Collection: Novel
COMMUNICATIONS
I
帰り先が同じホテルである先輩の車に環が同乗することになったのは全くの偶然だった。環は千が自分と同じ局で収録していることを知らなかったし、千も環の上がりの時間を知らなかったと言う。
「ホテルまで乗っていく?」
地下駐車場で、千にそう声を掛けられて環はすぐに頷いた。元々小規模の小鳥遊事務所はTwelve Fantasia Tourの準備で大忙しだ。今日は単独で東京での収録があった環だが、彼を次のツアーライブがある隣県まで送っていくのも事務所にとっては一苦労である。隣に壮五がいれば先輩のプライベートまで立ち入ることに別の意見もあったかもしれないが。
「僕の鞄、後ろにどけていいよ。でも他の物はあんまりいじらないでね」
助手席は交通安全のお守りにモバイルバッテリー、土産物と思しきキーホルダーとかなり取り散らかっている。ドリンクホルダーには空のペットボトルが刺さったままだ。そのラベルを見て、環はこの溢れる物達の持ち主を悟った。
「ゴミはゆきりんが捨ててやれよ……」
「いいんだよ。どうせ次そこ座るのはモモなんだから」
事務所への連絡のために環はスマートフォンを起動させ、ついでにグローブボックスの脇に下げられたストラップの写真を撮った。最近お茶のペットボトルを買うとついてくる猫のキャラクターだ。一織が集めているので環もよく知っている。全部で十ほど色があったはずだが、ぶら下がっているのはビビットピンクが二匹とマスカットグリーンが一匹だった。環がSNSに投稿している間に千は緩やかに愛車を発進させた。
「お。ゆきりんのファンからリプ来た。こんなの付けるんだー、だってさ」
「わかってると思うけど、それもモモのだよ」
「こういうの付けるなら王様プリンのストラップ、ゆきりんにもやろーか? ピンクも黄緑もあるし」
「別のを付けてたらモモが拗ねちゃう」
「ももりんのそういうとこ、ややこしいな」
「可愛いじゃない。縄張りを守ってる犬みたいで」
県境のインターチェンジで一度車を止め、「コーヒーが飲みたい」と千は休憩を宣言した。再びスマートフォンを取り出した環だったが、すぐに「はぁ?」と低い声を上げる。
「どうしたの?」
「そーちゃんからゆきりんにリプ来てる」
千がSNSを開くと壮五から恐縮しきりのリプライが届いていた。環君、きちんとお礼を言うようにね、とも。
<お礼くらい言えるっつーの>
<小学生じゃねーし>
気にしないで、と千が壮五に無難な返事を打っている間に環のコメントは二つ付いた。現役高校生のフリックは早い。その様子を見た三月や大和からもコメントがついて、千のタイムラインはたちまち賑やかになった。大和が千のアカウントにリプライを送ることなど極めて珍しいことだが、身内とのやり取りだと思って気が緩んだのかもしれない。気安い調子で壮五をからかっている。
「モモが何も言ってこない……」
「スマホ見てないんじゃね?」
「見てるよ、絶対今見てる」
「なんでわかんだよ、そんなん」
千も環もしばらくSNSを眺めていたが、ファンからのコメントが後ろに伸びていくばかりだった。
「ゆきりんがヤマさんにリプ返す?」
千の横顔が想像していたよりもずっと寂しげだったので、環は少し気を使って言ってみた。大和は千のお気に入りの後輩なのだ。
「遠慮しておくよ。下手に返事したらせっかくのレアなコメントが消されちゃうかもしれないし」
千が缶コーヒーを買ってくる間に環は大和と三月にリプライを返した。帰ろうか、と声がかかって環はシートベルトを締め直す。結局百からのリプライは来なかった。
暮れかかる高速道路の上をテールランプが伸びていく。環はホテルで待っているメンバー達を思う。陸とナギはまだ仕事が続いているが、今いるメンバーで夜御飯に行くことになった。寮から離れてもメンバーがいる場所が環の帰る場所なのだ。それと同じように、多忙な百が偶然にも今夜はホテルに留まっているといい。そんな幸運を環は願った。
* * *
<東京で収録だったけど、帰りにゆきりんと一緒になったから乗せてもらった。埼玉のみんな、待ってろよなー>
環のSNSの投稿を百が見たのは一人きりのレッスン場でクールダウンをしている時だった。一緒に上げられた写真には環のピースサインと百が「表情がユキに似てる!」と主張して勝手につけたストラップ。他の色の猫は全員百の家にいる。ダッシュボードの背景から見るに、助手席に乗せてもらっているらしい。
<環ずるい!そこはオレの特等席なのに~o(*≧д≦)o>
浮かんだリプライを即座に却下した。冗談めかして言うにしても、これはない。面倒見のよい先輩というRe:valeのイメージ戦略としてもマイナスだ。しばし考えてみたが気の利いた返信が思い浮かばない。投稿は見なかったことにして、スマートフォンをジャージのポケットに放り込んだ。
この全国ツアーの行程の中で、共演する後輩達に対する千の態度は随分気安いものになった。自分から後輩を帰りの車に乗せてやるなんて、これまでの五年間では前代未聞の出来事だ。勿論、結成当初のことを思えば千の仕事相手に対する態度も随分丸くなったものだ。挨拶もするし、打ち上げにも出る。第一線で活躍する先輩には尊敬をもって接するし、緊張している後輩には気を遣って言葉をかけてやる。それでも千は、プライベートな付き合いではどんな相手に対しても一線を引いてきた。そういう意味で、千が懐にいれる人間は百だけだったのだ。あるいはそれは千の貞節だったのかもしれない。行方不明になった友人に対しての。だから五周年を越えて自分達を慕ってくれるこの後輩達は、千にとっては特別な存在だ。それはきっと喜ばしいことだ。千には心許せる人間が少なすぎた。
ストレッチを終えてもう一度SNSを見ると、壮五が千のアカウントにリプライを送っている。環と千の返信に続いてファンのコメントが次々と連なる。その大部分は百の登壇を待ち望むものだ。確かに、いつもならばここでRe:valeが夫婦ネタの一つでも交わしておく場面である。なんと送ろうか。考えているうちに三月と大和からのリプライがついた。
<ウチの環を宜しくお願いします!安全運転で!>
<ソウは過保護すぎ(笑)>
IDOLiSH7のファンからのコメントまで付いて投稿はますます拡散されていく。ここに今更入るのも場違いかもしれない。またもや百は何も投稿せずにスマートフォンをしまうことになった。そろそろ出発しなければ今日の飲み会に間に合わない。
百にとってもゼロアリーナのこけら落としを共演した後輩達はただの同業者とは訳が違う。彼らがいなければ今の自分達がこうして五年を越えて活動することはなかっただろう。けれどもそれは千の意味合いとは少々異なる。百はどうしたって考えてしまうのだ。長い芸能生命の中で、万が一彼らがRe:valeの敵に回るようなことがあった時には、彼らが知る自分達の内情は致命傷になるだろう、と。絶対に裏切らない相手だ、などと思い込むのは信頼ではない。それはただの慢心だ。そういう風に足元を掬われていく他人はこの五年間で腐るほど見てきた。正常な関係性とは、維持のために努力を払うべき対象なのだ。それは百にとっては悲しいほどに普通の思考だった。百はそれほどにこの世界で磨耗した。けれども千は違う。本質的には情の深い人なのだ。
きっとこれから、百が享受していた千の特別はどんどんなくなっていくのだろう。百の皿にだけ肉が入った二人きりの晩餐も、千が言葉を交わした相手が百一人だった休日も。最後の一つがなくなった時、百には何が残るだろう。百は千の何になるだろう。
レッスン場の明かりを落とす。百は溜息をついて、その場を後にした。
* * *
いくら食事に誘っても応じてくれない先輩が、オフの、それも昼間から声をかけてきたのは楽にとっては極めて意外なことだった。千は酒好きの大和や龍之介にも声をかけたようだが、あいにく断られてしまったようだ。常々この先輩と距離を縮めたいと思っていた楽にとっては願ってもない機会である。
行きたい所があると言って千が挙げた店は、地産のワインとつまみを売りにするワイナリーに併設されたテラスバーだった。カップルよりはファミリー向けの、千よりは相方の百に似合う店だったので楽は意外に思った。家に買って帰る分の試飲だという千は、柿とキウイのドライフルーツをつまみに小さなグラスを次々と空けていく。やけに早いペースだが、そう指摘すると「いつもこんなものだよ」と、そっけなく返された。
そして本当に百の話しかしない。楽も噂には聞いていたのだ。そもそも千は自分から話す方ではなく、大勢いる場では話題に合わせて聞き役に回っている。しかし二人きりの現場ではそういう訳にもいかないので、延々と百の話をするらしい、と。楽は今日だけで既に、千の発声練習のやり方を聞こうとして百のマイブームである柔軟体操を、千の最近お勧めの映画を聞こうとして百の攻略中のゲームを知ることになった。このまま放っておけば百の黒子の数まで話し始めそうな勢いである。小細工ができない男であるところの八乙女楽は単刀直入に切り出した。
「千さんは自分の話、全然しませんね」
「僕の話とか、つまらなくない?」
「そんなことないっすよ」
楽は身を乗り出した。
「もったいないですよ。千さんの話、皆聞いてみたいと思ってます。俺だってそうですから。自信もってください」
「まぁ、そういうのもあるんだけど」
熱いね、と呟いて千は一口ワインを啜った。
「他の人にモモの話するとさ、それを知った時のモモの反応が可愛いんだ」
千の話をするはずが即座に百の話題に戻ってきた。楽は少々顔をしかめたが千は気にも止めずに話し続ける。
「不仲説が酷かった頃、腹が立ったから共演者にモモの話ばっかりしていたことがあったんだ。そうしたらモモ、会う人会う人に、話してもない趣味のこととか休日の予定とか聞かれたらしくてさ。結局僕に『オレの個人情報ばっか話すのやめて!』って文句言ってきたんだ」
楽は想像してみる。例えばIDOLiSH7のマネージャーである彼女は、天や龍之介とも日常的にラビチャを交わしているらしい。そこで楽の話が出てくるとする。例えば練習中に天と喧嘩をした話だとか、龍之介が撮った半目の写真だとか。
「されたくない話を勝手にされたら、百さんが怒るのも当然じゃないっすか?」
「違うよ、人づてに僕がモモの話してるの聞いて照れてるんだよ」
千はいたずらっ子のように笑ったが、楽は首を捻った。共感できない自分の思考に問題があるのだろうか。このような複雑な感情を理解することが名役者への道なのかもしれない。なにせ相手は近頃本格的なドラマにも引っ張りだこのアイドルだ。
「よくわかりませんけど、俺は今日千さんと話したことを百さんに話せばいいんですか?」
「今はやめておいた方がいいんじゃない。噛まれてもしらないよ」
「噛む……?」
「まぁ百の方こそ浮気性だし、思い知ればいいとは僕も思っているんだけどね。あまり向いてないみたい。偏食だしね」
「これなんの話っすか?」
「有能なシェフの話だよ」
そこでようやく気がついたが、この先輩は大分酔いが回っている。そもそも普段はここまで饒舌な人ではないのだ。見事に逃げ切られたらしい。会話を諦め、楽は赤ワインの残りをぐっと煽った。千が構えたスマートフォンがグラスと瓶のラベルに向けられてぱちりと音を立てる。相変わらず掴みどころのない先輩だが、その写真の送り先くらいなら鈍い楽にも理解できた。
