亜鉛、あるいは菜食主義者の一人暮らし

空腹だと感じている内は、腹が減った内には入らないのだ。放っておくとその内にキリキリと痛みだして、最後に何も感じなくなる。それでようやく空腹だ。一日一食と半分しか食べられなかった暮らしで学んだ。
そういう訳で、百は腹が減っている気がしなかった。時刻は夜の九時。昼食を食べたのが午前九時なので、丸十二時間何も食べていないことになる。何か食べた方がいいのはわかっているが、一刻も早く眠りたかった。明日も家を出るのは早い。
早朝五時から放送されるニュース番組に、コーナーのゲストとして週二で出ることになった。夜の十一時には寝て、朝は二時に起きる。電車は動いていない。岡崎を起こすのも申し訳なくて、百は自分で車を運転することにしている。そこから六時の番組に出て、あとはもうどうしようもない。普通の人々と同じようにスケジュールが始まる。
千と別々の暮らしを始めて一ヶ月。百の生活はめちゃくちゃだった。
今にも瞼が落ちそうだが、胃に何かいれないと眠りも浅くなる。渋々「非常食」と書かれた段ボールを漁ると、カップラーメンを発見した。季節限定のミルク味に湯を注ぐ。千には渋い顔をされるが、百はコンビニ食が結構好きだ。行く度に新しい商品が出ているので話のネタになる。
立ち上る湯気を顎にあてながら緩慢な動作でラビチャを返していく。途中で一瞬意識が途切れて、気がついた時には五分以上が経っていた。その後で段ボールの中から割り箸を探すのに、また五分を要した。
口に入れた麺は、なんだか妙に水っぽかった。もともと料理などできないが、ついに決められた線まで湯を注ぐことすらできなくなってしまったか。しばらく噛み続けていて、水っぽいというより全く味がしないのだと気が付いた。風邪だろうか。しかし体調は悪くない。まるで舌が切り取られてしまったように、味覚だけが消えている。スープまで腹に収めてから百はスマホを開き、「味 しない」と粗雑な検索ワードを打ち込んだ。一番上に表示された広告だらけのページに目をやる。
味覚障害の原因は亜鉛不足! ページの一番上ではゴシック体がそう主張していた。なんだか地味な病気があるものだなと百は思う。鉄分が足りなくなと貧血になることくらいは百も知っていた。高校で付き合っていた彼女がいつも顔を真っ白にしていたので。しかし亜鉛とは。理科の授業で名前を暗記した記憶しかない。
ページをスクロールしていく。普通に暮らしているならば十分足りるはずの亜鉛が、食生活が乱れると不足してしまうことが原因らしい。清涼飲料水を毎日三本以上飲む人は要注意! という文字を見つけて思わず笑ってしまう。オレじゃん。ページの末尾にどぎついマゼンタが「でも忙しくて栄養バランスに気を使えないアナタにはこれ!」と栄養ドリンクの存在を謳っていたので、百はそこでタブを閉じた。
貧血でなくてよかったな、と思う。百が何も言わなければ誰にもばれることなどないだろうから。次の飲み会ではもう少し気をつけて意欲的にカキフライを食べるようにしよう。

そこからは怒涛の飲み会だった。早すぎる忘年会のシーズンが始まってしまったから仕方ない。ただでさえ多忙だった百のスケジュールは尚更しっちゃかめっちゃかになった。もう流石に呼ばれれば何処へでも顔を出すような仕事の仕方はしていないが、宴の席となれば話は違う。今のやり取りはなくても将来の仕事のために顔を売りたい相手はいくらでもいる。信用は築くよりも、維持する方がずっと難しいのだ。スタジオからロケ先、チェーンの居酒屋から高級フランス料理店まであちらこちらに駆け回った。一日五食食べた翌日は一日一食しか食べられなかった。そうしている間に胃の隙間にアルコールを流し込む。カキフライは食べ損なった。
連続七日の飲み会を終えた夜、ようやっと忘年会ラッシュは一段落した。久しぶりに全うな時間に静かな晩御飯が食べられるらしい。
誰を誘おうかな、とアドレス帳を開きながら百は考える。一人で食べるという選択肢はなかった。会合がなくとも、この時期に声を掛けておきたい業界人などいくらでもいるのだ。このプロデューサーとは一昨日話したから大丈夫、この新人さんは多分来週の打ち上げで会うことになる。さっき覗いたバラエティの打ち上げに混ぜてもらうのはどうだろうか……。チャットの窓を切り替えながら廊下の角を曲がると、そこには思わぬ人物が立っていた。白銅色の長い髪に黒のコート。百がついこの前プレゼントしたばかりのカシミアのマフラーを巻いている。見間違えるはずもない。千の方も百に気が付いてゆるゆると手を振る。
「ユキだ! どうしたの? 今日ここで収録じゃないでしょ」
「スケジュール変更になったんだ。来週の撮影、先にしてきた」
「教えてくれたら遊びに行ったのに……」
「モモはモモの仕事で忙しいだろ」
そこで百は少し違和感を覚えた。千はいつでも楽屋に百を呼びつけたがるというのに。
「今日は誰と食べに行くの」
「え……」
何故だか百は試されているような気がした。千に、ではない。何かへの正しさを求められている気がした。
「イケメンな相方と……?」
「へぇ、そうなんだ。いいね」
そう言うと千は勝手に背を向けて歩きだしてしまう。慌てて百はその後を追いかけた。

