COMMUNICATIONS

I

帰り先が同じホテルである先輩の車に環が同乗することになったのは全くの偶然だった。環は千が自分と同じ局で収録していることを知らなかったし、千も環の上がりの時間を知らなかったと言う。
「ホテルまで乗っていく?」
地下駐車場で、千にそう声を掛けられて環はすぐに頷いた。元々小規模の小鳥遊事務所はTwelve Fantasia Tourの準備で大忙しだ。今日は単独で東京での収録があった環だが、彼を次のツアーライブがある隣県まで送っていくのも事務所にとっては一苦労である。隣に壮五がいれば先輩のプライベートまで立ち入ることに別の意見もあったかもしれないが。
「僕の鞄、後ろにどけていいよ。でも他の物はあんまりいじらないでね」
助手席は交通安全のお守りにモバイルバッテリー、土産物と思しきキーホルダーとかなり取り散らかっている。ドリンクホルダーには空のペットボトルが刺さったままだ。そのラベルを見て、環はこの溢れる物達の持ち主を悟った。
「ゴミはゆきりんが捨ててやれよ……」
「いいんだよ。どうせ次そこ座るのはモモなんだから」
事務所への連絡のために環はスマートフォンを起動させ、ついでにグローブボックスの脇に下げられたストラップの写真を撮った。最近お茶のペットボトルを買うとついてくる猫のキャラクターだ。一織が集めているので環もよく知っている。全部で十ほど色があったはずだが、ぶら下がっているのはビビットピンクが二匹とマスカットグリーンが一匹だった。環がSNSに投稿している間に千は緩やかに愛車を発進させた。
「お。ゆきりんのファンからリプ来た。こんなの付けるんだー、だってさ」
「わかってると思うけど、それもモモのだよ」
「こういうの付けるなら王様プリンのストラップ、ゆきりんにもやろーか? ピンクも黄緑もあるし」
「別のを付けてたらモモが拗ねちゃう」
「ももりんのそういうとこ、ややこしいな」
「可愛いじゃない。縄張りを守ってる犬みたいで」
県境のインターチェンジで一度車を止め、「コーヒーが飲みたい」と千は休憩を宣言した。再びスマートフォンを取り出した環だったが、すぐに「はぁ?」と低い声を上げる。
「どうしたの?」
「そーちゃんからゆきりんにリプ来てる」
千がSNSを開くと壮五から恐縮しきりのリプライが届いていた。環君、きちんとお礼を言うようにね、とも。
<お礼くらい言えるっつーの>
<小学生じゃねーし>
気にしないで、と千が壮五に無難な返事を打っている間に環のコメントは二つ付いた。現役高校生のフリックは早い。その様子を見た三月や大和からもコメントがついて、千のタイムラインはたちまち賑やかになった。大和が千のアカウントにリプライを送ることなど極めて珍しいことだが、身内とのやり取りだと思って気が緩んだのかもしれない。気安い調子で壮五をからかっている。
「モモが何も言ってこない……」
「スマホ見てないんじゃね?」
「見てるよ、絶対今見てる」
「なんでわかんだよ、そんなん」
千も環もしばらくSNSを眺めていたが、ファンからのコメントが後ろに伸びていくばかりだった。
「ゆきりんがヤマさんにリプ返す?」
千の横顔が想像していたよりもずっと寂しげだったので、環は少し気を使って言ってみた。大和は千のお気に入りの後輩なのだ。
「遠慮しておくよ。下手に返事したらせっかくのレアなコメントが消されちゃうかもしれないし」
千が缶コーヒーを買ってくる間に環は大和と三月にリプライを返した。帰ろうか、と声がかかって環はシートベルトを締め直す。結局百からのリプライは来なかった。
暮れかかる高速道路の上をテールランプが伸びていく。環はホテルで待っているメンバー達を思う。陸とナギはまだ仕事が続いているが、今いるメンバーで夜御飯に行くことになった。寮から離れてもメンバーがいる場所が環の帰る場所なのだ。それと同じように、多忙な百が偶然にも今夜はホテルに留まっているといい。そんな幸運を環は願った。