* * *
<ワイン美味しかったよ。一本ホテルにも持っていくから、それ開ける時は付き合って>
千から送られてきた写真は、国産で頭角を現すこの地方の有名なワインだった。何故知っているかと言えば、そもそも背景に映るそこは百が勧めた店だからだ。写真にはワイングラスが一つとドライフルーツしか写っていないが、その向こうに楽がいることも百は知っている。
返事を打とうとした指があらぬ方向にスライドして、画面がスクロールする。最後のタイムスタンプは今日の午前九時だ。
<僕、昼からオフなんだけど。モモは今日どうするの>
<今日オフのメンバー多いね!オレは夕方まで仕事で、夜は局のディレクターさん達とご飯だよ~ヾ(・∀・。)>
ツアーであるのをいいことに百は連日全国の知り合いと飲み歩いている。千が晩酌の相手を探していることも知っていたが、百は作曲中の千とは少し距離を置くことを心がけているのだ。作曲する期間に入った千はプライベートでも音楽と共にある。Re:valeの百が隣にいると、千の曲に不純物が混じるような気がして嫌なのだ。
<大和と三月でお酒飲むんじゃなかったっけ。ワイン買っていって参加してきたら(*´・ω・)?>
<IDOLiSH7二人に僕一人はちょっとやりづらくない?>
<じゃあ楽は?最近仲いいじゃん、ワイン好きだって言ってたよ!>
万理の名前は出せない。その名前を出したならば、千は行ってしまう気がするのだ。自分から一緒にいる道を断ったくせに、他人といることを拒む千の姿に安堵している。
<モモが行くなら、行ってもいいよ>
昼に送られたその一行を改めて目に焼き付ける。駄目押しのようにスクリーンショットのボタンを押し込んで、名称未設定フォルダに保存する。きっと千は深く考えてなどいない。百がいればRe:valeが二人でTRIGGERが一人だからこちらがホームだとか、その程度の認識なのだろう。そんな何気ない言葉に百がどれだけ喜んでいるか、千はきっと知らないのだ。
<ユキ、もう皆と仲良しじゃん!オレの出る幕ないかなって>
そこで千がべそをかく王様プリンのスタンプを送って、会話は途切れている。千は滅多にスタンプなど使わないから、きっと環辺りに教わったのだろう。
本当にIDOLiSH7もTRIGGERもよくできた後輩だ。これから先、ますます競争が激化するであろうアイドル業界の中でもきっと強かに勝ち残っていくグループだ。そう考えたからこそ千の側に置こうとした。自分でそうお膳立てした癖に、千と過ごす後輩達につまらない嫉妬をしている。
行列ができる人気のスイーツに、高級なフランス料理店の前菜。そういうものをテーブル一杯に並べて「好きなだけ食べて」と言う癖に、「こんなにたくさん食べられないよ」と千が言うのを待っている。そもそも千は甘いものもフランス料理も好んで食べるわけではないのに。ただ百が、千に似合うと思うものを並べているだけだ。
結局千からのラビチャには返事が打てないまま、マネージャーに出番を告げられて百は立ち上がる。仕事をしている間はこういった下らないことを考えなくて済むので、いっそ気が楽でいい。
* * *
ツアーのメンバーが宿泊するホテルのレストランで、なぜか天は八宝菜を咀嚼する先輩アイドルと向かい合っていた。釈然としません、という台詞が天の顔には貼り付けてある。
先程までこの四人席で千は岡崎と食事をとっていたのだ。そこに岡崎に用事があった姉鷺と、姉鷺と食事をする予定だった天が合流した。マネージャー二人が次回のライブの話を始めると、時を置かずにIDOLiSH7の若きマネージャーが通りかかる。そのまま三人は部屋でツアーの打ち合わせを、ということでレストランを出ていってしまい、食べるのが遅い千と、来たばかりの天がここに残されたという訳だ。
特に話題も見出だせず、かといって席を移る理由も見つけられないまま、天が注文したパプリカと豚のオイスターソース炒めが運ばれてきた。はっきり言って天はこの先輩のことがどうにも気に食わない。その理由の一端は明らかで、天が「百派」であるからだった。しかし、何故か千はそのような態度を隠さない天を不快な顔もせずに受け入れている。「天君は見る目がある」と正面切って言われたことさえある。千にとっての人間の評価は、自己に向けられる好意よりも百に向けられる好意の比重が圧倒的に大きいらしい。そうは言っても先輩に対してあからさまな贔屓など、普通は許されない態度だ。そう考えると、天は百だけでなく千にも甘えているのかもしれなかった。この認識に関して思いを巡らせるたびに天は少しばかり居心地が悪くなる。
「昨日は楽君とご飯で、今日は天君。浮気が捗るね」
その発言で天は先程の考えをすぐさま撤回した。天を嫌わないのは一種の物珍しさだろうし、あるいは冷たく扱われることに快感を覚える人種なのかもしれない。
「あまり楽をそういうことに巻き込まないでいただけませんか。楽は純粋な人間なので」
「純粋じゃない天君は巻き込んでもいいんだ?」
天は遠慮なく千を睨む。
「世界が僕とモモの二人きりならいいのにな。そうしたら、モモも僕を疑わないし、僕もモモを一人占めできるのに」
歌うように千が言う。きっとこれも天が明らかな百派だから言っていることで、千がこんなことを言える相手は天くらいなものだろう。しかしそんな特別扱いは嬉しくともなんともない。
がさつに見えない最大限の速度で天が箸を動かしていると、机の上に置いたスマートフォンが音を立てた。この場に天を置いていった非情なマネージャーからの連絡かもしれない。失礼します、と断って天がスマートフォンを手に取ると、件の百からの連絡だった。
「モモさんからでした。これから食事に行こうって」
「なんで僕に送ってこないの?」
「そういうこと言うからじゃないですか」
天は即答した。
「言っておきますけどスマホは貸しませんからね。ラビチャするなら自分のスマホで送ってください」
「モモには貸しことある癖に」
千は楽しげに笑う。目の前で相方とラビチャをしているとスマートフォンを強奪され、そのまま勝手に返事を送られる、というのはこの先輩達の有名な逸話だ。痴話喧嘩などという言葉では可愛げがありすぎる、少し狂った人間関係。全くもって、他所でやって欲しいものである。
* * *
<天ちゃん今晩暇!?夜ごはんモモちゃんに付き合ってよ。よかったら陸も誘う?>
明らかに今の自分の精神状態は宜しくない。それを自覚した百はツアーのメンバーを夕飯に誘うことにした。今の嫉妬の矛先は脇役などではなく、自分にとっても大事な後輩だということをきちんと思い出そうと、そういう考えである。迷った末、百はここしばらくプライベートで話をしていない後輩の連絡先を呼び出した。
<すみません、今さっきホテルのレストランで注文してしまって>
<中華の所?オレも行こうかな!(。・ω・)>
<構いませんよ。千さんもいますが>
千と最も交流のない後輩を選んだつもりだったが、一番の当たりを引いてしまったようだった。それにしても珍しい組み合わせだ。千はともかく、天が千と同席したがる姿が想像できない。
<天ちゃんまで浮気なのー!?ヒドい…(ノД`)゚+.゚゚+.゚>
出鼻をくじかれ、メンバーを誘うのは明日でもいいかと思い直す。食事はコンビニで済ますことに決めてホテルのベッドに身体を沈めた。スマートフォンを充電器から外し、アルバムにかけてあるパスワードを開くと一つの名称未設定フォルダが現れる。スマートフォンを買い換える度に、百はデータを移し替えたこのフォルダには名前をつけようと試みるが、結局未だに初期設定のままでいる。
隠しフォルダではあるものの、中身はそう大したものでもない。百が口を出した千のコーディネートを褒めているファンからの応援メッセージ、千から送られてきたちょっとしたラビチャ。元気がない時にぼんやりと読み返していると、まだ走れる気がしてくる。データのほとんどがスクリーンショットの中、それらに混じってアルバムからわざわざ移した写真が一枚。映っているのは五線譜の束で、ページの一番上には「奇跡」と、力強い筆跡で書き込まれている。つい先日、千から渡された新曲の楽譜だ。千から新譜を渡された時、百は必ず写真を撮ることにしている。そのきっかけを、記録できなかった唯一の譜面のことを、ふと百は思い出す。
それが渡されたのは、二人が一緒に暮らし始めてまだ間もない頃、百がバイトに出掛ける直前だった。いつものように忙しなく身支度を整えていると、そういえば、と千が呟いて差し出してきたのだ。千と百のRe:valeにとって二つ目の曲だった。細いシャーペンの裏写り、何度も消しゴムで消した跡。そこかしこに千の苦闘が見てとれる。靴を履いたまま百は大歓声を上げてその場で飛び跳ねて、危うくバイトに遅刻するところだった。
バイト先から帰ってきた百は早速譜面を確認しようと、本棚に手をかけた。しかし端に差し込んだはずの譜面が見当たらない。首をひねる。出かけ際に慌ただしかったが、なくしたら大変だからと確かにここに置いていったはずだ。
「ユキさん、オレの譜面どこにやったか知りませんか?」
台所で食器を洗っていた千が振り返る。
「あ、ごめん。サビ変えたくなったから書き直したんだ」
食器を洗い終えた千が差し出したそれは、新しい紙の上にきれいに清書されていた。
「……ユキさん、前の譜面は?」
「え、捨てたけど」
「捨てちゃったんですか!?」
思わず悲鳴が上がり、大きな声に驚いた千の肩が一度跳ねた。千は何故百がそんな顔をしているのかわからず、ただ自分が差し出したものが喜ばれなかったという事実に狼狽しているようだった。
「ごめんね。モモが使うと思わなくて」
「違うんです、そうじゃなくて、オレ……」
それは千にとってはもう不要なただの紙だったのかもしれない。それでも捨てたりなどしないで欲しかった。百は嬉しかったのだ。千がRe:valeのためにしてくれた苦労がそこに形を成しているようで。けれどもそれは上手く言葉にならない。そうして俯いた百は気がついてしまった。きっと千がそうやって苦労するのも、百とのRe:valeがまだ上手く思い描けないからなのだ。百の口から思わず言葉が溢れて、日焼けした畳の上に転がった。それを聞いた千がどんな顔をしたのか、百は知らない。
スマートフォンが震えて、物思いに耽っていた百を現実へと引き戻す。通知をタップすると天からの返信が届いていた。
<千さんと同じこと言うの、やめてください>
それを言う天のしかめっ面が目に浮かんで、百は久々に画面を前に声を上げて笑った。
* * *
<来ないの?>
前後の文脈もなく千は問う。百が既にコンビニかどこかで晩御飯を済ませてしまったことは天から聞いた。その後部屋に来るだろうと思って待っているというのに、いつまでもノックの音がしないので痺れを切らしたのだ。
百から送られてきたのは困り顔のプリンのスタンプ。スタンプは返信に困った時にも便利であるという環の講義が早速役に立った。一分ほど待ってもそこから画面は動かない。
<もうモモに忘れられたかと思ってた>
そう送ると今度は即座に返事が帰ってきた。
<どうして?そんなワケないじゃん>
<最近他の子に僕を押し付けるから>
<ユキ、楽しそうだもん>
いつもふんだんに顔文字で彩られる百のチャットは、それがないと途端に静かに見える。