家に着いた千が冷凍庫から取り出した分厚い牛肉を見て、百は目を丸くした。
「ス、ステーキ……!」
「下拵えする時間ないから、焼くだけ。いい?」
「うん! すごい!」
牛肉が流水で解凍される間に千は手早くサラダを作り上げた。冷蔵庫から豆腐やらトマトやら百の名前の知らない葉っぱやらが次々と出てきて、刻まれて、スプーンとフォークの化け物みたいな匙でぐりぐりとかき混ぜられた。野菜は少しばかりしなびているような気もしたが、もしもそうであるなら百は千の家の冷蔵庫の片付けに貢献できることを嬉しく思う。
「あ」
最後に軽く炒ったナッツとごまがボウルに加わったので、思わず百は声を上げた。亜鉛が豊富な食べ物だと、この前読んだばかりである。
「なに」
「いや、なんでも……」
マネージャーにさえもバレていないのだから、千は勿論何も知らないはずだ。野菜ばかり食べる人だから、偶然栄養価の高い食事になっただけだろう。
千はサラダをよけて、氷水に手を突っ込んで肉の塊を引き上げた。さっきから野菜を洗ったりなんだりと忙しなく冬の水道水に触れていた指の先は赤く染まっていて、百にはそれが痛ましかった。千はお構いなしに、半分解けた肉に塩やら胡椒やら刺激的な匂いのする粉やらを振り掛けて、筋を切ってからフライパンに放り込む。油の弾けるいい音と共に、にんにくの匂いが立ち上った。
「すぐできるよ。座ってて」
「うん! いい匂い! おいしそう!」
そうは言っても、今の百にどの程度味がわかるか怪しいところだが。サラダを食べればたちまち舌はいつも通りに、とはいかないものだろうか。そういう果物があった気がする。
「そう。よかった。料理するの久しぶりだから」
「え、なんで? 外で食べてるの?」
千が外食だなんて珍しい。近所に気に入った店でもみつけたのだろうか。それなら百にも教えておいて欲しかった。
「なんでだろうね。食欲ないんだ。朝と夜はあんまり食べてない」
百は顔を青くした。重症だ。何か腹に入れている分、百の方が余程マシかもしれない。言われてみると、千はここ最近ぼうっとしているし、肌の艶も欠けている気がする。現金な話である。この瞬間までそれに気が付けなかった己を百は恥じた。
けれども千は一人でも暮らしていけるはずだった。たった一ヶ月前までは、千は毎日のように食事を作ってくれていた。互いに一人暮らしを始めるにあたって、事務所から「非常食」と書かれたレトルト食品が詰まった段ボールを配給されたのは百一人だった。
だからそんな様を晒すのはやめて欲しい。百は勘違いしてしまう。役に立てたのではないかと。まだ隣にいた方が、よかったのではないかと。
「買い出しに行くのも大変だし、一人で作り置き食べてても途中で飽きるし……」
それを聞いた百は千のパソコンの前にすっ飛んでいって、スーパーの通販サイトに登録してやった。この前のドラマで共演した娘をもつ女優に教えてもらったのだ。
食事の用意を終わらせて、百の後ろから画面を眺めながら千が言った。
「ごめんね」
千が謝ることなんて何もない。それでも百が泣きそうな顔でマウスを動かしているから、千は謝っているのだろう。そんなことはしなくていいから、きちんと食事をとって欲しかった。
「こういうのがあるんだ。便利だね」
「これでもう買えるようになったから、ちゃんとご飯食べてね」
「……モモもね」
そしてようやく二人は食卓についた。味がしないと予想していたサラダは、口に入れるとなんだか妙に酸っぱくて吐きそうだった。味覚障害が起こると味の感じ方が変化することもあるらしい。無理やり飲み込んで百は笑った。
「めちゃくちゃおいしいよ! 世界一!」
その時にようやっと、百は己の食生活を反省した。


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小鳥遊紡の消失

社長「君にはIDOLiSH7の担当から降りてもらう、」
社長「というのが今回の事務所の再編計画案だよ。」
社長「君には今後、候補生達の教育を任せたいと思ってるんだ。」
社長「もちろんこの仕事を任せるのは君だけじゃない。というより、君には候補生養成チームのリーダーになって欲しいんだ。」
社長「IDOLiSH7を軌道に乗せた君の手腕を、ぜひ活かしてくれないかな。」
小鳥遊事務所の社長たる父からのメッセージを、紡は身動きもせず見つめていた。窓の外は既に日が落ちている。はっ、と画面を確認すると、メッセージを開封した時刻は一時間も前のものだった。
社長がそんな提案をした理由には紡にも心当たりがあった。
メンバーを失ったIDOLiSH7をどうしていくのか、結局紡には答えを出すことができなかった。ナギが無事ノースメイアから戻ってきたからよかったものの、本来はノースメイアに旅立つ前に、ブラックオアホワイト後の計画を紡から提出するべきだった。ナギの脱退が決まってからでは遅いのだ。IDOLiSH7のためを思うからこそ、最悪の事態を想定する。それができなかった自分はマネージャー失格だったのかもしれない。
けれどもどうしても考えられなかった。今の形でないIDOLiSH7を。ずっと見守ってきたからこそ。
距離を置くべきなのかもしれない。少なくとも父はそれが最善だと考えている。小鳥遊紡がIDOLiSH7のために最善の選択をすることが仕事であるのと同様に、小鳥遊音晴は小鳥遊事務所に所属するアイドルと事務員のために最善を尽くす選択をすることが仕事なのだから。
小鳥遊紡「少し時間をください。」
紡にはそう返すのが精一杯だった。