*    *    *

<東京で収録だったけど、帰りにゆきりんと一緒になったから乗せてもらった。埼玉のみんな、待ってろよなー>
環のSNSの投稿を百が見たのは一人きりのレッスン場でクールダウンをしている時だった。一緒に上げられた写真には環のピースサインと百が「表情がユキに似てる!」と主張して勝手につけたストラップ。他の色の猫は全員百の家にいる。ダッシュボードの背景から見るに、助手席に乗せてもらっているらしい。
<環ずるい!そこはオレの特等席なのに~o(*≧д≦)o>
浮かんだリプライを即座に却下した。冗談めかして言うにしても、これはない。面倒見のよい先輩というRe:valeのイメージ戦略としてもマイナスだ。しばし考えてみたが気の利いた返信が思い浮かばない。投稿は見なかったことにして、スマートフォンをジャージのポケットに放り込んだ。
この全国ツアーの行程の中で、共演する後輩達に対する千の態度は随分気安いものになった。自分から後輩を帰りの車に乗せてやるなんて、これまでの五年間では前代未聞の出来事だ。勿論、結成当初のことを思えば千の仕事相手に対する態度も随分丸くなったものだ。挨拶もするし、打ち上げにも出る。第一線で活躍する先輩には尊敬をもって接するし、緊張している後輩には気を遣って言葉をかけてやる。それでも千は、プライベートな付き合いではどんな相手に対しても一線を引いてきた。そういう意味で、千が懐にいれる人間は百だけだったのだ。あるいはそれは千の貞節だったのかもしれない。行方不明になった友人に対しての。だから五周年を越えて自分達を慕ってくれるこの後輩達は、千にとっては特別な存在だ。それはきっと喜ばしいことだ。千には心許せる人間が少なすぎた。
ストレッチを終えてもう一度SNSを見ると、壮五が千のアカウントにリプライを送っている。環と千の返信に続いてファンのコメントが次々と連なる。その大部分は百の登壇を待ち望むものだ。確かに、いつもならばここでRe:valeが夫婦ネタの一つでも交わしておく場面である。なんと送ろうか。考えているうちに三月と大和からのリプライがついた。
<ウチの環を宜しくお願いします!安全運転で!>
<ソウは過保護すぎ(笑)>
IDOLiSH7のファンからのコメントまで付いて投稿はますます拡散されていく。ここに今更入るのも場違いかもしれない。またもや百は何も投稿せずにスマートフォンをしまうことになった。そろそろ出発しなければ今日の飲み会に間に合わない。
百にとってもゼロアリーナのこけら落としを共演した後輩達はただの同業者とは訳が違う。彼らがいなければ今の自分達がこうして五年を越えて活動することはなかっただろう。けれどもそれは千の意味合いとは少々異なる。百はどうしたって考えてしまうのだ。長い芸能生命の中で、万が一彼らがRe:valeの敵に回るようなことがあった時には、彼らが知る自分達の内情は致命傷になるだろう、と。絶対に裏切らない相手だ、などと思い込むのは信頼ではない。それはただの慢心だ。そういう風に足元を掬われていく他人はこの五年間で腐るほど見てきた。正常な関係性とは、維持のために努力を払うべき対象なのだ。それは百にとっては悲しいほどに普通の思考だった。百はそれほどにこの世界で磨耗した。けれども千は違う。本質的には情の深い人なのだ。
きっとこれから、百が享受していた千の特別はどんどんなくなっていくのだろう。百の皿にだけ肉が入った二人きりの晩餐も、千が言葉を交わした相手が百一人だった休日も。最後の一つがなくなった時、百には何が残るだろう。百は千の何になるだろう。
レッスン場の明かりを落とす。百は溜息をついて、その場を後にした。