件のこけら落としから、千にもわかったことがある。千には魔法が使えない。呪文があって、唱えればたちまち百の不安が消し飛べばいいのにと、そう思う。けれども苦しみ続ける他にはないのだ。百の隣に見合う人間であることを、千は証明し続けなければいけない。百にはそれだけのことをされる価値がある。
ふと、昔のことを思い出す。まだ二人が一緒に暮らし始めて間もない頃に、書きかけの楽譜を捨ててしまって百を酷く落胆させたことがあった。千にしてみれば、それはもう使うことのない旋律で、目の前の百が泣き出しそうな顔をしている理由もわからなかった。けれども続く言葉で、千は悟ってしまったのだ。
「せっかくユキさんがオレにくれたのに」、俯いた百は確かにそう呟いた。多分百は今も昔も、そういう思い出を後生大事に抱えていく。これから先ずっと一緒にいるのだからそんなことをする必要はないと、何度千が言っても無駄なのだ。千は過去の千に敗北し続けている。
ゼロアリーナのこけら落としと続く合同ツアーを経て、二人きりだった千の世界には選択肢が増えた。百がそう望んだからだ。その選択肢の中で違わずに百を選ぶ千を見て、百が喜ぶならばそれでもいい。けれどもそのせいで自分が放置されるのは論外だ。百が並べた皿なのだからその務めとして、千の手を取り食べる順番を指図してくれなければ困る。千は決意と確証をもってスマートフォンに指を滑らせる。
<でも人といるのって疲れるよね>
ついさっきまでリアルタイムで来ていた返事が止まった。けれども今度は言葉が返ってくるはずだ。千は液晶を見つめ続ける。
<だからオレは遠慮するって言ってるじゃん>
<モモはいいんだよ>
千が即座に返した文章の前できっと今、野生動物のように息を潜めている。
<今から二人でどこか行こうよ。モモが連れ出して>
<明日も仕事でしょ!?>
<朝までに帰ってきたらバレないよ>
ラビチャには即座に既読がついたが、返信はこない。ホテルの廊下を走っている百を思って、千は目を細めた。
II
運転席側に回り、座席を一段手前に引っ張る。シートベルトをしようとした所で、ドリンクホルダーに空のペットボトルを刺しっぱなしにしていたのに気がついて、鞄に放り込みその鞄ごと後部座席に投げる。大体自分の車でもないのに散らかしすぎだ。千が何の文句も言ってこないから、どうしてもそのままになってしまう。いや、これはただの責任転嫁だなと思いながら、このツアー中の空き時間に鍵を借りて片付けようと決めた。
キーを捻ってエアコンをつける。そこまでしてから、ようやく緩慢な動きで千が助手席に乗り込んだ。自分から呼びつけた癖に、百を待っている間に眠くなってしまったのだろう。
「あのね、そっちの席散らかしててごめん。今度片付けるから」
「別に気にしてないけど。ゴミだけ捨ててくれればそれでいいよ」
「ダメだよ。そのうちオレの家みたいになっちゃうよ」
それを聞いて千は何故か嬉しそうに笑った。
「そう言えば環君が今度、あのなんとかプリンのストラップくれるって。ここに一緒にぶら下げとけばってさ」
「ふーん……」
それを聞いて何と言えばいいのか。今ここを片付けるという話をしていたのではないのか。百の様子を眺めて、千はもう一度笑った。
ホテルの駐車場を出たものの、行く宛もない。時刻は十時を少し回っていて、繁華街の明かりはほとんどが消えていた。東京ならばまだ夜はこれからといった時間だが、地方の町は既に眠りにつきつつある。
今日は酒を飲んでいなくてよかったな、と百は思う。千が出掛けたいと言うのならすぐさま車を出せる身体でよかった。当の本人は既にホテルでワインを空けていたのだ。楽と一緒に買ってきた山梨の赤。「オレと飲むって言ったのに」と言いかけて、そのラビチャには返事をしていなかったのを思い出した。
しかしながら出不精の千が自分からどこかに行こうだなんて。珍事だ。あとでチャットの画面を保存しておこうと心に誓う。こんな夜中に突然言われなければきっともっと楽しめたのに。行き先も周到に調べ上げて、服も靴も新しい物を下ろして。もっとも、そんな事態は最初から起こらない。千は自分でも言う通り、長丁場のツアーで少し人に疲れてしまったのだろう。少し車を走らせたら、ホテルに戻ってゆっくり休ませれば多分それでいいのだ。それでも一応本人の意見を聞いてみる。
「出かけるって言ったってどこ行くの。明日合同リハじゃん」
「何時からだっけ」
「九時にロビー集合。起きれる?」
「起きれない」
なるほど、と百は頷く。遠出をすれば深夜までやっているバーでも見つけられたかもしれないが。少しドライブしてホテルに戻る。やはりそれが正解だ。
信号が青になって、百はアクセルを踏み込んだ。
「右」
隣から声がして、慌ててハンドルを右に切る。人にナビを頼む時の癖で、助手席からそう言われると反射的に従ってしまう。後続車がいれば危なかったが、道を走っているのはこの車だけだった。
「行きたい所、あるの?」
「ううん」
幼子が愚図るような声だった。
「モモ」
「なあに」
「眠くなってきたから、何か話して」
普段は運転席に座る千が言う台詞だったので、何だか少し可笑しかった。百が助手席でスマホを見ていると、千はすぐそう言って話をねだるのだ。
「今日は運転してるのオレなんだから、寝てていいんだよ」
「よくないだろ」
それはそうだ。よくはない。寝るなら居心地のよいベッドの上でゆっくり寝て欲しい。それではとオーディオに手を伸ばすと、その手をはたかれた。お前が話せということらしい。
「ぼーくーらーのーつーないっだーきーせきをー」
「自分で歌うんかい」
しかも出だしは千の歌割りだ。
「新曲、ちゃんと完成してよかったね」
「できないとモモは僕と遊んでくれないから」
「モモいると集中できないから出ていけって、ユキが言ったんじゃんか」
「言ったっけ?」
「言ったよ」
「……。言ったかもしれないけど……ずっと放っておけって意味じゃない……。次の交差点を左」
誰も見ていないウィンカーを出して三車線の大きな国道に入る。流石にちらほらと車が走っているので、制限速度の緩和に合わせてアクセルを踏み込む。帰るべき宿がどんどん遠ざかっていく。
緑色の看板が前方の視界に入って、百はようやっと千の目指していたものがわかった。高速道路だ。
このままここから高速に乗って、ずっと走って、海にでも着けたなら映画みたいだけれど。
「そんなに遠くに行けないよ」
「……」
嘘だ。本当はどこにだって行ける。この道路が国の隅々まで通じていることを百も千も知っている。世界が二人きりだった頃には、新幹線代を出す余裕もなかった低予算の狭いロケバスに、肩を寄せ合って六時間も揺られていた。
けれども明日は大事なリハーサルで、朝の九時に千と百がロビーに現れなければそれはもう大変なことになる。だからどこにも行けない。
それは百が望んだことだった。万理と再会し約束が果たされた今でも、数字と時間に追われながら千がステージに立ち続ける理由。百は千を縛り付けることしかできない。
ランプウェイの入り口で減速して車線を変え、そのまま路肩に車を止めた。大型のトラックが次々と隣の車線を登って、舗装された明かりの中に飲み込まれていく。
千は何も言わずに目の前でピンクにライトアップされた建物を見上げていた。アメリカの町並みからそっくりそのまま持ってこられたような、周りの景色に全くそぐわないモーテル。煉瓦模様の壁。モスグリーンの屋根。ヤシのような樹木。夢を見ているような光景だ。
高架の影に入った車は暗闇の中にある。その中で、振り返った千の目だけが夢の光を受けて輝いていた。ギアにかけていた百の手の上に、冷たくて細い指が重なる。
「行けるよ。モモは僕の何になりたいの」
後部座席の鞄の中で、電話の着信音が鳴っていた。この逃避行はあえなくマネージャーに発見とあいなったようだ。けれどもくぐもったその音は、どうやら遥か彼方で響いているようだった。
Photo by Pawel Nolbert on Unsplash
五線譜の上の手紙達
I
Re:valeのお二人へ
こんにちは。ライブお疲れ様でした!
十一月のライブで、未完成の僕らを歌ってくれた時に手紙を出したファンです。名前書き忘れてたって、帰りの電車に乗ってから気がつきました。名前がなかったら不審物と間違われて捨てられるって怒られました。ちゃんと届きましたか?ご迷惑おかけしてごめんなさい。
でも今日またライブに来たら、やっぱりファンレター出したくなって、今ライブハウスの隣のファミレスでこれを書いてます。今度は書き忘れないように先に名前、書きました!
あのライブの後、サッカーの練習、再開しました。でも身体がなまってて全然ダメです。体重増えたし……。春までには調子を整えて、次のチームで頑張ります。スカウトされる一番のチャンスでプレーできなかったので、ここからプロ入りを目指すのは正直厳しいと思います。でもオレ、プロ入りとかそういう前にやっぱりサッカー好きだし、その気持ちは全然変わらないって気がつきました。あの時Re:valeに出会えなかったら、何も考えたくないからって本当は好きなものからも逃げたままだったと思います。ありがとうございました。
今日のライブもすごくよかったです。アンコールで未完成な僕ら、歌ってくれて嬉しかったです。ライブに行く前、今日は二回目だからもうちょっと落ち着いて聞けるんじゃないかなって思ってました。前のライブの時はオレも落ち込んでたから、あんなに取り乱しちゃったのかなって(出した手紙、文章めちゃくちゃだったし思い返すとちょっと恥ずかしいです……届いてなくてもよかったかも……)。でもイントロを聞いたら、洗い流したと思ってたあの時の気持ちがまたワッって湧き出してきて、結局今日も泣きそうになっちゃって困りました。
きっとこれから一生あの日のこと忘れないし、Re:valeの曲を聞く度にあの時に閉じ込めていたぐちゃぐちゃした気持ちも、それを洗い流してもらった気持ちも、両方思い出すんだと思います。オレはラッキーだったから、本気で悲しくて辛くて絶望して、自分ではどうしようもなかったことなんてきっと今までの人生になかったんです。あんなふうに全然知らない誰かが、オレのこと知ってるみたいに救ってくれることがあるんだってこと自体が、びっくりしたし、すごく不思議でした。そういうことがあるって知ってたら、これから先に苦しいことがあっても、もう少しだけ強く頑張れるんじゃないかなって思います。
例えばその時に救ってくれるのがアイドルや音楽じゃなくても、そういうことがあるから大丈夫だよって、オレに教えてくれたのがRe:valeです。だからこれからずっと、何があってもRe:valeのファンでいます。
それから、ユキさんお誕生日おめでとうございます!
ソロの弾き語り本当にカッコよくて、ずっとドキドキしてました。俯いてギター弾いてる顔がめっちゃイケメンでした!毎年クリスマスにライブされてるんですか?これから毎年ユキさんの誕生日がお祝いできるって思ったら、めっちゃハッピーです!
読み返してみたら前の手紙と同じくらい文章が下手で恥ずかしくなってきました……。読むのが大変だからファンレターが長すぎるのはマナー違反だって今怒られました。ごめんなさい……。そういうの先に言ってほしかった……。
でも出さないより出すほうがいいと思うので、このまま受付の人に渡してきます!
春原百瀬
* * *
中坊(仮)へ
手紙ありがとう。前の手紙もちゃんと届いてるよ。名前は、なんて読むの?
