Re:valeラブコメ論

Re:valeのラブコメらしさはどこにあるのだろう。こう問いかければ、その問い自体に意味があるのかと首を傾げる人もいるかもしれない。何故ならRe:valeが初期から「お笑い芸人のコンビ」のようなイメージで描かれ、コメディの要素を担っていることは制作サイドからも明言されているからだ(都志見 2017)。しかし、この背景はあくまで「コメ」の要素でしかなく、さらにアイドリッシュセブンというユーモラスな作品の中で、殊更Re:valeを際立たせるものとは言えないのではないだろうか。ではその本質を「ラブ」の方に求めればよいかというと、そのような言動も火事の元である。良識あるオタクはそんなことをしてはいけない。ラブは貴方の正義の中にある。そもそもラブコメは果たして「ラブ」と「コメ」の加算からなる用語なのだろうか。私達はラブコメという言葉を用いる時に、「恋愛を扱ったギャグ調の作品」以上の何かを読み取りはしないだろうか。濱野(2011)から引用させてもらおう。
>ここで確認しておきたいのは、ラブコメ作品の構造的特徴である。それはひとことでいえば、主人公とヒロインの間の恋愛関係を、いつまでも無限に先延ばしていく点にある。これはあまりにも当然のことなのだが、ラブコメという物語を続けていくためには、幸せな恋愛関係は最後の最後まで完成させてはならない。
勿論現代においてラブコメをエンターテイメントの一ジャンルとして見た時に、それが含む作品は広義に渡っており、必ずしもこれに当てはまるラブコメが全てではないという反論もあるだろう。しかし、ラブコメの笑いがどこから生まれるかと考えると、なんらかのゴール(恋愛の成就なりセックスなり)へ到達しそうで到達しない、その読者の認識と状況の落差が笑いを生み出すと考えられる。この「『コメ』による『ラブ』の遅延」(日高 2016、以下同)はある程度ラブコメの本質的な性質だと捉えてもよいだろう。Re:valeとラブコメの接点は寧ろこの「遅延」にあると言えるのではないだろうか。
Re:valeは成長しない。
二部で展開された、Re:valeが根本的に抱えるファンとアイドルの非対称性という問題はRe:valeが今の形で続いていく以上解決策はなく、モモが自らの悩みや苦しみと決別できないことはSILVER SKY 特典ラビチャにおいてはっきりと述べられている。Re:valeにおいてループ構造がキーワードであることはモチーフを持ち出すまでもなく理解できることである。同じデュオでも、MEZZO”が物語の中で関係を進展させていくこととは対象的だ。
Re:valeにこのような立ち位置が与えられているのは、アイドリッシュセブンという作品からの要請でもある。日高はラブコメが「コメ」による「ラブ」の遅延を求める要因として、月刊誌から週刊誌への移行や連載の長期化といった、作品の外部からの要請を挙げている。これはまさしく二部において完結したRe:valeの関係性が三部において繰り返し、延長、遅延されることに相当する。アイドリッシュセブンは、基本的にはIDOLiSH7とマネージャーの成長譚である。その際、二部からトップアイドルとして君臨したRe:valeは、作品内の公的な立ち位置として相対的には「大人」であり、そこから成長し得ないのだ(まだ数字でいたい 2017)。
これは三部において、IDOLiSH7と同年代のグループであるTRIGGERが社会の圧力と戦ったことと対比すると理解しやすいかもしれない。日高はラブコメとは一線を画す用語の一つとして、「ロマン」という言葉を挙げ、「社会や歴史といった大状況に翻弄されるドラマ性」と特徴づけており、この中では「『恋愛』が描かれる場合もコメディ調ではなく大真面目に「真実の愛」や「運命の愛」といったものが主題化される」と述べている。これになぞらえれば、TRIGGERの戦いこそロマンであり、そこではTRIGGERのメンバー同士の、あるいはTRIGGERとファンとの愛は前へと進んでいく。一方のRe:valeはどうか。三部第20章で示されたのはお互いのエゴのぶつかり合いである。 TRIGGERの戦いは公的なもの、Re:valeの戦いは私的なものなのだ。
しかしこの繰り返し、前に進まない構造にこそRe:valeとラブコメの親和性がある。アイドリッシュセブンにはラブもコメも数あれど、「コメによるラブの『遅延』」が成立しているのはRe:valeだと宣言することは、決して贔屓目ではないだろう。
これらはラブコメ、あるいはRe:valeが軽い感情を扱っているということは決して意味しない。ラブコメにおいて「ドラマティックな悲劇性や陰惨な情念」が「むしろそれらはセンチメンタリズムの系譜として温存され、少女マンガの主要な構成要素」となったのと同様に(日高)、Re:valeにおいても重たい情念は構成要素としてそこにある。特に三周年特別ストーリーではそれが顕著に表れている。このストーリーは作中で大神万理らが言うように「実質こけら落とし」、つまり二部のシリアスな要素の集大成であったこけら落としのセルフオマージュである。しかし、モモの嫉妬や互いの相互不理解という構成要素はそのままに、極めて明るく演じ直されているのだ。
シリアスな感情を抱えたままそれでもなお、それを笑いにまで昇華させるポテンシャル。それこそがラブコメの絶対王者、Re:valeの真の実力と言うべきものなのである。
参考文献
1 都志見文太インタビュー『spoon.2Di』第23巻、2017年
2 濱野智史「ビデオボーイ、テレフォンガール:メディア論から『電影少女』を読む」桂正和『桂正和 桂特録』集英社、2011年、p.68 参考URL
3 日高利泰「ラブコメの条件―用語法と概念の成立に関わる歴史的考察―」『マンガ研究』第22号、2016年
4 まだ数字でいたい「いい大人ですので。」Pixiv、2017年 参考URL