*    *    *

いくら食事に誘っても応じてくれない先輩が、オフの、それも昼間から声をかけてきたのは楽にとっては極めて意外なことだった。千は酒好きの大和や龍之介にも声をかけたようだが、あいにく断られてしまったようだ。常々この先輩と距離を縮めたいと思っていた楽にとっては願ってもない機会である。
行きたい所があると言って千が挙げた店は、地産のワインとつまみを売りにするワイナリーに併設されたテラスバーだった。カップルよりはファミリー向けの、千よりは相方の百に似合う店だったので楽は意外に思った。家に買って帰る分の試飲だという千は、柿とキウイのドライフルーツをつまみに小さなグラスを次々と空けていく。やけに早いペースだが、そう指摘すると「いつもこんなものだよ」と、そっけなく返された。
そして本当に百の話しかしない。楽も噂には聞いていたのだ。そもそも千は自分から話す方ではなく、大勢いる場では話題に合わせて聞き役に回っている。しかし二人きりの現場ではそういう訳にもいかないので、延々と百の話をするらしい、と。楽は今日だけで既に、千の発声練習のやり方を聞こうとして百のマイブームである柔軟体操を、千の最近お勧めの映画を聞こうとして百の攻略中のゲームを知ることになった。このまま放っておけば百の黒子の数まで話し始めそうな勢いである。小細工ができない男であるところの八乙女楽は単刀直入に切り出した。
「千さんは自分の話、全然しませんね」
「僕の話とか、つまらなくない?」
「そんなことないっすよ」
楽は身を乗り出した。
「もったいないですよ。千さんの話、皆聞いてみたいと思ってます。俺だってそうですから。自信もってください」
「まぁ、そういうのもあるんだけど」
熱いね、と呟いて千は一口ワインを啜った。
「他の人にモモの話するとさ、それを知った時のモモの反応が可愛いんだ」
千の話をするはずが即座に百の話題に戻ってきた。楽は少々顔をしかめたが千は気にも止めずに話し続ける。
「不仲説が酷かった頃、腹が立ったから共演者にモモの話ばっかりしていたことがあったんだ。そうしたらモモ、会う人会う人に、話してもない趣味のこととか休日の予定とか聞かれたらしくてさ。結局僕に『オレの個人情報ばっか話すのやめて!』って文句言ってきたんだ」
楽は想像してみる。例えばIDOLiSH7のマネージャーである彼女は、天や龍之介とも日常的にラビチャを交わしているらしい。そこで楽の話が出てくるとする。例えば練習中に天と喧嘩をした話だとか、龍之介が撮った半目の写真だとか。
「されたくない話を勝手にされたら、百さんが怒るのも当然じゃないっすか?」
「違うよ、人づてに僕がモモの話してるの聞いて照れてるんだよ」
千はいたずらっ子のように笑ったが、楽は首を捻った。共感できない自分の思考に問題があるのだろうか。このような複雑な感情を理解することが名役者への道なのかもしれない。なにせ相手は近頃本格的なドラマにも引っ張りだこのアイドルだ。
「よくわかりませんけど、俺は今日千さんと話したことを百さんに話せばいいんですか?」
「今はやめておいた方がいいんじゃない。噛まれてもしらないよ」
「噛む……?」
「まぁ百の方こそ浮気性だし、思い知ればいいとは僕も思っているんだけどね。あまり向いてないみたい。偏食だしね」
「これなんの話っすか?」
「有能なシェフの話だよ」
そこでようやく気がついたが、この先輩は大分酔いが回っている。そもそも普段はここまで饒舌な人ではないのだ。見事に逃げ切られたらしい。会話を諦め、楽は赤ワインの残りをぐっと煽った。千が構えたスマートフォンがグラスと瓶のラベルに向けられてぱちりと音を立てる。相変わらず掴みどころのない先輩だが、その写真の送り先くらいなら鈍い楽にも理解できた。