(仮)って書いたけど、今日後ろの方に立ってた中学生が君であってるのかな。男の子のファンなんてそんなにいないし、万もこの前初めて見たって言ってたから、多分そうだと思うんだけど。
ライブの感想ありがとう。こういう時になんて言ったらいいのかわからないけど、また来てね。あと、誕生日も。ありがとう。
サッカー、今度はけがしないように気をつけて。
クリスマスライブ、去年と一昨年はやったけど、毎年ってわけじゃないよ。一応、万に彼女がいない時だけってことになってる。でもあいつ毎年クリスマス前にフラれるんだよね。なんでだろ。来年もできるといいね。
手紙なんて書いたことないから、あまり上手く書けなかった。君のはおもしろいから、好きなだけ書いたらいいよ。
ユキ
* * *
Re:valeさんへ
アルバム発売おめでとうございます!大学行く時、いつも聞いてます。
今日はアルバムと一緒にタオルとリストバンドも買いました。ライブ以外でも使いたいんですけど、部活に持っていくとすぐぼろぼろにしちゃうから悩んでます。友達には二つ買えばって言われたけど、二つ買ったら二つとも大事にしたくなるし、三つ買ったら三つとも大事にしたくなるから困ってます……。
Re:valeのグッズは誰がデザインしてるんですか?紺と白ってバンさんとユキさんの色ですよね。爽やかでめっちゃカッコイイです!
今日は大学の友達を誘って一緒に来ました。Re:valeのこと気に入ってくれたので嬉しいです。軽音やってる友達なので、いろいろ刺激を受けたみたいでした。そいつがやってるのはコピーバンドなんですけど、作曲もこれからやってみたいって言ってました。
オレも高校入学したばっかの頃にちょっとだけギター触ってたんですけど、サッカーが忙しくなっちゃってそのままです。Re:valeのライブに行って懐かしくなったので、この前久々に弦張ってみました。Fが鳴らせなくなってて、ちょっとショックです……。結構練習したのに……。でもせっかくだから、またちょっと始めようかなって思いました。今のペースじゃずっと先かもしれないけど、いつかRe:valeの曲を弾けるようになりたいです!
春原百瀬
追伸。あの、こういうこと書くの恥ずかしいんですけど、三曲目の間奏でオレ達にファンサしてくれましたか?ユキさんがファンサしてくれるの珍しいから、びっくりしちゃって、手、振り返せなくてごめんなさい。でも勘違いだったらもっとごめんなさい……。気にしないでください……。
* * *
キャプテンへ
君、大学生だったの?中学生かと思ってた。今年入学ってことは、一つ年下か。全然見えない。
スポーツのことはあまり詳しくないけど、最初の手紙に書いてた大事な試合はインターハイってこと?すごいな。スポーツ少年なんて周りにいなかったから新鮮。
グッズ、よくわからないけど使ったらいいと思う。汚したらまたライブに来て、別のグッズ買えば?そういう問題じゃないの?保存用なんて買わなくても、一応これからもずっと歌ってくつもりだよ。
ギター、いいね。弾けるようになったら聞かせてよ。グッズのデザインは誰がやってるか知らない。万の彼女かな。グッズはどうでもいいけど、バンドスコアは機会があったら出したいな。今度相談してみる。
ファンサしたよ。見るからに固まってて、面白かった。でも慣れてないから、僕もちょっと恥ずかしかったな……。万はよく毎回あんなことできるよね。しかもライブ終わった後、珍しくファンサしてたなってからかわれたよ。最悪……。
席、もっと前の方においでよ。後ろだと顔が見づらい。
ユキ
* * *
Re:valeのバンさんとユキさんへ
ライブお疲れ様でした。久しぶりに対バンでしたね!初めて聞いたグループだったけど、すごくよかったです。
オレ、あんまりアイドルの曲って知らなくて、女の子が好きな恋愛っぽい曲ばっかりかと思ってました(ごめんなさい……)。Re:valeのライブに行ってから、他のアイドルにも興味出て色々聞いてみました。
それでやっと最近のアイドルのこと知ったんですけど、どういう曲を歌うかはあんまり関係ないんですね。普通のロックとかJ-POPと同じように、オレの好みの歌も、あまりオレ好みじゃない曲もありました。でも曲と歌ってる人の距離が近くて、聞いている間にどんどんアイドルの人のことも好きになるのは他の音楽と違っておもしろいです。
でも他のグループの聞いてたらますます、一番はRe:valeだなって思いました!
新曲、めちゃくちゃよかったです。Re:valeの曲は全部好きですけど、今回みたいな早い曲だとライブでテンションが上がって楽しいです!Jリーグの試合見てるみたいでした!振りも早く覚えたいです。バンさんのソロ、鳥肌立つくらいカッコよかったです。衣装も大人っぽかったし、前髪上げるのめっちゃ似合ってます!
でもバンさん少しお疲れでしたか?声がいつもより伸びてなかった気がしました。無理しないでくださいね。
そういえばバンさんの誕生日もうすぐですよね!次のライブは試合で行けないので、今日なにか差し入れ持ってくればよかったです(今気がつきました……)。お二人は食べられないものとかありますか?バンさんはMCで甘いもの好きって言ってましたよね。
Re:valeのMCはいつもバンさんが喋ってますけど、そういう担当なんですか?ユキさんのMCも聞いてみたいです。ライブじゃない時はどんなことされてるんですか?
毎日暑いので、お体に気をつけてお過ごしください。
春原百瀬
* * *
リア充へ
なんで万の名前が先なの?手紙も後半、万の話ばっかりだし。
新曲、喜んでもらえてよかった。アイドルらしい曲とか僕もよくわからないから、やりたいようにやってるよ。あの曲は、夏のスポーツ少年の歌。イメージで書いたけど。
君はダンス上手そうだよね。僕は正直、踊る方はまだあまりしっくりこない。ギター弾いてる方がいいんだけどな。
万、夏風邪ひいたみたいなんだよね。でももうほとんど治りかけていたし誰も気がつかないと思ったから、ちょっと驚いた。そういうのちゃんとわかるんだね。万は君の手紙読んで、ライブに合わせて体調管理できなかったって珍しく落ち込んでた。
僕のMCなんて聞いてもつまらないよ。何話したらいいのかよくわからないし。だいたい一日中、音楽のこと考えてる。万は練習の合間に高校の友達と遊びに行ったりしてるみたいだよ。普段話さない人と話したり出かけたりしたほうがが曲の引き出しも増えるからいいんだって。僕はごめんだけど。
僕のMCの話なのに万の話になっちゃった。まぁ、だから僕にはMCは無理だと思う。歌ってる人間の話って、そんなに必要?
食べられないものは、肉と魚。差し入れは別にいらないよ。食べるのあまり好きじゃないから。手紙を送ってくれるのが、一番嬉しい。
毎日暑いね。
君はずいぶん焼けたね。部活忙しそうだけど、ライブにも来てね。それとも忙しいのはデートかな。最初ライブに来た時からずっと一緒の女の子、彼女なの?
ユキ
* * *
Re:valeのお二人へ
ライブお疲れ様でした。
今日はバンさんからファンサもらって、姉ちゃんがはしゃいじゃってごめんなさい……。最前で見るバンさん、めっちゃイケメンでした……。
Re:valeのライブ、どんどん箱が大きくなってきてなかなか前いけなくなっちゃったから、今日は整理番号早いしたまには前出ようって姉ちゃんが。今回の箱、音響すごくよかったですね!
やっぱり前で見ると迫力全然違いますね。ダンスがきれいで感動しました。表情とか、指をしっかり止めるとか、そういうことも気を使うんだなって。ステージを見上げる感じもいつもと違ってて新鮮でした。でも毎回オレが前立ってたら後ろの人の邪魔だと思うから、悩みどころです。
今マック入ってこれを書いてるので、姉ちゃんもファンレター書いたらって誘ったんですけど、手紙よりお金を貢ぎたい派だって言ってます。「ファンレターは届いてるのかよくわからないけど、お金は確実に届く!」って。そんなことないと思うけどなぁ……。あっ、私の話を書くなって怒られました。怖いのでもうやめときます。
別にオレがファンレターに書いたのとは関係ないかもしれませんけど、MC今日は二人で喋ってましたね!ユキさんの話たくさん聞けてすごく嬉しかったです。肉食べられないんですか?差し入れにしないよう気をつけます!これからも二人でMCしてほしいです。ユキさんとバンさんのこと、もっと知りたいので!
バンさんの誕生日は過ぎちゃいましたけど、差し入れマカロンにしました。家の近くの結構評判いい店のやつです。お二人で食べてください。
春原百瀬
* * *
弟君へ
一緒に来てたの、お姉さんなんだ。ちゃんと見てたら顔が似てるなって思って。万にファンサもらった時の表情が同じでおもしろかった。お姉さんもだけど、君も相当はしゃいでたと思う。僕だって君達にファンサしたかったのに。
ダンスはもう少し真面目にやらなきゃ駄目だなって思って、プロの人に教わって少し練習した。成果が出てるみたいでよかった。普段全然運動しないから、膝の裏が痛いよ。
箱、どんどん大きくなるよね。こういうの全部、万が仕切ってるんだよ。もうローディーに任せて作曲に集中したほうがいいと思うんだけどな。そのせいで最近、練習時間も少し減った気がする。君にこんなこと言っても仕方ないか。
箱が大きくなったから、ローディーも今の人数のままだと大変みたいだよ。君も手伝ってくれたらいいのにな。そうしたら、関係者用のチケットだってあげられるし。袖で見ててくれてもいいよ。
差し入れ、いらないって書いたのに。ほとんど万が食べた。
喜んでたよ。ファンからもらったからお世辞とかそういうのじゃなくて、あれは本気で喜んでた。自分でも買いに行こうかなって言ってたよ。近所なら君に会えるかもね。それはちょっとずるい。
いらないって書いたけど、やっぱり12月のライブでは僕に何かちょうだい。食べ物以外で。
肉は普通、差し入れの候補にならないんじゃないかな。コンビニのからあげとか?もらっても困るけど。駄目だ、想像したらちょっと笑えてきた。
ユキ
II
ユキさんへ
ユキさん、今日は具合悪いんですか?
