小説が生まれる/小説家になる

文章を書くことは全ての人に平等に与えられた創作活動だ。
中学生の頃、私の文学の授業用ノートに父親がそういった旨の文章を書いたのをよく覚えている。どうしてそんな事態になったのかは忘れたけれど、我が父ながらいいことを書くなと思ったのだ。
まぁ絵を描く活動だって不平等な訳はないのだが。
お絵描きとの違いは、絵の具もペンタブも必要なしに中学生でも今すぐに名だたる文豪と同じ文章を、書くことだけならばできるということだろう。記号ってそういうことだ。その手軽さ。
普通に生きていたって、手紙の中に詩的な一文を加えることもあるだろうし、ツイッターは創作手段としてそのまま使われさえもする。文章を書くという創作行為はどんな時代でも日常のすぐ側にある。
それまでROM専だった人が創作を始めるのが好きだ。
昔、私の二次創作がきっかけで該当ジャンルの二次創作を始めたという人からメッセージを貰ったのがすごく嬉しくてよく覚えている。私の作品はその人の人生を変えたと思えた。
創作する側と見る側に境界はない。同人界隈ではこういった思想は珍しくもなく、たとえば即売会の用語などにそういった意識を見ることができる。特に小説は、先に述べた文章を書くという行為の手軽さゆえに、飛び込みやすい形態の一つだろう。最近だとスマホを使って通勤時間で書いている人さえいるらしい。そうやって打ち込まれた文字も、文庫サイズに製本されて同じ棚に並べば、商的流通に乗る本と見分けがつかない。そうやって小説の同人誌を普通の本の隣に置くのが好きだ。
そういえば前述の父は多趣味な人間なのだが、金がかかる趣味も多いので最近は老後何をするか悩んでいるらしい。密かに小説でも書かないだろうかと思っている。
深緑野分のnoteが好きだ。
深緑野分といえば「戦場のコックたち」。戦争の最中にある日常という料理。ミステリーが小説に与える相互作用。小道具も構想も練りに練られた素晴らしい小説だ。一章を読んだだけで、これはいいものだ!と興奮したのを覚えている。
それでこのnoteだ。失敗談を語る部分がいい。あんな小説を書く作者も、同じような悩みを抱えて同じように苦しんでいるというのがしみじみわかる。私もそうやって苦しんでいたら「戦場のコックたち」のような素晴らしい小説か、それが贅沢なら自分を納得させられる一篇の文章でもいい、そういうものを生める可能性もあるだろうか。まぁ続けていれば、そういうことが起きる確率だってあるだろう。文字を打ち込むというそれに限っては同じ行為である訳だから。
突然、応援しているプロ雀士が書いた小説が出版されると発表された。
びっくりしすぎたのでとりあえずミュートした。いや悔しい。他のどのフォロワーが小説を書いたと言ってもここまで驚くことはなかっただろうに。全然準備ができていなかった。違う世界だと思っていた。
その小説を好きになれる自信がなかった。だって文章で好きになったわけじゃないもの。
幼い頃から小説を嗜んできた人間として、好きな小説も、好きな文章も、好きなジャンルもある。自分の初読の感想は大事にしているし、それに対するプライドもある。なんでもかんでもインターネットに共有しがちな人生だが読んだ本の記録だけはプライベートなものとしているし、テクスト論にも興味をもっている。それに従えばこんなのはテクスト論ど真ん中の領域だ。にも書いたが、私は現代社会において作品へ下す評価と作家に対する商用的支援は切り離して考えている。この小説も既に2冊買っているし、読みたい友人がいれば買って送るので連絡して欲しい。であるからして、スタンスは読む前から出ているも同然なのだ。好きにはなれないかもしれないが、それによって作者を嫌いになったりすることはない。だからそもそもショックを受けるようなことでもないはずなのだ。けれども好きにはなれない可能性があると即座に思った自分にびっくりした。その驚きでミュートをしてしまった。
やはり読んでいる途中で作者のことを考えてしまったので、本の感想をここに書くことはしない。本当に大変なことだっただろうな。執筆に四年かかったらしい。四年て。お前は四年かけて同人小説を書いたことがあるか?
作者にとっては勿論初めて書いた小説だが、人気のプロ雀士が出版する小説ということで周囲からの期待も大きかったらしい。発売前から重版がかかって、随分ハードルが上がってしまったと感じたそうだ。しかし、献本されたチームメイトが即座に読んで感想をブログに認めてくれた。そのブログ記事は私が読んでも胸が熱くなるものだったけれど、作者もそれを読んで気持ちが軽くなったという。
なんて同人作家あるあるなんだ、とそれを聞いた時に思った。初めて作品を出した時のことはちょっと思い出したくないが、毎回初めてのジャンルには緊張を覚える。それに対していわゆる身内が感想をくれることほどありがたいこともない。身内なんていなかった頃があるから、その存在もありがたい。
変な話、そういったエピソードを聞いた時に、人なんだなと思った。雀荘で本人にファンレターを渡したこともあるのに。信じられないほど美しい麻雀を打つ人も小説を書く人間なんだな。
人はいつでも小説家になれる。私はその事実が本当に好きだ。その時、書かれた作品はテクスト論に従って同じ土俵に乗る。それは残酷なことでもあるかもしれない。しかしそれは私にとって、作者が大きな共感の枠組に入るということでもある。
ファンだと言ってくれた貴方、シナリオライター、父、ブロガー、深緑野分、プロ雀士。