*    *    *

<ワイン美味しかったよ。一本ホテルにも持っていくから、それ開ける時は付き合って>
千から送られてきた写真は、国産で頭角を現すこの地方の有名なワインだった。何故知っているかと言えば、そもそも背景に映るそこは百が勧めた店だからだ。写真にはワイングラスが一つとドライフルーツしか写っていないが、その向こうに楽がいることも百は知っている。
返事を打とうとした指があらぬ方向にスライドして、画面がスクロールする。最後のタイムスタンプは今日の午前九時だ。
<僕、昼からオフなんだけど。モモは今日どうするの>
<今日オフのメンバー多いね!オレは夕方まで仕事で、夜は局のディレクターさん達とご飯だよ~ヾ(・∀・。)>
ツアーであるのをいいことに百は連日全国の知り合いと飲み歩いている。千が晩酌の相手を探していることも知っていたが、百は作曲中の千とは少し距離を置くことを心がけているのだ。作曲する期間に入った千はプライベートでも音楽と共にある。Re:valeの百が隣にいると、千の曲に不純物が混じるような気がして嫌なのだ。
<大和と三月でお酒飲むんじゃなかったっけ。ワイン買っていって参加してきたら(*´・ω・)?>
<IDOLiSH7二人に僕一人はちょっとやりづらくない?>
<じゃあ楽は?最近仲いいじゃん、ワイン好きだって言ってたよ!>
万理の名前は出せない。その名前を出したならば、千は行ってしまう気がするのだ。自分から一緒にいる道を断ったくせに、他人といることを拒む千の姿に安堵している。
<モモが行くなら、行ってもいいよ>
昼に送られたその一行を改めて目に焼き付ける。駄目押しのようにスクリーンショットのボタンを押し込んで、名称未設定フォルダに保存する。きっと千は深く考えてなどいない。百がいればRe:valeが二人でTRIGGERが一人だからこちらがホームだとか、その程度の認識なのだろう。そんな何気ない言葉に百がどれだけ喜んでいるか、千はきっと知らないのだ。
<ユキ、もう皆と仲良しじゃん!オレの出る幕ないかなって>
そこで千がべそをかく王様プリンのスタンプを送って、会話は途切れている。千は滅多にスタンプなど使わないから、きっと環辺りに教わったのだろう。
本当にIDOLiSH7もTRIGGERもよくできた後輩だ。これから先、ますます競争が激化するであろうアイドル業界の中でもきっと強かに勝ち残っていくグループだ。そう考えたからこそ千の側に置こうとした。自分でそうお膳立てした癖に、千と過ごす後輩達につまらない嫉妬をしている。
行列ができる人気のスイーツに、高級なフランス料理店の前菜。そういうものをテーブル一杯に並べて「好きなだけ食べて」と言う癖に、「こんなにたくさん食べられないよ」と千が言うのを待っている。そもそも千は甘いものもフランス料理も好んで食べるわけではないのに。ただ百が、千に似合うと思うものを並べているだけだ。
結局千からのラビチャには返事が打てないまま、マネージャーに出番を告げられて百は立ち上がる。仕事をしている間はこういった下らないことを考えなくて済むので、いっそ気が楽でいい。