これは帰りに他の人達が言ってるのを聞いただけで、もしかしたらそもそも間違ってるのかもしれないですけど、ライブの前にユキさんが他のグループの人達と言い合いになったって聞きました。その人達がユキさんに絡んできた理由も少し聞きました。でもそんなの嘘だと思うし、つまんない噂が広まっちゃってユキさんが傷ついているのかなって思いました。
ユキさん、オレ、何の力にもなれなくてごめんなさい。他の人が廊下で話してるのがちょっと聞こえて、ユキさんどうしてるんだろうって思ったら、何かしなきゃいけない気がして手紙を書いたけど、オレにできることなんて何もなくて、悔しいです。ユキさんに迷惑かける奴らも、変な噂を本気にする奴らも、片っ端からオレがぶっ飛ばして、それでユキさんの何かが上手くいったらいいのに。
ユキさんは他の人達が言うこと、気にしないでください。でも、具合が悪いなら、無理しないでください。あれ、どっちだ。えっと、上手く書けないけど、ユキさんはユキさんの大好きな音楽のこと以外、何も気にしないで歌っていてほしい。
ライブ終わってから急いで書いたので、字が汚くてごめんなさい(いつもあんまりきれいじゃないかも知れませんけど……)。
いつだってユキさんのこと応援してます。
春原百瀬
* * *
僕の一番大事なファンへ
今日のライブのこと、ごめん。
僕に恋人を寝取られたらしいよ。全然覚えがないけど。
それだけなら、別にどうだってよかったんだ。もう慣れたから。その後、お前の作る曲もクズだみたいなこと言われて。もうこんな奴相手にするだけ無駄だって思って楽屋から出ていこうとしたら、お前らのクズみたいな曲を聞きに来る連中もクズだ、だってさ。
一年前、君から手紙をもらって、もう少し、ちゃんとやろうって思ったんだ。でも結局これだよ。僕の歌だけを純粋に評価してくれる場所なんて、本当はないんだ。そんなこと言ってもしょうがないって、もうわかってる。わかってると思ってたんだけど、気のせいだったみたい。関係ないじゃないか。僕がどんなろくでもない人間かってことと、僕の歌と、僕の歌を好きでいてくれる人が、君が、どんな人間かってこと。そんな橋渡しに使われるなら、僕は歌なんて、作らない方がいいんじゃないか。
多分、僕が音楽を続けていく限りずっとこんなふうに言われ続けるんだと思う。これだけは万がなんとかしてくれる問題でもないし。あいつ、僕のこういうトラブルには本当にうんざりしてるみたいだから。たまに僕と万が付き合ってるとかいう噂を聞くけど、それが事実だったらこういう面倒くさいこともなくなるのかな。もうその方がマシって気もするよね。
それでライブ直前まで時間取られて、リハーサルもまともにできなかったし、正直家に帰りたかった。帰ろうかな、って思って外に出たら、君とお姉さんが開場待ってるのが見えたよ。すぐ中に戻ったから君は気がつかなかっただろうけど。廊下で、今日は君が来なければよかったのになって思った。そんなふうに思った自分が嫌だった。
またフロアの後ろの方で立ってたね。すぐわかった。だんだん悲しそうな顔になるのもわかった。違うか。心配してくれてたのかな。途中から顔見るのやめちゃったから。顔見てたら、がっかりさせてるのわかって、ますます嫌になってきちゃって。
ライブまで来てくれたのに、いいものを聞かせてあげられなくて、本当にごめん。君はいつでも僕の音楽にちゃんと向き合ってくれるのに。
手紙じゃなくて、直接謝れたらいいのにな。便箋二枚以内ってルールが君の中にはあるみたいだから、省いてる曲の感想も全部知りたい。文字を読んでるだけでも楽しそうなの伝わるから、喋ってる声も聞いてみたい。ギター、少しは上手くなった?
でも無理かな。きっと全然まともに話せないと思う。一人でノートに書いているだけだから、傷つくこともなくて、上手くいっている気になれてるだけなんだろうな。君だって、喋ってみたら僕のこと嫌いになるかもしれないし。だから歌だけ好きでいてくれれば、それでいいかなとも思う。どっちだろう。よくわからなくなってきた。そもそも、ライブ、次も来てくれるのかな。
君がライブに来なくなったら、それでもう二度と会えなくなるね。君はライブに来ればいつでも僕に会えるのに。当たり前か。僕は一応アイドルで、君はファンなんだから。対等なんかじゃない。僕に選ぶ権利なんてない。またおいでよって言いたくても、連絡先も知らないし。
住所くらい書いてくれればいいのに。そうしてくれたら返事出すのにって、万がいつも言ってるよ。僕は……どうだろう。結局悩んで書けないかも。まぁ間違いなく、今日のこれは出せないな。
不思議だね。一年手紙をもらって、君が大学生で友達も多いこととか、サッカー頑張ってることとか、僕は少しくらい知ってるけど、君の方はライブハウスの外の僕達のこと何も知らないんだな。僕は君のこと特別なファンだって思ってるし、勝手に少し仲良くなったような気さえするけど、君はそんなこと思いもしないんだろうな。
万なんか、君から手紙が来たらいつも大喜びで持って帰っちゃうんだよ。僕に渡すとなくすからって言って、コピーしかくれない。ひどいよね。
でも今日の手紙は僕宛だから、僕が持って帰ってもいいよね。
ずいぶん長くなっちゃった。
いつも手紙ありがとう。次は期待を裏切らないようにがんばるから。
できればRe:valeのこと、見捨てないでいて。
ユキ
III
「今日は恒例のクリスマスライブ!今夜は最後まで一緒に盛り上がろうぜ!」
万のコールに歓声が上がる。セットリストの雰囲気とクリスマスカラーの妥協点であるサイケデリックな赤と緑のスポットライトが、客席を縦横無尽に駆け回る。一曲目の紹介のためにもう一度万が口を開いた、その瞬間だった。
「何がクリスマスライブだ!ふざけんじゃねぇぞ!」
ステージの袖から現れた男が四人。僕に恋人を寝取られたと主張していたあのグループのメンバーだ。
「お前らもここの客も、ボコボコにするまで帰さねぇ!二度とステージに上がれないようにしてやるよ!」
マイクスタンドが倒れて、ハウリング音がこだまする。女の子の悲鳴。出口に殺到する人々。バンドの仲間と思しき男達が出口から現れてそれを塞ぐ。叫ぶ警備員。暴力の音。パニック。パニック。パニック。
僕はその渦中で一人、場違いな無気力で立ち尽くしていた。うんざりだよ。ライブを、音楽のための空間を、邪魔するなんてありえない。そんなことするやつは、もうシンガーでもアーティストでもない。今日はこの前失敗した分、いいライブにしたいって思っていたのに。金髪のボーカルが肩を怒らせてこちらに歩いてくる。何か怒鳴っているけどどうでもいい。殴りたいなら殴ればいい。それで顔に傷でもつけばご期待通り、アイドルなんかやめてやるんだ。
そう思って目を閉じた僕の世界へ、高らかに声が響き渡った。
「テメェら何やってんだ!」
最前列から軽やかにステージに飛び込んできた君の背中は、見下ろしていた時に抱いた印象よりずっと大きかった。赤いスニーカーの軌跡が流線を描いて、男の脇腹に吸い込まれる。漫画みたいないい音がして、そいつはステージの後ろに吹っ飛んだ。突然の出来事に、一瞬辺りは静かになった。数秒の後、我に返った三人が怒声を上げて君に飛びかかる。君は素早いステップで一歩退いて、端の一人の襟ぐりを掴んで足を引っ掛ける。バランスが崩れたみぞおちに思いっきり膝が入る。そのまま後ろでまごついていた男に投げつけられて二人が転倒。そいつらを踏み台にして大きくジャンプ。最後の一人の顔面に上から右フックが炸裂する。
手紙をくれたのと同じ人間とは思えない。そこになんの理屈も根拠も文脈もない。大の男四人を相手に手向かう姿は、まるで狂犬病に羅患した犬みたいだった。ただのアイドルのライブのために、どうしてそんなに無我夢中で。でも僕はその答えを受け取っていた。もう一年も前から、ずっと。
「ユキさんが、バンさんが、オレが、今日のライブどんだけ待ってたか、わかってんのかよ!」
その咆哮はマイクを通さずともライブハウスによく響く。声なき同調が、会場を揺らした。
君は、ファンは、ライブハウスの外の僕のことを何も知らないって思ってた。でもそれは傲慢だと、その時ようやく気がついた。僕の音楽だけを評価してくれる場所がないのと同じように、僕の歌から僕を思わないファンもいない。返事も出せなかったのに、君は一年間ステージに向かって語りかけてくれて、手紙が来た日に少し温かい気持ちで帰り道を行くのは確かに僕だった。ライブハウスと僕の日常は地続きだったし、ステージとフロアの間を遮る壁は、どこにもない。僕の歌は、君と僕をつないでくれた。
音楽に例えるなら、曇天の月曜、突然掻き鳴らされる駅前のオルタナティヴ・ロック。君が二通目の手紙で僕に伝えようとしてくれたこと、やっとわかった。今ここにある光景のこと、僕は永遠に忘れない。これから先、同じように苦しいことが何度繰り返されても、こんなふうに救われることがあるって信じられたら、きっと、ずっと、やっていけると思うんだ。だからこれから一生、僕は君のファンでいるんだろう。
それからステージの連中はものの数分で制圧されて、出口を塞いでいた奴らは警備員に取り押さえられた。警察が来て、当然ライブは中止になった。
誰よりも長い事情聴取から解放されて僕が楽屋からステージに戻ってきても、ライブハウスは事件の余熱にうかされていた。チケットの返金処理は終わったはずなのに、ファン達は寄り添いあって、最近の音楽の話なんかをしている。なんとなく、まだここから帰りたくないんだろう。それは僕も同じ気持ちだ。
Re:valeのライブはめちゃくちゃだった。アイドルでもない、名前も知らない男の子に誰もが魅了された。君がステージで見せたものをお巡りさんは暴力行為と呼んだけれど、僕達にとってそれは、音楽のために捧げられた希望みたいな何かだった。
フロアを見回すと、皆が遠巻きに見守る空間があって、そこでは万が恐縮しきりの男の子から首尾よく連絡先を聞き出していた。二時間前まで僕達のヒーローだった狂犬は、今では尻尾を丸めてうなだれている犬みたいだった。
本当は、誕生日にライブだなんてあまり好きじゃなかった。万はクリスマスまでちゃんと恋人と付き合っていて欲しかった。生まれてきてくれてありがとうなんて言われても、僕はあなたのために生まれてきたわけじゃないんだし。でも今日は生まれて初めて、この日が誕生日でよかったと思う。差し入れのお願い、ちゃんと聞いてくれたね。サンタクロースにしては少しハードだったけど。
話すのは少し怖いと思ってた。でも、もう我慢できないよ。だって君はステージに飛び込んできた。聞いてみたいこと、たくさんあるんだ。
僕はステージを降りて歩いていく。縮こまった背中の後ろから、手帳に連絡先を書きつけるぎこちない手つきが覗ける。近所に評判のお菓子屋さんがあるという町の名前、見慣れた小さく角ばった文字、それから君の名前。
「ねぇ」
くるっと顔が振り返って、ルビー色の大きな目が瞬いた。
「手紙に書いたこの名前、なんて読むの」
///
Photo by Dayne Topkin on Unsplash
真紅の絨毯
「日本アカデミー賞の新人賞!」
「ノミネートされただけだけどね。他の候補の人もすごいし、取れるかわからないよ」
事務所から帰ってきた百を待っていたのはとびきりのビッグニュースだった。日本アカデミー賞といえば、若手俳優の登竜門。アイドル出身の役者がノミネートされただけでも大事である。しかしながら当の本人はパイプ椅子に腰掛けて、実感沸かないんだよね、とぼやきながらコーヒーを啜っている。
