起床。

まだうっすら掃除機の排気がホコリ+コーヒー臭なので、朝嗅ぐコーヒー豆の匂いがホコリ臭のように感じられて嫌になってきた。やはり買い替え時か……?いよいよルンバを……。24時間家にいるというのにいつ走らせるんだ……。
「読者はどこにいるのか」読んだ。指示語が指すものがわからん、文意が取れないなどの純然たる難しさがあったが(特に最終章)各トピックは面白かった。もはや現代では成り立たないことが想像しにくいような前提(黙読のできる環境、印刷技術の普及等)から近代読者が生まれ、特に黙読を通して「同じテクストを読んでいるのだから私と皆の考えることは同じはず」という空想が生まれて、一方で全集が足りなくて学生が作家論を論じるような風潮が廃れて(この辺は「そんな理由で廃れちゃうの!?」という面白さがある)テクスト論が生まれ、その中で読者(作者=テクストが成立しないのと同様にここでの読者とは必ずしも字義通り我々を指すのではなく、テクストと向かい合う際の仮想の頭脳みたいなもの)はどのように本文を読んでいるのかという話……(ここまでが序章)。全然違ったらごめん。
テクスト論を援用したら読者が無敵になれて嬉しいのではないかと思っていたが寧ろそういうことは容易には起こり得ない、テクストは読まれるように読まれるということだったので(そりゃそうだ)無念だったが、そもそも「作品を通して簡単に作者の思想がわかるなんて傲慢だ。だからテクスト論という立場を取るのだ」という大枠には同意できたのでこの方向でいろいろ読みたし。ただ、テクスト論の立場から外れるのは簡単なこと(あくまで立場なのでテクスト論に立つことは難しい→だから高等だ、ではない)なので、私も意図せずそういう言い回しをしてしまうことが多々ある。
具体的にテクスト論を援用してどういう悪さをしたかったかというと、テクスト論の立場に立てば作者がどんなタグ付けをしていようが読者がどのようなカップリング(主に問題にするのは非R18作品の受攻)として読もうが自由だという話をしたかったのだが、少なくともテクスト論の立場に立つ読者はそのように読んでもよいという話であって、当然ながら作者はテクスト論の立場に立つように読者を強制することはできない。あともしかするとタグは当然の如くテクストに含まれないと思っていたが、もしかするとパラテクストと呼ばれるものなのかもしれない……。

4月から家計簿を付け始めたが(転職前は支出と収入のバランスがカツカツすぎてつける意義がなかった)眺めていたら予算が余っているのを発見して気が大きくなり、Amazonで文学理論関係の本を買い込んでしまった。勉強するか……。

勉強はいいがそもそも予算が余っているからって使い切っては駄目なんだろうな。最近友人から積立NISAとiDeCoの話を聞き、「例の!」という気持ちになった。実際にやっている人を始めて見た(周囲もカツカツで暮らしている人ばかりなため)。世界経済インデックスファンドでも年金でもいいのだが、「世界経済は(大まかには)成長し続けるだろう」とか「自分は65歳まで生き続けるだろう」とかそういう明るい未来の展望を持てること自体がすごいな。確率的には世界経済は成長するし日本人男女は65まで生きるだろうが、なんだろうな、あまり自分に関わることと思えていないな。