*    *    *

ツアーのメンバーが宿泊するホテルのレストランで、なぜか天は八宝菜を咀嚼する先輩アイドルと向かい合っていた。釈然としません、という台詞が天の顔には貼り付けてある。
先程までこの四人席で千は岡崎と食事をとっていたのだ。そこに岡崎に用事があった姉鷺と、姉鷺と食事をする予定だった天が合流した。マネージャー二人が次回のライブの話を始めると、時を置かずにIDOLiSH7の若きマネージャーが通りかかる。そのまま三人は部屋でツアーの打ち合わせを、ということでレストランを出ていってしまい、食べるのが遅い千と、来たばかりの天がここに残されたという訳だ。
特に話題も見出だせず、かといって席を移る理由も見つけられないまま、天が注文したパプリカと豚のオイスターソース炒めが運ばれてきた。はっきり言って天はこの先輩のことがどうにも気に食わない。その理由の一端は明らかで、天が「百派」であるからだった。しかし、何故か千はそのような態度を隠さない天を不快な顔もせずに受け入れている。「天君は見る目がある」と正面切って言われたことさえある。千にとっての人間の評価は、自己に向けられる好意よりも百に向けられる好意の比重が圧倒的に大きいらしい。そうは言っても先輩に対してあからさまな贔屓など、普通は許されない態度だ。そう考えると、天は百だけでなく千にも甘えているのかもしれなかった。この認識に関して思いを巡らせるたびに天は少しばかり居心地が悪くなる。
「昨日は楽君とご飯で、今日は天君。浮気が捗るね」
その発言で天は先程の考えをすぐさま撤回した。天を嫌わないのは一種の物珍しさだろうし、あるいは冷たく扱われることに快感を覚える人種なのかもしれない。
「あまり楽をそういうことに巻き込まないでいただけませんか。楽は純粋な人間なので」
「純粋じゃない天君は巻き込んでもいいんだ?」
天は遠慮なく千を睨む。
「世界が僕とモモの二人きりならいいのにな。そうしたら、モモも僕を疑わないし、僕もモモを一人占めできるのに」
歌うように千が言う。きっとこれも天が明らかな百派だから言っていることで、千がこんなことを言える相手は天くらいなものだろう。しかしそんな特別扱いは嬉しくともなんともない。
がさつに見えない最大限の速度で天が箸を動かしていると、机の上に置いたスマートフォンが音を立てた。この場に天を置いていった非情なマネージャーからの連絡かもしれない。失礼します、と断って天がスマートフォンを手に取ると、件の百からの連絡だった。
「モモさんからでした。これから食事に行こうって」
「なんで僕に送ってこないの?」
「そういうこと言うからじゃないですか」
天は即答した。
「言っておきますけどスマホは貸しませんからね。ラビチャするなら自分のスマホで送ってください」
「モモには貸しことある癖に」
千は楽しげに笑う。目の前で相方とラビチャをしているとスマートフォンを強奪され、そのまま勝手に返事を送られる、というのはこの先輩達の有名な逸話だ。痴話喧嘩などという言葉では可愛げがありすぎる、少し狂った人間関係。全くもって、他所でやって欲しいものである。