「ユキなら絶対取れるよ。あの映画の千、超格好良かったもん!」
「そう?」
長い睫毛を持ち上げて、上目遣いで千は一つ瞬いた。それだけの仕草で続きの言葉をねだられている。百も心得たものだ。
「そうだよ!スクリーンで見るイケメンの迫力……。俺、結局試写会のあと五回も見に行ったんだからね。お芝居も凄かったし。町が燃えちゃうところの後ろ姿がぐっときた!あと最後の方の、犯人捕まえる所のアクションシーン格好良かったよ。筋トレした甲斐あったよね!あっ、着物もめちゃくちゃ似合ってたし。それから、ええと、火消って感じした!」
「火消って感じ、ってなに?」
百を大いに喋らせて満足したのか、千は口の端を引き上げた。
「モモにそうまで言われたら、取れるかもって気がするね」
* * *
「日本アカデミー賞、新人最優秀賞は『火消捕物帖』、ユキさんです!」
前方の円卓に座る千をスポットライトが差す。雪崩のようなフラッシュ。掌が痛くなってきた頃にようやっと拍手は鳴り止み、すぐさま一段高い壇上へ駆け出そうとして百は足を止めた。既に同じ円卓の大物俳優や有名新聞の芸能記者が千を取り囲んでいる。新人俳優としてのユキにとってこの瞬間は、受賞そのものと同じくらい大きなチャンスだ。台無しにするわけにはいかない。今求められているのは、夫婦漫才が売りのアイドルデュオではないのだから。
「おめでとう、ユキさん。これからの活躍も楽しみにしてますよ」
聞こえてくる記者の声。側に行けない代わりに、オレも!と百は心の中で大きく叫んだ。
「音楽の才能だけでなくて、演技の才能もおありになるんですね」
すごいでしょ。でも才能っていうか、頑張ってたんだよ。眠いの我慢して、夜中まで台本読んでたんだから。先だって主演女優賞を受けた彼女の賞賛に応じた千の声は、百の元までは届かなかった。
壇上に立つ千は宝石箱の中にいるようだった。周りに立っているのはこの世界では誰もが知る有名人ばかりで、その全員が千と話す順番を待っている。次々と浴びせかけられる「おめでとうございます」に「ありがとうございます」と微笑んで。できることなら百も今すぐ駆け寄って、飛びついて、祝いの言葉を掛けたい。きっと千は、その割り込みを許してくれる。振り向いて「ありがとう」と、そう返してくれるだろう。他の人に言うのと、同じ声で。
その感情に気が付いた時、体中を冷水が駆け巡るような思いがした。小さく震える手でワイングラスをテーブルに置いて壇上を見上げていると、メモを片手に歩き回っていた記者が百を見つけて話しかけてきた。
「ユキさん、流石ですね」
「うん、すごいよね。俺も嬉しい」
笑顔が可愛いアイドルの顔を咄嗟に取り繕えなかった百を見て、記者はにやりと笑った。
「大変でしょう、ユキさんの方ばっかり有名になっちゃって」
不仲説を裏付けるコメントでも取れれば儲けものだと思っているのだろう。百はゆるゆると首を振る。
「俺も頑張らなくちゃな、って思っただけ」
不満げに離れていった記者はスクープを逃したかもしれなかった。彼の想像する心情の方が、まだ幾分か真っ当だったのだから。
例えば千が不当に虐げられて傷ついていたなら、百は誰よりも言葉を尽くして慰めてやれる自信があった。世界を敵に回しても、自分ただ一人は千の味方だと、幾重にも言葉を重ねて証明してみせる。今までもそうだったし、これからだってきっとそうだ。
けれどもこの状況はどうだろう。果たして百の言葉は必要だろうか。いつでもそこにある百の賞賛の価値は摩耗して、役に立たないものになってはいないだろうか。どんな風に声をかければ、千は感心してくれるだろう。他の人とは違う、気の利いた言葉を。自分はわかっているからと、特別だからと主張するように。
壇と照明を挟んだだけの、ほんの少しの距離にいる千が突然遠い人に思える。どうやらこれは酷く醜い、ただの自己満足のようだった。足元には、誰かが零したクラッカーの欠片が落ちていた。
* * *
千はすっかり退屈していた。繰り返される賛辞も、千の返事も定型句だ。彼らもこのパーティーに出席した義務として千に声を掛けているに過ぎない。そして名誉ある主役に選ばれた千には、それに応じる義務がある。
百さえいれば、こんな時間も楽しめるのに。こういう場を独壇場とする相方は何故かパーティーの最中から姿が見えない。前を歩くマネージャーを見つけて、千は声をかけた。
「おかりん、モモを見なかった?」
おや、と首を傾げて岡崎は答える。
「そう言われて見れば、いませんね。どこか御挨拶にでも行っているんじゃないですか?」
いつものパーティーならそれも頷けた。このような会場では百は一切千を顧みてくれない。その会の主役に目をつけたら一目散に千を引きずっていって、引き渡したらそれで終いだ。魚のようにすいすいと会場を行く百と、もう一度合流するのは至難の技である。
しかし今日は話が違う。他でもない主役はここにいるのだ。どこへ挨拶に出るにせよ、百が一言の祝いの言葉も述べずによそへ行ってしまうなど、許されることだろうか。そもそも本来ならば、百は受賞の瞬間に千の隣りにいて、一番に祝いの言葉を述べるべきなのに。深紅のビロードがひかれた関係者席には、候補者の他は座らせてもらえなかったのだった。
大勢の関係者が千を取り巻いて一挙一動を見守る中、いつまでも会場を見回す千に痺れを切らしたのか、隣りにいた髭の中年男性が声をかけてくる。映画評論家だと言っていただろうか。
「モモさんも演劇のこと、詳しいんですか?」
「さぁ。普通だと思うけど」
「じゃ、大したこと言えないでしょう。別に今じゃなくても」
芝居に対する知識以前に、百は千の批評家に向いていない。千が何をしようが、基本姿勢は大絶賛なのだから。千も百に批評や助言を求めているわけではない。それでも百の言葉には、千の中で特別な役割があるのだ。
音楽家として、あるいは駆け出しの俳優として、自己顕示欲と呼ばれるものがないとは言えない。音楽も演技も、認められれば嬉しいし、できることなら多くの人に届けばいいと思う。けれどもそういった渇望が時として創作活動の邪魔になることも、千は昔からよく知っていた。例えば急激に多くの人の目に晒されて、雑音の音量が一気に増す時。つまり今だ。誰の声も聞きたくないのに、誰かに届かなければ先に進めない。だからそんな時に、千は百の声だけに耳を傾けることにしている。百が千の作品を全て受け入れるのと同じ様に、千も百がくれる言葉を無条件に信じている。百がただ一言「いいね」と言った瞬間に覚える感情は、高揚よりも安堵に近い。手紙を受け取ったあの時からずっと、千が欲しがっていた承認は多分、百の形をしていた。
百本人にさえ伝えかねるそんな想いを見ず知らずの評論家に説明することは難しすぎたので、千は端的に言う。
「百はいつも、褒めてくれるから」
評論家は鼻で笑った。
「全部褒めてくれるって言うならね、それは何も言っていないのと同じことなんですよ」
全然違う、とすぐさま思った。けれども千はふと、百から与えられる惜しみない賞賛を当然のものとして享受している自分に気がつく。それこそ、百が何も言っていないのと同じように。
たった一つの取り零しもなく、千の作る全てに頷いてくれる百に心から感謝している。けれどもそれを伝えようとすれば、上手くやるための言葉は千の中に何もないのだった。千が伝えれば百は張り切って、原稿でも用意する勢いで千を褒め讃えてくれるのだろう。けれどもそうなってしまったら今度は、千が百の言葉を信じられなくなってしまう。無闇に褒めて欲しいわけではないのだと言うために、千はまた慣れない言葉を繰る羽目になる。言葉はいつでも千を裏切る。
「つまり俺が言いたいのはですね、今のアイドル俳優に必要なのは、イエスマンじゃなくて正しい批判をしてくれる人間だってことなんですよ。例えば……」
百を悪く言う人間の話はまともに聞かないことにしている。壇上からもう一度見回しても会場は広大で、あの人目につくツートーンカラーを見つけることはできなかった。ライブハウスではあの黒髪を、いつだって真っ先に見つけられたのに。
* * *
帰り際になって岡崎が電話を掛けると、百はようやくタクシーの待合所に現れた。
「どこ行ってたの」
不機嫌を隠さない声で千は問う。置いてけぼりを食らった子供の態度そのものだった。
「ごめんね、ちょっとお腹痛くて」
「え、そうなの?大丈夫?」
言われてみると、百は少し顔色が悪いように思えた。具合を悪くした可能性など考えもせずに拗ねていただけの自分が少し恥ずかしくなる。
「うん。もう平気。それよりユキ、受賞おめでとう!」
千は何も言わずに続きを待った。流石はダーリンだとか宇宙一イケメンだとか、百以外の人間が口にするのを見たら鼻白んでしまうような、そういうフレーズを。百も何か言葉を継ごうとして口を開く。けれどもそれは形をなさずに萎んでしまい、不自然な沈黙だけが場を満たした。「それだけ?」思わず口に出そうになった催促を飲み込む。不足だと、不満だと感じているわけではない。けれども今日は、その声をもう少し聞いていたかった。ずっとここにあると示して欲しかった。
「ありがとう」
そう言う他の選択肢を、あいにく千は知らなかった。知らない言語で何かを尋ねられたかのように、百が目尻を下げて笑い、困ったように小首をかしげた。タクシーのヘッドライトが作る長い影が足早に二人を追い越していく。需要と供給が釣り合った完璧な世界は、このように歪んでいくのかもしれなかった。
Photo by Eneko Uruñuela on Unsplash
3年目のメタフィクション
俺の憧れには経済的価値がある。
世の中にはそういう種類の需要があると知ったのは、姉ちゃんがこっそり運営していたバンさんとユキさんのファンサイトからだった。俺と姉ちゃんは一緒にRe:valeのライブにも行く仲だったけど、賢い弟であった俺はそれを覗き見してしまったことを黙っていた。さすがは俺の姉と言うべきか、怒った姉ちゃんは手当たり次第に物を投げてくる。割りと正確に狙いを定めて。でも別に隠さなくたってよかったのに。俺にもそういう気持ちわかるよ。好きなアイドルグループのメンバーが仲良くしていて喜ばないファンなんていない。ましてやデュオなんだから。仲睦まじいイケメン、目の保養だよね。
自分自身にそういうニーズがあると気がついたのも、ネットの掲示板を眺めていた時だった。その頃の俺達は、ようやっと社会人として人並みの給料を貰い始めて、少しずつテレビへの露出も増えてきた。けれども当時の俺は、自分の歌にも踊りにも全然納得できなかった。他のアイドルとの仕事も増えてきて、歌のことも少しはわかるようになって、ユキの才能をようやっと理解したから尚更、自分の劣ったところが目についた。人の視線も気になって、ファンからどう見られているか知ることが上手くなる秘訣かも、なんて言い訳しながら「Re:valeを語るスレ」の文字をクリックした記憶がある。
Re:valeのスレッドはまだアンチが出るほど大きなコミュニティではなくて、ちょっとコアなファンがユキの歌はこれから絶対認められるって表現を変えては何度も頷きあっていた。俺の話は全然出てこないけれど嬉しくなってそのままスクロールを続けてしまう。完全にファン側の立場に入っていた俺の目の前に、いきなりその書き込みは現れた。
「りばれはライブとかのお互いしか見えてないって感じが超萌える!二人だけの世界やばいでしょ……」
その書き込みからスレッドは大盛り上がり。怒涛の共感の声とRe:valeは歌が良いのであってそういうのはちょっとっていう音楽通のお兄さん達の苦情。でも結局モモがいるからユキだって落ち着いて曲を作れているわけで、って女の子達に丸め込まれていた。旧き良きインターネット。