*    *    *

あまりよく眠れなかったが、翌日には事務所での作業の他にも、午後にMEZZO”を都内のスタジオに送り届ける仕事が入っていた。最近はMEZZO”の仕事はほとんど万理が担当していたので、二人の送迎は随分久しぶりだ。
小鳥遊紡「環さん、予定通り壮五さんと一緒に15時頃学校に着く予定です。大丈夫そうですか?」
環さん「おう。」
環さん「任せろ。」
環さん「補習にもならなかった。」
小鳥遊紡「良かったです!一織さんにもお礼を言ってくださいね。」
環さん「おー。」
環さん「久々にマネージャーと話せてうれしいぜ。」
小鳥遊紡「?」
小鳥遊紡「MEZZO”のお仕事は万理さんにお任せしてますけど、IDOLiSH7のお仕事でいつもお話ししてますよ?」
環さん「んーそうだけど」
環さん「昔はもっとラビチャしてくれたじゃん。」
環さん「曲が出た時とか、新しい仕事入った時とかさ。」
環さん「あと寮にごはん持ってきてくれたり。」
環さん「俺、結構楽しみにしてたけど、最近は」
環さん「あ」
環さん「待った」
環さん「やっぱ今のなし」
環さん「(落ち込む王様プリンのスタンプ)」
環さん「(回転する王様プリンのスタンプ)」
環さん「(燃える王様プリンのスタンプ)」
環さん「ワガママよくないよな。」
環さん「マネージャーも忙しいもんな。」
小鳥遊紡「環さん…。」
環さん「今日喋れるから別にいい。」
環さん「オレが助手席乗るから!」
環さん「そーちゃんにもそう言っといて。」
小鳥遊紡「わかりました!」
小鳥遊紡「(笑うきなこのスタンプ)」
一瞬、社長から何か聞いているのではないかと思ってしまった。環はいつも鋭い。
デビュー当初に比べ、メンバーとのラビチャが減ったのは事実だ。差し入れどころか、近頃は残業続きで、家で自炊さえできていない。ずっとこのままでは、いられないのだろう。紡も、IDOLiSH7のメンバーも。
環を迎えに行く前に王様プリンを買っていこう。落ち込みかける心を無理矢理奮わせてワゴンの鍵を握り、紡は立ち上がった。

*    *    *

MEZZO”を送り届けて事務所に戻るともう退勤の時刻だった。もう少し仕事を片付けてから帰ろうと思い、デスクに座る。スマートフォンを確認すると、運転中に大和からラビチャが届いていた。
大和さん「マネージャーいる?明日の現場ってマネージャーが担当?」
小鳥遊紡「今事務所に戻りました!」
大和さん「おー。遅くまでお疲れ。」
大和さん「そろそろ帰んな。」
小鳥遊紡「今やってる仕事が終わったら帰ります!」
小鳥遊紡「明日の件ですよね。すみません、私は同行できそうになくて…。事務所の者にお願いしてます!」
大和さん「えー。」
大和さん「お兄さんは寂しいですよ。」
小鳥遊紡「そう言われましても><撮影は八乙女さんとご一緒ですよ!」
大和さん「そう言われてもなー。」
大和さん「女の子がいないとなー。」
小鳥遊紡「大和さんはずっと変わりませんね…。」
大和さん「どした?」
大和さん「なんかあったのか?」
小鳥遊紡「あの。」
メンバーには結局まだ何も言えないでいる。一番に相談するべきは、きっと大和なのだろう。
小鳥遊紡「これは他の方にはまだお話していないんですが」
小鳥遊紡「社長から、異動の提案をされているんです。」
返信にはしばし間が空いた。
大和さん「あー。」
大和さん「タマとかリクが寂しがるだろうな。」
小鳥遊紡「はい…。」
小鳥遊紡「大和さんはどうですか?」
大和さん「マネージャーのそういうとこ。」
小鳥遊紡「?」
大和さん「俺はどう?って聞いてくんの、いつも。」
大和さん「嫌じゃなかったけどな。」
小鳥遊紡「でも、昔それで大和さんに怒られたことありますよ。」
大和さん「そうだっけ(笑)」
大和さん「俺は、なんていうか」
大和さん「お兄さんは大人だからさ。」
大和さん「仕事ってそういうもんだよな。」
大和さん「マネージャーのためなんだろ?」
小鳥遊紡「一応、キャリアアップになるとは言われてます。」
大和さん「そっか。」
大和さん「あのさ」
大和さん「俺が家の打ち明け話した時、」
大和さん「なんでここにマネージャーがいねぇんだろうなって、思ったよ。」
大和さん「Re:valeとかいるのにさ(笑)」
小鳥遊紡「その件は、本当にすみません…。」
大和さん「あ、いやすまん。マネージャーを責めてるんじゃないんだ。」
大和さん「なんていうか」
大和さん「俺達遠くまで来たよな。」
小鳥遊紡「はい…。」
大和さん「俺、マネージャーのことちょっと好きだったよ」
大和さん「あー」
大和さん「待って。」
大和さん「違う。」
大和さん「イチとかソウだってそうじゃん。」
大和さん「いや」
大和さん「よくないな、こういう言い方は。」
大和さん「俺は好きだったよ。それだけ。」
小鳥遊紡「たまに皆さんが、私を普通の女の子みたいに扱ってくれるの、嬉しかったです。」
小鳥遊紡「でもそれじゃやっぱりダメなんだろうなって思うんです。」
大和さん「八乙女のことか。リクから聞いた。」
小鳥遊紡「はい…。」
大和さん「そうだな…。難しいよな。」
大和さん「あ、でもマネージャーが俺達のマネージャーじゃなくなったらフリーじゃん。お兄さんと付き合っちゃう?」
小鳥遊紡「(怒った王様プリンのスタンプ)」
大和さん「(笑うきなこのスタンプ)」
大和がわざと冗談を言ってくれたのがわかっていた。今年の初夏、大和と三月が大喧嘩をした頃はちょうど事務所の再編が終わりかけで、紡は所内の業務に忙殺されていた。いつも行うIDOLiSH7のマネージャー業まで人に任せていた程だ。
全ての事の顛末は後から聞かされた。その夜、紡は少しだけ泣いた。不甲斐なかったのだ。IDOLiSH7が始まった頃からずっと気にかけていた大和の苦悩に、最後まで寄り添えなかった自分が。
大和は本当に紡のことが好きだったのだろうか。紡にはよくわからない。
けれども全て、もう、終わったことなのだ。

