けるまで、その日が来るかどうかはわからない。でもそんなこと必要なければいいのにな。いつだって一等席を予約しておきたい。
「待って待って、今予定見るから。うーん、えーとねぇ、来週の、火曜……駄目だ、金曜の夜……」
「いいよ」
僕の予定なんて確認するまでもない。来週の金曜の夜だなんて、途方もない未来に思える。でもそれはたった864000秒後のことだ。多分、金曜日はその日でないだろう。多忙な僕達のスケジュールといたずらに訪れるその日の最小公倍数を探していた。ひょっとしたらそんな日が訪れるのは僕の寿命よりも先のことかもしれない。仕方のないことだ。でもそれでもいいんだ。
「やっぱり機嫌いいね。なに?教えてよ」
「なんでもないよ」
なんでもないよ。君を大事にしたいって思う日くらい、僕には当たり前で、だからなんでもない日なんだ。
いつの日か年老いて眠るように訪れる80歳も、鉛の弾で撃ち抜かれて緊急搬送される40歳も、辿り着くものは同じだ。40歳のモモが突然撃ち殺されたって、努力もしていない僕は文句も言えない。
それでも僕にとっては、その日は訪れるだけですばらしい一日なんだ。こんな僕でも、誰かを大事にしたいと思える。だから僕は僕のことを少しだけ好きでいられる。その日はそういう、幸せな日だ。


Photo by Antonia Glaskova on Unsplash

Published On: 2018年5月22日