二人だけの世界、か。なんか気恥ずかしいな。グレープフルーツの話してるアーティストとミュージシャンみたいだ。発言主の名無しさんによると、モモちゃんは構って欲しくてしょうがない小さなワンコ、ユキ様はイケメンな飼い主さんなんだそうだ。驚いたけれど、こういう需要の存在は知っていたから、成程俺も立派になったなと思う。
飼い主をトップブリーダーに押し上げたいと思ったら、出来損ないの小型犬には何ができるんだろう。
それを理解した俺は覚悟を決めた。イメージはアイドルの大事な戦略だ。勝手に決める訳にはいかないので、事務所での打ち合わせで何気なく切り出した。掲示板で読んだというのもあんまりなので、そうえいばこの前現場でディレクターから聞いたんだけど、なんて言って。そもそも夫婦漫才って言い始めたのは社長なので、おかりんと社長はノリノリだった。出方がわからないのは相手方だ。
「仲良しネタって、例えばどういうことがしたいの」
気怠げに背凭れに寄りかかって、ユキは尋ねた。
「ほら、前呼ばれた番組でやったみたいな。俺がよくユキの家行っているとか、ごはん作ってもらってるとか、そういうの」
「嫌だ」
姿勢はそのまま、それでもきっぱりとそう言った。
「……ごめん」
喜ばれるのではないかと思っていた。ひどい思い上がりだ。夫婦漫才とか言われて、調子乗ってた。気持ち悪いよな、こんなの。そもそもユキさんは歌を続けたいだけで、アイドルとしての戦略なんか興味はないんだし。俺が足を引っ張っているから中々上手くいかないだけで、ユキさんの歌がちゃんと届けば、皆わかってくれるはずなんだ、本当は。こんなことしなくたって、俺がもっとちゃんとできていたら。
「ネタにするだけなの。ファンに嘘をつくってこと?」
俯く俺にユキが畳み掛ける。
「嘘って言うか、そういうつもりじゃなくて。その、でも、俺達、実際仲良くは、ない?」
なんでこんな小学生みたいなこと言ってるんだろ。恥ずかしい。おかりんと社長が固唾を飲んで話の行き先を見守っている。
「モモがそう思ってるなら、そういうことにしてもいいよ」
あ、これは仕返しだ。その時ようやっと気がついた。この人、たまにそういう子供っぽいことをする。社長が夫婦漫才でいこうって言い出した時ユキに全権移譲したの、根に持ってるんでしょ。
「ちゃんと仲良くしてよ、そうじゃないなら僕は嫌だ」
顔を上げたら、ユキは悪戯っ子みたいに笑った。
アイドルにとって、ライブ中の間奏は息継ぎの時間じゃない。
アップテンポな恋愛ソング。これまでのRe:valeの曲とは一味違うけど、ライブでは盛り上がるのでセットリスト入りは必須の一曲だ。途中で入る長めの間奏はファンの中でも知られるサービスタイム。アリーナを見渡すと「モモ、投げチューして」のうちわが目に入った。こういう色っぽいのはユキの担当なんだけど、最近は俺宛にも増えているので練習している。ちなみに俺のファンサで一番受けがいいのは曲が終わった後のバク転だけど、流石に毎回はできないので応じた日にはネット上が盛り上がる。でも、もっと盛り上がるサービスが何かってことも知っている。
うちわの子へ軽快に投げキッスを送った後、指を唇に当てたまま少し溜め。観客の視線と大型スクリーンへ映すカメラが俺に集まるのを確認してから、ウィンクを一つ。ユキの名前を呼ぶ。振り返ったユキに大袈裟な身振りでキスを投げる。歓声の中、ユキがふっと不敵に笑って、それからこっちに歩いてきた。
「投げて寄越すなんて、つれないじゃない?」
肩を掴まれてしっかり唇にキスされた。これまたスクリーンにアップで抜かれて、俺の視界からも他人事みたいによく見える。怒声なのか悲鳴なのかよくわからない爆音がスタンド席から降りてくる。そこで俺はようやく無作法だと気がついて、慌てて目を閉じた。俺が振ったネタだったのに、不意打ちだ。やられたな。
ラジオの収録が終わって、事務所で時間調整中。携帯が電池切れで暇を持て余した俺は、部屋の隅のパソコンを立ち上げた。慣れたタッチで俺とユキの誕生日を足して二で割ったパスワードを入力して、会員制掲示板にログインする。やはり昨日のライブの話題でスレッドの流れは早かった。ユキ様マジでイケメンパーフェクトダーリン。絶対付き合ってる。モモちゃん照れてて可愛かった。イラストもたくさんアップされているけれど、俺の目ってこんなに大きいかな。チケット取れなかった最悪もう死にたい、と大袈裟なこと言っている子もちらほらと見られる。最近ユキは俺より余程ノリがいいから、多分また見れると思うよ、と心の中で呟く。
これまでのファンにも随分増えた新規参入のファンにも、俺達のパフォーマンスの受けは悪くないように思える。Re:valeは決してこんなことだけを売りにしているわけじゃない。一度歌を聞いてもらえれば、きちんとRe:valeの、ユキさんのよさは評価される。だからこの戦略は今のところ概ね成功と言っていいと思う。でも心配事もないではない。この手の宣伝は、幻想を壊されるのを酷く嫌う。つまり、バンさんが戻ってきた時にどうしたらいいんだろうってこと。
俺の正体がユキさんとバンさんのRe:valeのただのファンだったことは、ネット上では都市伝説みたいな扱いを受けている。勿論、姉ちゃんの友人や当時知り合った人達には知れたことだけれど、ファンの数そのものが増えた今は真実と捉えられていない。俺がユキと組んで活動し始めた当初は、当時を知るファンから脅迫状めいた手紙もしょっちゅう届いたけれど、姉ちゃんから受けた人格否定と暴力に比べたら大したことはなかったので俺はそこまで落ち込まなかった。ユキさんとバンさんのRe:valeを返してとか、お前なんかじゃ相応しくないとかなんとか。じゃあアンタがなんとかしてよ。アンタが30日間ユキのところに通って、セックスでもなんでもしてあげればよかったじゃんか。俺は男だから、自分のちっぽけな人生くらいしか差し出せるものなんてなかったんだよ。
ともあれ、百度参りの末にただのファンだった百はユキに選ばれてRe:valeのモモになった。ありきたりな表現だけれど、夢みたいなお話だ。ファンたるもの、そういう夢を見たことの一度や二度はあるでしょう。でもそれは夢というより妄想で、叶う確率はプロサッカー選手になるよりも、宝くじに当たるよりもずっと低い、というかゼロだ。俺という例外があるだけで。叶うか叶わないかの絶妙な夢だからこそお金を払って人々はそれを見たいと望むわけであって、他人のシンデレラストーリーなんて求められてない。俺とユキは運命の赤い糸で結ばれてなきゃいけないし、それが解けることなんてあっちゃいけない。でもバンさんが帰ってきたら、俺がファンと一緒に見ているこの集団幻覚を、どうやって覚ませばいいんだろう。
それに対する答えは今のところ見つかっていない。多分、こんなことで悩む意味なんかないんだ。あの二人はこんな陳腐なやり方で上にあがらなくたっていい。あがりきれない所まで俺がもっていく。そういう風に、俺がするんだ。
「何見てるの」
事務所の扉を開けて、着替えを終えたユキが入ってきた。
「あ、いやなんでもない」
ノートパソコンを閉じる。隠すわけではないけれど、ユキは多分こういう外からの評判には興味がないだろうから。あと、男二人がまぐわっているイラストを見られるのは流石に気まずい。
「今日打ち合わせ終わったら、ご飯食べにおいでよ。なんでも作ってあげる」
俺は条件反射的に頭の中で計算する。前に遊びに行ったのはちょうど二週間前で大分期間が空いている。
「お酒も飲んでいい?」
「いいよ。この前ディレクターさんにもらったワインがある。何食べたい?」
「たまには魚料理とか」
「あぁ、いいかも。白身魚に合いそうだね」
いつもの事だけれど、ユキは肉も魚も食べない癖にそんなことを言ってくれる。もう二人で暮らしているわけでもないのに、どうしてそこまでしてくれるのか不思議に思うくらいだ。俺はほとんど自炊をしないので、一人暮らしを始めて以来、食事は外食か、そうでなければコンビニ飯だ。多分ユキは、俺がまともな食事をしているかどうか気にしているんだろう。ユキは今でも勝手に俺の腹筋やら腕の肉やら触っては「太ってるね」と嬉しそうに確認する。もう少し言い方ってものがあるでしょう。
「優しいね、ダーリン」
「え?」
しまった、ついさっきの掲示板のノリで。慌てて取り繕おうとする俺に、ユキはふっと目尻を下げた。
「久々の食事なんだし、これくらいして当然だろ。母さん」
「そこはハニーじゃないの?」
いつの間に子供ができたんだ。流石にハニーは恥ずかしいと、ユキも笑っている。
「明日は朝から収録だし、そのまま泊まっていきなよ」
そこまで甘えてもいいのかな。でも仲良しトークするにも元ネタは必要だし、などという言い訳はすぐさま浮かんだ。
「あとモモ、今日は家にいる時、携帯いじるの禁止ね」
「えぇ……さっき充電切れたからメール溜まってるんだけど……」
「ちゃんと仲良くしてくれないなら嫌だって僕言ったよね。ネタにするならプライベートでも僕に構ってくれないと駄目」
ユキは酷い寂しがりやだけれど、友人がいない。これは少ないという意味ではなくて、全くいないという意味。実はデビューした時に、広い芸能界ならユキと気が合う人間もいるのではないかと期待したけれど、そもそも初対面の人と話すのが嫌いらしい。知らない人ばかりの立食パーティーでは、ずっと俺の後ろについてくる。
「ファンの頭の中の僕達の方が仲がいいみたいで、ちょっと面白くないじゃない」
「そういうもんじゃないの?ネタなんだし、ちょっと話盛るくらいにさ」
ユキは不満げに眉をひそめた。
「少し隠すくらいがちょうどいいよ。モモはすぐ全部喋っちゃうから」
余裕を持って小出しにするのが本物っぽく見せるコツってことだろうか。さすがにお芝居やっている人は言うことが違うな。
翌朝、午前から仕事が入っているユキをなんとか叩き起こして送り出し、その足で向かった訪れた馴染みの喫茶店は相変わらず空いていた。ラックから雑誌を二冊抜き取って、奥の席に陣取る。仕事を受けた雑誌は全て事務所に届いているけれど、中身のチェックはここで行うのが昔からの習慣だった。一冊目はアイドルを特集する雑誌の中ではかなり大手で、デビュー二周年記念ということで巻頭インタビューと表紙をもらった。俺達のことを知らない人も読むのだから悪印象をもたれてはいけない、なんて日和っていたらトップはとれない。前々からの打ち合わせ通りに、ラブラブ度三割増しでトークしておいた。ラブラブって単語何回使うのって、ユキは変なツボに入ったらしくずっとお腹を抱えていた。できればこういう仕事ではダーリンらしく格好良くいて欲しいんだけど。俺だってこれでも可愛い奥さんらしく見えるように振る舞っているわけだから。でもこの表紙はとてもそれらしく撮れている。目も大きく見える。矯めつ眇めつ眺めた上で、俺は一人頷いた。よく見ると特集が始まるページの耳が折れている。こうやって全く知らない人の手でページに線がひかれていたりコーヒーの染みが付いていたりするのを眺めていると、俺達のやっていることが誰かに届いているんだって、ようやっと実感する。それがわざわざここに来て雑誌を確認する理由の一つだ。もう一つは、事務所の検閲を掻い潜って届くのはあくまで俺達の味方の記事だけだからだ。