*    *    *

その週の土曜日。
特段平日と変わらない仕事をこなし、昼過ぎに岡崎、姉鷺とのグループチャットを立ち上げた。来月始めにTRIGGERと共にゲスト出演が決まっているNEXT Re:valeの最終調整だ。
個別にメールで連絡するのも手間だからと言って、姉鷺が立ち上げたこのグループチャットは、紡にとっても楽しみにしている仕事の一つだった。
岡崎さん「――今回の打ち合わせはこんなところですかね。来年もこの時期に宜しくって、プロデューサーが仰ってましたよ。」
姉鷺さん「気が早いわねぇ。その頃にはこっちがあんた達をゲストに呼んでやるわよ。」
紡はその言葉で思わず固まってしまう。社長にはまだ返事ができていない。この二人になら、相談に乗ってもらうのもいいかもしれない。
小鳥遊紡「お二人共、もう少しお時間宜しいですか?」
姉鷺さん「思ったより早く終わったから大丈夫よ。」
岡崎さん「どうかされましたか?」
小鳥遊紡「実は」
小鳥遊紡「来年は、IDOLiSH7の担当を外れることになるかもしれません。。。」
岡崎さん「えっ、そうなんですか!」
岡崎さん「内勤になるとお会いする機会も減っちゃいますね…。」
岡崎さん「でもまたお話させてくださいね!」
姉鷺さん「ちょっとあんた、気が利かないわね。」
姉鷺さん「まだ悩んでるから、アタシ達に相談したいんでしょ?」
小鳥遊紡「はい…。こういうことは、初めてなので…。」
岡崎さん「あ、すみません。自分早とちりを。」
岡崎さん「手を離したくない、って仰ってましたもんね。」
小鳥遊紡「でも、わかってもいるんです。IDOLiSH7は前よりずっと大きくなって、ずっとこのまま私一人じゃ、ダメだって。」
岡崎さん「そうですね。でも、マネージャーが変わってから事務所内外の扱いが変わって、上手くいくようになったアイドルも、人気が下がってしまったアイドルも、たくさんいますから。」
岡崎さん「タイミングには気を使わないと。」
小鳥遊紡「そうなんですか。。。」
岡崎さん「でも、いつかはお別れが来るかもしれないって思うと、それだけで寂しいですよね。お気持ちわかりますよ。」
小鳥遊紡「はい…。」
小鳥遊紡「姉鷺さんは、担当するアイドルが替わったことはありますか?」
姉鷺さん「当たり前でしょ。アタシこの業界、結構長いのよ」
姉鷺さん「TRIGGERの前も別のグループのマネージャーだったんだから。」
岡崎さん「お別れする時、どんな気分でした?」
姉鷺さん「別にあんた達が思うほど悲惨じゃないと思うわよ。」
姉鷺さん「死に別れる訳じゃないんだから。事務所で会うこともあるし、活躍しているところはテレビでも見れるしね。」
小鳥遊紡「そうですか…。」
姉鷺さん「でも最近は、そうね。」
姉鷺さん「八乙女事務所からフリーになって、TRIGGERとの距離は今までのグループと少し違う気はするわ。」
岡崎さん「今のTRIGGERが姉鷺さんの手を離れたら、やっぱり落ち込むんじゃないですか?」
姉鷺さん「そうかもしれないわ。でもね、マネージャーがいくら悲しんでも、TRIGGERは変わらない。」
姉鷺さん「そういうアイドルでいて欲しいのよ。あの子達はそれができるわ。」
岡崎さん「それは確かに、僕も同じですね。」
岡崎さん「3人目のRe:valeだなんて、あの二人は言ってくれますけどね。そんなはずないですよ。あくまで僕達はアイドルを支えるのが役割ですから」
液晶の前で紡は俯いた。紡とて、自分が8人目のIDOLiSH7だなんて傲慢はとても口にできない。メンバー達は自分を特別だと言ってくれるだろうけれど、それではいけないのだ。マネージャーとしての自分の代わりなど、世界に何百万人といるはずだ。
それでもきっと、姉鷺の言う通り、何も残らない訳ではない。自分が初めてのIDOLiSH7のファンだった事実だけは変わらない。
窓の外を見下ろすと、休日を楽しむカップルや家族連れで溢れていた。IDOLiSH7に出会わなかった自分がこの街角のどこかを歩いているような気がして、紡はしばらくその人通りを眺めていた。*    *    *打ち合わせを終えてからもパソコン作業に没頭していると、ラビチャの通知音が鳴った。メンバーからのラビチャにはすぐに反応できるように専用のコール音を設定しているのだ。時計を見るとすっかり夜である。今日はまたコンビニで夜ご飯を買うしかないようだ。