*    *    *

<天ちゃん今晩暇!?夜ごはんモモちゃんに付き合ってよ。よかったら陸も誘う?>
明らかに今の自分の精神状態は宜しくない。それを自覚した百はツアーのメンバーを夕飯に誘うことにした。今の嫉妬の矛先は脇役などではなく、自分にとっても大事な後輩だということをきちんと思い出そうと、そういう考えである。迷った末、百はここしばらくプライベートで話をしていない後輩の連絡先を呼び出した。
<すみません、今さっきホテルのレストランで注文してしまって>
<中華の所?オレも行こうかな!(。・ω・)>
<構いませんよ。千さんもいますが>
千と最も交流のない後輩を選んだつもりだったが、一番の当たりを引いてしまったようだった。それにしても珍しい組み合わせだ。千はともかく、天が千と同席したがる姿が想像できない。
<天ちゃんまで浮気なのー!?ヒドい…(ノД`)゚+.゚゚+.゚>
出鼻をくじかれ、メンバーを誘うのは明日でもいいかと思い直す。食事はコンビニで済ますことに決めてホテルのベッドに身体を沈めた。スマートフォンを充電器から外し、アルバムにかけてあるパスワードを開くと一つの名称未設定フォルダが現れる。スマートフォンを買い換える度に、百はデータを移し替えたこのフォルダには名前をつけようと試みるが、結局未だに初期設定のままでいる。
隠しフォルダではあるものの、中身はそう大したものでもない。百が口を出した千のコーディネートを褒めているファンからの応援メッセージ、千から送られてきたちょっとしたラビチャ。元気がない時にぼんやりと読み返していると、まだ走れる気がしてくる。データのほとんどがスクリーンショットの中、それらに混じってアルバムからわざわざ移した写真が一枚。映っているのは五線譜の束で、ページの一番上には「奇跡」と、力強い筆跡で書き込まれている。つい先日、千から渡された新曲の楽譜だ。千から新譜を渡された時、百は必ず写真を撮ることにしている。そのきっかけを、記録できなかった唯一の譜面のことを、ふと百は思い出す。
それが渡されたのは、二人が一緒に暮らし始めてまだ間もない頃、百がバイトに出掛ける直前だった。いつものように忙しなく身支度を整えていると、そういえば、と千が呟いて差し出してきたのだ。千と百のRe:valeにとって二つ目の曲だった。細いシャーペンの裏写り、何度も消しゴムで消した跡。そこかしこに千の苦闘が見てとれる。靴を履いたまま百は大歓声を上げてその場で飛び跳ねて、危うくバイトに遅刻するところだった。
バイト先から帰ってきた百は早速譜面を確認しようと、本棚に手をかけた。しかし端に差し込んだはずの譜面が見当たらない。首をひねる。出かけ際に慌ただしかったが、なくしたら大変だからと確かにここに置いていったはずだ。
「ユキさん、オレの譜面どこにやったか知りませんか?」
台所で食器を洗っていた千が振り返る。
「あ、ごめん。サビ変えたくなったから書き直したんだ」
食器を洗い終えた千が差し出したそれは、新しい紙の上にきれいに清書されていた。
「……ユキさん、前の譜面は?」
「え、捨てたけど」
「捨てちゃったんですか!?」
思わず悲鳴が上がり、大きな声に驚いた千の肩が一度跳ねた。千は何故百がそんな顔をしているのかわからず、ただ自分が差し出したものが喜ばれなかったという事実に狼狽しているようだった。
「ごめんね。モモが使うと思わなくて」
「違うんです、そうじゃなくて、オレ……」
それは千にとってはもう不要なただの紙だったのかもしれない。それでも捨てたりなどしないで欲しかった。百は嬉しかったのだ。千がRe:valeのためにしてくれた苦労がそこに形を成しているようで。けれどもそれは上手く言葉にならない。そうして俯いた百は気がついてしまった。きっと千がそうやって苦労するのも、百とのRe:valeがまだ上手く思い描けないからなのだ。百の口から思わず言葉が溢れて、日焼けした畳の上に転がった。それを聞いた千がどんな顔をしたのか、百は知らない。
スマートフォンが震えて、物思いに耽っていた百を現実へと引き戻す。通知をタップすると天からの返信が届いていた。
<千さんと同じこと言うの、やめてください>
それを言う天のしかめっ面が目に浮かんで、百は久々に画面を前に声を上げて笑った。