特集を読み終えた雑誌を脇にのけて冷めたカフェオレを口に含んでから、キープしていたもう一冊を開く。こちらは俺達がインタビューを受けたわけではなく、ただのよくある週刊誌だ。見出しは「あの人気デュオの真相に迫る!不仲で解散寸前!?」とある。記事をざっと流し読みする。二周年を迎えたRe:valeだが実はユキとモモの仲は最悪。現場では頻繁に怒鳴り合い、一言も口を利かずに共演者に気を揉ませることも多々。しかし仕事中は近年の流行にのったホモ営業。若い女性に大人気。くぐもった唸り声が耳で反響して、それに驚いて慌てて口を開け息を吸い込んだ。狂った犬はしまっておかないと。
仲良くしていれば同性愛者呼ばわり、それらしく振る舞ってみたら今度は不仲説。もう俺にどうしろっていうんだ。でもこういう反発は予想できた。芸能界ではよくあることだ。斜に構えた現代は、甘い設定を素直に受け取れないようになっている。純真な子は陰ではビッチで、明るい子は陰では傲慢。本当はこうなんでしょうって、裏を探りたくてしょうがない。パッケージ化したのはそっちの癖に、あまりに綺麗に包まれすぎると耐えられなくなってしまう。それだけ俺達が上手く売り出せているってことだろうけれど。
後悔なんかしていない。だってファンに望まれている。俺はその期待に応えなくてはならない。そうすることがユキのためになる。本当は二人だけの世界なんて、もうどこにもなかった。俺達の距離はあの六畳一間で暮らしていたときよりもずっと遠くなった。そもそもあの家だって、俺が騙すみたいに引っ越した。ユキはたまにあの頃を懐かしむ。俺はしない。あの頃より今の方がずっと上にいる。ユキの役に立っている。
本当の所、どうなんだろう。俺のユキへの気持ちはなんなんだろう。憧れ?尊敬?それともファンの皆が言うみたいに、俺はユキに恋してんの?ユキが、それからユキさんの歌が大好きで、もう一度聞きたくて、もっと皆に聞いてもらいたくて、それだけで、シンプルだったはずなのに。そのためだけに人生全部を賭けたはずなのに、何が正しいのかよくわからなくなる。ページを引きちぎって、丸めて潰すと、安い紙で作られた週刊誌は簡単に圧縮された。一度割ってから接着剤で殻をくっつけた卵みたいだ。しまったな、衝動的にやってしまったけれど後で買って返さないといけない。
なんだかしばらく意識が霞んでいて、気が付くと時計の短針は右半分に突入していた。慌ててマスターに雑誌を破ってしまったお詫びだけ先にして、タクシーを拾ってテレビ収録の現場に向かう。楽屋では既にユキが待っていた。
「どうしたの、モモ。顔色悪いんじゃない」
車に酔ったか知らないけれど、実際酷く気分が悪かった。頭も回らなくて、パイプ椅子に腰掛けるとその勢いで思ったことがそのまま口から滑り出てしまう。
「ねぇ、ユキにとって俺って何?」
友人でもない。恋人でもない。ましてや夫婦なんかじゃないでしょ。名前をつけてよ、俺達の関係に。
「パートナーだろ。どうしたの、急に」
本当に顔色悪いよって言いながら、ユキが俺の頬に指先を寄せた。とても冷たい。仕事上のパートナーにこんなことするの?バンさんにも?しないよな。バンさんはユキの友達だもん。
「今はカメラ回ってないから、ファンサしなくたっていいんだよ」
俺の身体は酷く熱い。恋慕うユキさんに触れられてどきどきしている女の子みたいだな、と思うと笑える。
「モモ!」
高熱を出すと本当に視界が歪むんだな。パイプ椅子が床に激突する音が、ドラマのワンシーンみたいに控室に響いた。
アーコロジーの祭日
目が覚めた瞬間に、今日がその日だと理解する。
まるで長い瞬きをしていたみたいに、自然と目が開く。そこでは見慣れた天井がイルミネーションで彩ったように輝いていた。少し気の早いクリスマスみたいな光景に僕は目を細める。その日はいつもこんな風に始まる。鳴り止まない電話でもなく、連打されるインターホンでもなく。寝る前にタイマーをかけた空調が、静かに動き出す音がした。
その日はいつもそうするように、僕は今しがた見ていたかもしれない夢を思い出せないだろうかと、羽毛布団の中で考えてみる。例えば君と出会った時の夢だとか、あるいは君を弔う夢だとか。そういう風に筋道を立てて説明できる事柄によって今日が生まれてきたなら、僕にもできることがある。君と会える日の前日には、なるべく君の夢を見られるように努力してみるよ。
でもその試みはいつものように失敗に終わる。僕は今朝方の夢なんて見ていたかどうかも定かではなかったし、その日はいつだって何の前触れもなく訪れる。スマートフォンに手を伸ばして、時間を確認する。5時42分。マネージャーが電話回線を圧迫するまでは、まだ2時間と30分もあった。君からのチャットは届いていない。昨日は飲み会で遅かったようだから、多分まだ寝ているだろう。
伸びをして起き上がりブラインドを開ける。空はまだ青黒く、低いところには明けの明星が輝いていた。冬の冷たく透き通った空気が二重のガラス越しにも伝わってくる。ベランダには鳩が佇んでいた。首をすくめて、羽毛を逆立てている。去年一緒に仕事をしたモモは元気だろうかと、ふと思う。動物と芝居をするにはコミュニケーションが大切だと教わって、彼は数週間この家に暮らしていたのだった。朝は一緒に家を出て、僕が別の仕事をしている間は事務所で可愛がられて、夜は家に連れて帰ってきた。マジックの仕事をするくらいだから、もともと物怖じしない子だったのだろう。モモは僕によく懐いて、手から餌を食べてくれたし、呼べば側に飛んで来てくれるようになった。家に自分以外の生き物がいる生活は想像以上に楽しかったけれど、残念ながら今の自分の暮らしではペットなんて飼えない。君には「そもそもユキが動物なんか飼えるわけないじゃん」って言われたな。好きな相手には、結構甲斐甲斐しい方だと思うけど。モモとお別れした次の日の夜、餌をやる相手がいなくなって時間を持て余していた僕の家のチャイムが鳴った。植木鉢を抱えた君が、「植物から始めよう!」と言うので、僕の寝室には小振りなパキラが同居することになった。
窓際で微睡むパキラの枯れた葉をむしってやって、ゴミ箱に捨てようと立ち上がったその瞬間。
「あっ」
フレーズが降りてきた。その音が僕から出ていかないように、しゃがみこんで、耳を塞いで目を閉じる。主張はそこまで強くない。多分サビではないだろう。頭の中で反芻してから、口に乗せる。ちゃんと捕まえた。刻まれる三拍子がその後の転調を予感させ、優しく、けれども力強く支えるような、そんなメロディーラインだ。スタジオにボイスレコーダーを取りに行って吹き込んでから、パキラの葉を握ったままだったことにようやく気が付いた。僕は今日がその日だということを君に伝えたことは一度もない。それでも君はその日に作ったフレーズを、曲のどこに隠れていようが必ず見つけ出す。君は何も言わないけれど、目がいっそうきらきらと輝くからわかる。多分そんな風に気がついてほしいから、僕は死ぬまでその日のこと、君には教えないままなんだろう。それに、言ってしまったら二度とその日は僕には訪れないような気がする。
パンとコーヒーで簡単な朝食を終えて、電話が鳴る十分前には、出かける準備は完璧だった。僕達のマネージャーが今朝の様を見たら驚くだろうな。
サブマネージャーの運転する車の中では、壮五君と環君のラジオがかかっていた。
「今日は音楽ファンにとっては特別な日なんだ、環君、ジョン・レノンを聞いたことは?」
「おぉ、知ってる。いまじーん、ざ、ぴーぽーの人だろ」
「うん。『イマジン』を始め、数多くのヒット曲を世に送り出したジョン・レノン。三十七年前の今日、アパートの前で男に撃たれて、命を落としました。享年、40歳」
「ジョン、かわいそーだな。まだ唄いたい歌、いっぱいあっただろうな」
「そうだね。毎年この日には彼の死を悼んで世界各地でライブが行われるんだ。僕達もそれにならって、今日は彼の曲から。それでは聞いてください、ビートルズで『ストロベリィ・フィールズ・フォエヴァー』」
車内に夢見るようなメロトロンが流れ出す。朝一番になかなか攻めたチョイスだな。「チャンネル変えますか?」と尋ねるマネージャーに首を振る。いつもだったら間違いなく車内で寝てしまうナンバーだけれど、今日は大丈夫だ。
僕はふと思い立って、鞄からスマートフォンを取り出し電卓を立ち上げる。日本人男性の平均寿命は、だいたい80歳。80から26をひいて、54。乗算を押して、続けて365、×、24、×、60、×、60、=。1702944000。君と一緒にいられる可能性だ。
少ないな。計算するたびにそう思う。その値は今も目の前で一秒ごとに数を減らし続けていた。十年、二十年、五十年一緒だと言われたらずっと続く気がするのに、本当の時間はこれっぽっちしかない。きっと僕達人間は単位を変換することで、ごまかし続けているんだ。こんな値を目の前に出されたら、きっと正気ではいられないから。
満足した僕はスマートフォンをしまう。僕も死ぬなら、君より先に死にたい。
局に着いても世界はまだぴかぴかと輝き続けていて、僕には少し目が痛い。でも諦めた。今日はきっと一日中こんな感じだ。
「ユキ!」
廊下を歩いていると後ろから聞き慣れた声がして、振り返って目を見張る。今日は完全に別々のスケジュールだったので、顔は見られないと思っていたのだ。
「同じ局だから会えるかなって思って、うろついてた!」
そうやって軽々と、僕ができないと思い込んでいたことを君が覆していく。君が笑うと視界はまたいっそう眩しさを増して、もう太陽を直視しているみたいだ。朝から元気だな。鳩のモモより元気。
「どうしたの?何かいいことあった?」
君にはわかりっこないから、僕は笑う。
「秘密」
「えっ。な、なに、浮気!?」
「そんな訳ないだろ」
「わかんないじゃん!ねぇなに?バンさんとごはん?」
「違うよ」
的外れすぎてまた笑う。君が隣にいるだけで嬉しい。
「今晩、暇?」
「えーっ、今日は三月とごはん……」
「そうなの?」
落ち込んだりしない。突然のお誘いで君の貴重な時間を独占できるなんて思ってない。わかっていたけれど、僕はさも残念そうな顔をしてみせる。僕の安い芝居を間に受けて、君は途方に暮れている。
「そういうの、もっと早く言ってよ、そしたらちゃんと空けとくのにさぁ」
そうできればいいな。でもそれは難しい。僕だって朝が来て目を開けるまで、その日が来るかどうかはわからない。でもそんなこと必要なければいいのにな。いつだって一等席を予約しておきたい。
「待って待って、今予定見るから。うーん、えーとねぇ、来週の、火曜……駄目だ、金曜の夜……」
「いいよ」
僕の予定なんて確認するまでもない。来週の金曜の夜だなんて、途方もない未来に思える。でもそれはたった864000秒後のことだ。多分、金曜日はその日でないだろう。多忙な僕達のスケジュールといたずらに訪れるその日の最小公倍数を探していた。ひょっとしたらそんな日が訪れるのは僕の寿命よりも先のことかもしれない。仕方のないことだ。でもそれでもいいんだ。
「やっぱり機嫌いいね。なに?教えてよ」
「なんでもないよ」
なんでもないよ。君を大事にしたいって思う日くらい、僕には当たり前で、だからなんでもない日なんだ。
いつの日か年老いて眠るように訪れる80歳も、鉛の弾で撃ち抜かれて緊急搬送される40歳も、辿り着くものは同じだ。40歳のモモが突然撃ち殺されたって、努力もしていない僕は文句も言えない。
それでも僕にとっては、その日は訪れるだけですばらしい一日なんだ。こんな僕でも、誰かを大事にしたいと思える。だから僕は僕のことを少しだけ好きでいられる。その日はそういう、幸せな日だ。
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