一織さん「マネージャー、今宜しいですか?」
小鳥遊紡「はい!」
一織さん「NEXT Re:valeの収録が近付いていますので、改めて前回の放送の反響をまとめておきました。データをお送りします。」
小鳥遊紡「ありがとうございます!」
小鳥遊紡「一織さんにはいろいろお願いしてしまい、すみません。。。」
以前は一織と二人三脚で行っていたプロデュース業だが、紡の仕事が増えるに連れて最近は何かと一織に頼ってしまうことが増えた。SNS上のリサーチとて、紡が上手く他の事務員に任せられればそれで済むはずの話なのだ。
けれども三月がファンの反応で落ち込んだことを思い出すと、このような繊細な仕事はどうしても上手く人に頼めない。その点、一織なら安心して任せられる。
一織さん「構いませんよ。プロデュース業はやはり私の性に合っていると思います。」
小鳥遊紡「そう言っていただけると、ありがたいです…。」
一織さん「そういえばその件で、あなたには先に報告しようと思っていたのですが」
一織さん「マネージャー?」
一織さん「起きてます?」
小鳥遊紡「すみません!」
小鳥遊紡「ぼーっとしてました。」
一織さん「あなたらしくないですね。」
一織さん「実は、大学に進学しようかと思っているんです。」
小鳥遊紡「そうなんですか!」
紡は胸を撫で下ろした。一織も環とは違った鋭さがある。何か見抜かれているのではないかと思ったのだ。
しかし、どのような選択をするにせよ、いつかは大和以外のメンバーにも話さなければいけないことだ。その時どんな風に切り出しせば、メンバーを一番傷つけないで済むのだろう。紡にはまだそれが描けなかった。
一織さん「大学の資料をお送りしておきます。」
小鳥遊紡「はい!でも、基本的にはお任せします。」
小鳥遊紡「お仕事との両立という問題はありますが、一織さんなら大丈夫だと思います。」
小鳥遊紡「(はしゃぐきなこのスタンプ)」
一織さん「そうですね。芸能活動にも理解がある大学ですよ。」
一織さん「あなたも一緒にどうですか。」
小鳥遊紡「私ですか!?」
小鳥遊紡「考えたこともなかったです。。。」
一織さん「高校を卒業してからすぐに事務所に入られたんでしたよね。」
小鳥遊紡「はい。その時は事務所も余裕がなかったので。。。」
一織さん「逢坂さんも同じようなことを言っていましたね。家を出た時には大学に入れるなんて想像していなかった、と。」
一織さん「でもあなたも逢坂さんも、まだ若いんですから。」
小鳥遊紡「そうですね…。」
小鳥遊紡「考えてみます。」
小鳥遊紡「(落ち込む王様プリンのスタンプ)」
一織さん「なんで落ち込んでいるんですか、あなたは。」
小鳥遊紡「一織さんがいてくだされば、IDOLiSH7は大丈夫ですよね。」
一織さん「もちろんですよ。」
一織さん「どうかしましたか?」
紡がマネージャーを降りることで、陸や環は落ち込むかもしれない。けれども、一織がメンバーにいてくれれば、IDOLiSH7は指針を失わない。きっと変わらずにいられるだろう。
小鳥遊紡「一織さんにお聞きしたいことがあるんです。」
一織さん「なんでしょう?」
小鳥遊紡「IDOLiSH7がブラックオアホワイトで総合優勝をするまであと何年かかると思いますか?」
一織さん「唐突ですね…。」
一織さん「2年です。」
一織さん「あと2年下さい。」
小鳥遊紡「2年後、IDOLiSH7は4周年ですね。」
一織さん「はい。」
一織さん「Re:valeはアイドル界のトップをとるのに5年かかりました。ですが今、世間はアイドルブームで、私達には追い風が吹いています。IDOLiSH7がトップを取るためにそれ以上の時間は必要ありません。」
一織さん「2年でRe:valeもTRIGGERも追い越します。私が七瀬さんを、IDOLiSH7を、トップアイドルにしてみせますよ。」
小鳥遊紡「わかりました。」
小鳥遊紡「私、一織さんのこと信じてます。」