*    *    *

<来ないの?>
前後の文脈もなく千は問う。百が既にコンビニかどこかで晩御飯を済ませてしまったことは天から聞いた。その後部屋に来るだろうと思って待っているというのに、いつまでもノックの音がしないので痺れを切らしたのだ。
百から送られてきたのは困り顔のプリンのスタンプ。スタンプは返信に困った時にも便利であるという環の講義が早速役に立った。一分ほど待ってもそこから画面は動かない。
<もうモモに忘れられたかと思ってた>
そう送ると今度は即座に返事が帰ってきた。
<どうして?そんなワケないじゃん>
<最近他の子に僕を押し付けるから>
<ユキ、楽しそうだもん>
いつもふんだんに顔文字で彩られる百のチャットは、それがないと途端に静かに見える。
件のこけら落としから、千にもわかったことがある。千には魔法が使えない。呪文があって、唱えればたちまち百の不安が消し飛べばいいのにと、そう思う。けれども苦しみ続ける他にはないのだ。百の隣に見合う人間であることを、千は証明し続けなければいけない。百にはそれだけのことをされる価値がある。
ふと、昔のことを思い出す。まだ二人が一緒に暮らし始めて間もない頃に、書きかけの楽譜を捨ててしまって百を酷く落胆させたことがあった。千にしてみれば、それはもう使うことのない旋律で、目の前の百が泣き出しそうな顔をしている理由もわからなかった。けれども続く言葉で、千は悟ってしまったのだ。
「せっかくユキさんがオレにくれたのに」、俯いた百は確かにそう呟いた。多分百は今も昔も、そういう思い出を後生大事に抱えていく。これから先ずっと一緒にいるのだからそんなことをする必要はないと、何度千が言っても無駄なのだ。千は過去の千に敗北し続けている。
ゼロアリーナのこけら落としと続く合同ツアーを経て、二人きりだった千の世界には選択肢が増えた。百がそう望んだからだ。その選択肢の中で違わずに百を選ぶ千を見て、百が喜ぶならばそれでもいい。けれどもそのせいで自分が放置されるのは論外だ。百が並べた皿なのだからその務めとして、千の手を取り食べる順番を指図してくれなければ困る。千は決意と確証をもってスマートフォンに指を滑らせる。
<でも人といるのって疲れるよね>
ついさっきまでリアルタイムで来ていた返事が止まった。けれども今度は言葉が返ってくるはずだ。千は液晶を見つめ続ける。
<だからオレは遠慮するって言ってるじゃん>
<モモはいいんだよ>
千が即座に返した文章の前できっと今、野生動物のように息を潜めている。
<今から二人でどこか行こうよ。モモが連れ出して>
<明日も仕事でしょ!?>
<朝までに帰ってきたらバレないよ>
ラビチャには即座に既読がついたが、返信はこない。ホテルの廊下を走っている百を思って、千は目を細めた。