*    *    *

凝り固まった肩を解して、デスクに備え付けられた棚を見上げる。棚には七色のファイルがずらりと並んでいた。仕事に関係するラビチャはバックアップとして紙に印刷し、このファイルに綴じることにしているのだ。表紙にはその仕事の写真を一枚選んで貼ってある。
これを作るのも、業務中の紡のちょっとした息抜きだった。けれどもこのファイルも重要な社内資料として、プライベートな部分は伏せた上で後任に引き継ぐことになるのだろう。
社長へ連絡するために、ウィンドウを立ち上げた。文字を打つ指先から自分が消えていくような錯覚を覚える。ネイルは淡いピンク。IDOLiSH7のマネージャーになった時から、色の濃い服やメイクは身につけないようにしている。IDOLiSH7が、他のどんな輝きにも負けないように。ちょっとした願掛けだ。
小鳥遊紡「社長、お返事遅くなりました。先日伺いましたIDOLiSH7の担当の件でご連絡です。」


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目覚め

エテルノ王、崩御。
その報せを聞いた時、観測者はいよいよこの世界に最期を告げることを決めた。五年に渡る戦争は、観測者にそう思わせるのには十分だった。戦争というよりそれは、一方的侵略と呼んだ方が正しかっただろう。エテルノは砂より他に誇るものもない哀れな星だったのだ。近年鉱石の輸出で急速に国力をつけたアルバになど、敵うはずもない。戦が長引いたのは単純に、人が歩くにはあまりに強力なエテルノの日差しがアルバの行軍を昼の間だけ遮ったからに過ぎなかった。皮肉なことに、アルバは星の誕生以来悲願であった陽の光にこそ、行く手を阻まれたことになる。
そもそもこの戦の始まりとて狂言じみていた。いくら戦争でエテルノに勝ったところで、エテルノの大地が神話のような力をもって崩れでもしない限りアルバの土地が陽の光を浴びることなどないのである。そんなことは小さな子供でもわかる。それでもこの国がなんの資源もない砂漠の国へ突き進んだのは、アルバの内政と経済事情と王の精神的疾患が複雑に絡み合った結果であった。そこに武器輸出大国であるラーマ、傭兵産業が急速な発展を遂げるベスティアの思惑が拍車をかけた。病んでいるのはアルバとエテルノだけではない。内戦に疲弊した鋼鉄の国、享楽に耽る水の都、差別が蔓延る杜の町、閉塞感に包まれた信仰の地。どの星も等しく疲弊し、どの星も等しく救いの手を求めて観測者に声を上げていた。
そうであるから観測者は自らが生まれた巨大な宮殿でただ、願った。この世界に平穏が訪れるように、と。願いを受けて六つの星はゆっくりと軌道を変えた。それらはやがて一つになり、人々を乗せたまま燃え尽きる。
観測者が最後にエテルノを訪れようと考えたのは、そこにあるはずの星玉の欠片を回収し、保護するためだった。この世界の終焉は十数年の内にやってくる。それでも、エテルノの欠片が砂に埋もれたままというのは都合が悪かった。願いを叶える力は喪われたとはいえ、あの真紅の欠片はエテルノの命そのものだ。エテルノだけが先に滅び、その結果起きる大きな混乱の中で世界が終わることを観測者は善しとしなかった。数度羽を打ち下ろし、大屋根が開いた宮殿からそのまま暁の空へ。砂漠の星に向けて白い竜は飛び立った。

欠片の気配を追って辿り着いたのは、エテルノの王都からはほど遠い地方都市の市場だった。市場というのは戦争が起きる以前はそうだったという意味で、今では貧しい難民がより貧しい難民を相手に食料を毟り取る場でしかない。それでも路地には厚手の布で作られた、簡素な天幕が並んでいた。朝方この市は現れ、暑すぎる昼を避けて再び日が沈んだ頃に市が設けられるのである。老婆がどこぞの家から盗まれたのであろう煤けたホブズを布の上に並べている。その隣には血の跡の残るボロ布に包まれて、乳飲み子が眠っていた。エテルノ人らしい縮れた黒髪。肌はこの国の人間にしては随分白く、そこに目を引く紅斑が散っていた。この国の人々は日夜強い日差しに晒されるので、普通は外に出たからといってこのような斑はつかないものである。しかし苛烈な戦は民の誰一人として家の内に引き籠もることを許さなかった。貴族も病人も、今や焼けるような日差しの下に放り出され、このような紅斑を拵えているのである。幼子がそのうちのどちらなのかは観測者にはわからなかったが、目を留めたのはその奇妙に膨らんだ胸元である。観測者はそこに確かに星玉の欠片が発する鼓動を感じ取れた。
「買うのかね、買わんのかね。値切りなら聞かないよ」
老婆が口にした値は戦争が始まる前からすると三倍程の値だった。嗄れ声で目覚めた幼子が、大きな目をゆっくりと開く。瞳は欠片と同じ、血を流したような真紅であった。老婆が顔を隠すようにボロ布を引き上げ、幼子は首を竦めて少し鳴いた。
「一つ頂きましょう」
老婆が銭を求めて差し出す手には目もくれず、観測者は欠片に手を伸ばす。すると幼子は、自分に手が伸ばされたと思ったのか、自らもその手を観測者に伸ばしてきた。そして少しむくんだ手で、観測者の細い人差し指を握った。
人に直に触れられたことなどその長い生涯でほとんどなかった観測者が覚えたのは、生理的な恐怖だった。思わず指を引き抜いたその瞬間、幼子は割れんばかりの大声で泣き出した。市を歩く人間が数人、幼子の方を振り返る。しかしそれだけだった。誰もが飢えたこの場所では、こんな声はあまりにありふれており、怒鳴るのも馬鹿馬鹿しいほどだったのだ。
そうであるから、幼子が命の限り張り上げたその声は光の束のように真っ直ぐに、観測者を徹底的に、粉々に、滅茶苦茶に打ち砕いた。観測者の身体を構成する組織の一つ一つが震え、破れ、体液が流れた。ここでもう一度観測者の手を握れないならばこのまま息絶えてしまう、そういった動物が見せるような切実さが言葉を持たない幼子の声にはあった。救ってやらなければならない。半ば暴力のようにそう思わされる。実際、胸元の宝石に目を付けただけであろう老婆がきちんと赤子を養うとは到底思えず、あのまま置いておいたならば遅かれ早かれ幼子は死んでしまうところだった――というのは後々冷静になった観測者が言い訳がましく考えたことではあったのだが。
元来、星巡りの観測者はそのような行動原理は持ち合わせていないはずだった。観測者は世界の行く末を決めるしか能のない創造物だ。その遂行に不要な本能など、備わっているはずもない。しかし何を思ったか星玉の護り人は、観測者の形をこの世界の動物に似せて作ってしまったのだ。形は機能を決めるものである。それは観測者の創造主たる護り人にも覆しようのない理であった。鉱石や鉄鋼に奴した身ならば、こんな目には合わなかっただろうに。
そういうものだと思い知る。人の形をした生き物はすべからく、この声に敵わないのだと。
今や観測者には、取れる道など一つしかなかった。ただ泣き喚く幼子を引っ掴んで、来た道をもう一度走り出した。市場に瞬間活気が満ちる。「人攫いだ!」と声がする。反論さえできない。抱きかかえられた幼子はぐずぐずと鼻を鳴らし、短い指で観測者の前襟をひしと掴んだ。観測者は酷く惨めだった。創られて初めて、この世界の人と獣に同情した。こんなにも稚拙な心に支配されて過ごす生涯は、なんと苦しいものだろう、と。
予感がしていた。この事実をもってして、いつか大きな過ちが起こりそうな予感が。そしてその時に最も不幸になるのは、今胸に抱くこの赤子であるだろうということも。