II

運転席側に回り、座席を一段手前に引っ張る。シートベルトをしようとした所で、ドリンクホルダーに空のペットボトルを刺しっぱなしにしていたのに気がついて、鞄に放り込みその鞄ごと後部座席に投げる。大体自分の車でもないのに散らかしすぎだ。千が何の文句も言ってこないから、どうしてもそのままになってしまう。いや、これはただの責任転嫁だなと思いながら、このツアー中の空き時間に鍵を借りて片付けようと決めた。
キーを捻ってエアコンをつける。そこまでしてから、ようやく緩慢な動きで千が助手席に乗り込んだ。自分から呼びつけた癖に、百を待っている間に眠くなってしまったのだろう。
「あのね、そっちの席散らかしててごめん。今度片付けるから」
「別に気にしてないけど。ゴミだけ捨ててくれればそれでいいよ」
「ダメだよ。そのうちオレの家みたいになっちゃうよ」
それを聞いて千は何故か嬉しそうに笑った。
「そう言えば環君が今度、あのなんとかプリンのストラップくれるって。ここに一緒にぶら下げとけばってさ」
「ふーん……」
それを聞いて何と言えばいいのか。今ここを片付けるという話をしていたのではないのか。百の様子を眺めて、千はもう一度笑った。
ホテルの駐車場を出たものの、行く宛もない。時刻は十時を少し回っていて、繁華街の明かりはほとんどが消えていた。東京ならばまだ夜はこれからといった時間だが、地方の町は既に眠りにつきつつある。
今日は酒を飲んでいなくてよかったな、と百は思う。千が出掛けたいと言うのならすぐさま車を出せる身体でよかった。当の本人は既にホテルでワインを空けていたのだ。楽と一緒に買ってきた山梨の赤。「オレと飲むって言ったのに」と言いかけて、そのラビチャには返事をしていなかったのを思い出した。
しかしながら出不精の千が自分からどこかに行こうだなんて。珍事だ。あとでチャットの画面を保存しておこうと心に誓う。こんな夜中に突然言われなければきっともっと楽しめたのに。行き先も周到に調べ上げて、服も靴も新しい物を下ろして。もっとも、そんな事態は最初から起こらない。千は自分でも言う通り、長丁場のツアーで少し人に疲れてしまったのだろう。少し車を走らせたら、ホテルに戻ってゆっくり休ませれば多分それでいいのだ。それでも一応本人の意見を聞いてみる。
「出かけるって言ったってどこ行くの。明日合同リハじゃん」
「何時からだっけ」
「九時にロビー集合。起きれる?」
「起きれない」
なるほど、と百は頷く。遠出をすれば深夜までやっているバーでも見つけられたかもしれないが。少しドライブしてホテルに戻る。やはりそれが正解だ。
信号が青になって、百はアクセルを踏み込んだ。
「右」
隣から声がして、慌ててハンドルを右に切る。人にナビを頼む時の癖で、助手席からそう言われると反射的に従ってしまう。後続車がいれば危なかったが、道を走っているのはこの車だけだった。
「行きたい所、あるの?」
「ううん」
幼子が愚図るような声だった。
「モモ」
「なあに」
「眠くなってきたから、何か話して」
普段は運転席に座る千が言う台詞だったので、何だか少し可笑しかった。百が助手席でスマホを見ていると、千はすぐそう言って話をねだるのだ。
「今日は運転してるのオレなんだから、寝てていいんだよ」
「よくないだろ」
それはそうだ。よくはない。寝るなら居心地のよいベッドの上でゆっくり寝て欲しい。それではとオーディオに手を伸ばすと、その手をはたかれた。お前が話せということらしい。
「ぼーくーらーのーつーないっだーきーせきをー」
「自分で歌うんかい」
しかも出だしは千の歌割りだ。
「新曲、ちゃんと完成してよかったね」
「できないとモモは僕と遊んでくれないから」
「モモいると集中できないから出ていけって、ユキが言ったんじゃんか」
「言ったっけ?」
「言ったよ」
「……。言ったかもしれないけど……ずっと放っておけって意味じゃない……。次の交差点を左」
誰も見ていないウィンカーを出して三車線の大きな国道に入る。流石にちらほらと車が走っているので、制限速度の緩和に合わせてアクセルを踏み込む。帰るべき宿がどんどん遠ざかっていく。
緑色の看板が前方の視界に入って、百はようやっと千の目指していたものがわかった。高速道路だ。
このままここから高速に乗って、ずっと走って、海にでも着けたなら映画みたいだけれど。
「そんなに遠くに行けないよ」
「……」
嘘だ。本当はどこにだって行ける。この道路が国の隅々まで通じていることを百も千も知っている。世界が二人きりだった頃には、新幹線代を出す余裕もなかった低予算の狭いロケバスに、肩を寄せ合って六時間も揺られていた。
けれども明日は大事なリハーサルで、朝の九時に千と百がロビーに現れなければそれはもう大変なことになる。だからどこにも行けない。
それは百が望んだことだった。万理と再会し約束が果たされた今でも、数字と時間に追われながら千がステージに立ち続ける理由。百は千を縛り付けることしかできない。
ランプウェイの入り口で減速して車線を変え、そのまま路肩に車を止めた。大型のトラックが次々と隣の車線を登って、舗装された明かりの中に飲み込まれていく。
千は何も言わずに目の前でピンクにライトアップされた建物を見上げていた。アメリカの町並みからそっくりそのまま持ってこられたような、周りの景色に全くそぐわないモーテル。煉瓦模様の壁。モスグリーンの屋根。ヤシのような樹木。夢を見ているような光景だ。
高架の影に入った車は暗闇の中にある。その中で、振り返った千の目だけが夢の光を受けて輝いていた。ギアにかけていた百の手の上に、冷たくて細い指が重なる。
「行けるよ。モモは僕の何になりたいの」
後部座席の鞄の中で、電話の着信音が鳴っていた。この逃避行はあえなくマネージャーに発見とあいなったようだ。けれどもくぐもったその音は、どうやら遥か彼方で響いているようだった。


Photo by Pawel Nolbert on Unsplash

Published On: 2018年5月5日