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荒野の作曲家

「それでは今週のモモチャンチャンネルはここまで。お相手はRe:valeのモモと!」
「アイドリッシュセブン、逢坂壮五でした」
「また来週、ばいばい!」
数秒の無音。「OKです、お疲れ様でした」という声でモモはヘッドホンを外した。スタジオとつながるマイクからディレクターが言う。
「逢坂さん、ありがとうございました。来週分チェックしますんで、モモさんはそのままそこで待っていてもらえますか?」
「了解でーす。壮五、ありがとね。トークすごくよかったよ」
「こちらこそありがとうございます。僕も楽しかったです」
向かいに座る壮五もヘッドホンを外し、ペットボトルのお茶を一気に飲み干した。三十分ほとんど喋り通しだ、喉も渇くだろう。
モモがパーソナリティを務めるこのラジオ番組は、隔週でゲストを呼ぶ構成になっている。アイドリッシュセブンを招くのは三月に続いて二人目だ。MEZZO”のラジオについているリスナーを意識して、今週は音楽紹介を中心に据えた構成にした。いつもとは少し毛色が違うが、モモは手応えを感じていた。
「僕も少し待たせていただいてもいいですか? 事務所から迎えが来てくださるみたいなので……」
「どうぞどうぞ! ここにお座りになってくつろいで。お飲み物はももりんでよろしいですか?」
「えっ、いえ、飲み物は……。あっ、いや、もう座ってます!」
数秒遅れて冗談をそれと理解した壮五が、背筋をぴしりと伸ばして答える。力みすぎだ。モモは苦笑する。パーソナリティーとの掛け合いよりも、ゲスト本人のトークを意識して番組を回したのは正解だったようだ。
「壮五もラジオは随分慣れたんじゃない? MEZZO”の番組、オレもユキも聞いてるよ」
そう言うと、壮五は猫のような目を丸くした。
「ユキさんが、ですか!?」
「モモちゃんのことはどうでもいいかぁ……」
「あっ、そんな。違います、決してそういう訳では」
「冗談、今のも冗談だよ、壮五!」
そうは言うものの、ユキが同業者の番組を欠かさずチェックするなど実際珍しい。配信が始まればその日の夜には聞いているのだ。ファンと言っても過言ではない。モモの番組の次のゲストが壮五であることを岡崎が告げた時も、ユキは随分羨ましがっていた。
「壮五の音楽トーク、マニアックで面白いんだってさ。暴走してる時の環のツッコミもいい味出してるって」
「ぼ、暴走……。でもユキさんにそう言っていただけるなんて嬉しいです、本当に。環君にも伝えておきますね」
感極まる、といった様子で壮五は言った。モデルにバラエティにと最近は引っ張りだこのMEZZO”だが、やはり音楽に直接関わるあのラジオ番組は壮五にとっても思い入れのある仕事なのだろう。スタジオの外と接続するマイクのスイッチが切れていることを確認して、モモは尋ねた。
「作曲の方はどう? 上手くいってる?」
壮五が作曲を始めるようになったきっかけを、モモは詳しく知らない。アイドリッシュセブンとの収録後に、ユキが明日の天気でも聞くような気軽さで「そういえば壮五君の作曲は順調なの?」と尋ねたので、何も知らなかったモモは随分驚いた。驚いた顔をしたのは壮五を除いたアイドリッシュセブンのメンバーも同じで、どうやら彼らの中では、これはちょっとした秘密のつもりだったようだ。
壮五が曲を作るだなんて驚いた、と帰りの車の中で漏らすとユキは首を傾げた。「似合っているじゃない」と。確かに壮五が音楽好きなのはよく知っている。ギターを演奏するところも番組で見たことがある。けれども作曲となるとまた訳が違うだろう。一から曲を作るのと、既に存在している曲を聞いたり歌ったりするのは全く別のことだ。そう捲し立てたがユキにはよくわかっていないようで「モモが構えすぎなんじゃないの」と言われてしまう始末だった。
「作曲と言っても、すぐにできるものでもないので……。まだ練習しているだけなんです。知ってる曲をコピーしたり、コード進行を勉強したり」
ほら見たことか。モモはここにいないユキに心の中で抗議した。ユキは自分ができるから、そんな風に簡単に捉えるのだ。けれども壮五は続けてこう言った。
「でも楽しいです、すごく」
何を思い出したのか、壮五はくすりと笑う。
「最初は僕の部屋で一人で練習していたんです。でも、環君がそれに気がついて練習の度に部屋に聞きに来て。そうしていたら他のメンバーも僕の部屋に集まってきたんです。部屋は狭いし、僕は緊張するしで困っちゃって……。だからリビングでヘッドホンをつけて練習しようかと思ったんです。多少音が漏れても、一階はナギ君が防音工事をしてくれましたし。でも弾いてると、大和さんが僕のイヤホンジャック抜いてくるんですよね。それで諦めて、今はリビングで普通に弾いてます」
楽しげに話す壮五につられて、モモも頬を緩めた。家族みたいだ。この後輩グループの日常に思いを馳せる時、モモはよくそう思う。これがバラエティのトークなら間違いなく採用するのだが。けれどもあの家の面々はそれを許さないだろう。壮五はきっと今、一番温かい場所で、一番優しい人達に守られて、少しずつ、彼の中の一番大切なものを育てている最中なのだ。
「……ちょっと羨ましいな」
思わず口から本音が溢れる。
「モモさんは作曲されないんですか? ギター、弾かれますよね」
「まぁ、ちょっとだけね。でも作曲なんてダメだよ。壮五とか、ユキとか……。生まれた時から音楽に囲まれて、ずっと音楽のこと考えてさ、そういう人の特権なんだよ。オレ、物作るセンスとか全然ないもん。小学校の作文で、先生に『素直に書きすぎだ』って怒られたことあるからね!」
笑い話にして取り繕おうとしたものの、壮五は顔を曇らせた。
「僕だってそんな……国語で褒められたことはないですけど……。モモさんのことも、センスがないだなんて思ったことはないですよ」
失敗したな、とモモは思う。三月とは違って、壮五は自虐的冗談など処理できない。ゲストにこんな顔をさせてはMC失格である。モモが何か言う前に、助け舟はスタジオの外から入った。
「逢坂君、お迎え来たみたいだよ」
「あ、はい」
壮五は立ち上がり、少し迷ってからこう言った。
「Friends Dayの収録の時に、ユキさんが言ってました。途絶えない情熱こそが才能だって。僕はそれで、やってみようって思えたんです」
そう言った壮五の目は子供のように輝いていた。アイドリッシュセブンにはまたユキ派が増えたようだ。Re:valeとの付き合いではよくあることである。ユキは最初こそ誤解されがちだが、話せば話すほどに魅力がわかる。観察眼のある後輩達で何よりである。
「おこがましいことを言ってすみません。今日はありがとうございました」
「こちらこそ! また来てね」
壮五が頭を下げてスタジオから出ていく。迎えに来たのは、さっき名前を飲み込んだまさにその人だった。モモに手を振るので、にっこり笑ってガラス越しに手を振り返した。ちょうどディレクターから声がかかったので、モモは正面を向き直してヘッドホンを握る。仕事再開だ。
途絶えない情熱こそが才能だと言うのなら、やはり自分には音楽の才能はないのだ。作曲をしてみたい訳ではない。好きなものと正面から向き合える情熱が羨ましくて、もう戻れないその時間が懐かしいだけだ。こんなことは決して口には出せないけれど、音楽と体育とどちらが好きかと問われれば、モモの答えはきっと小学生だった頃と変わらない。
ただユキの音楽を愛している。それだけだ。モモには最初からそれしかない。

*    *    *

収録を終えたモモは、そのまま相方の家に車を向けた。今日はユキの家からスタジオに出掛けたので、荷物が置いたままなのだ。家主は午後から、オフという名の作曲業である。様子を見て、しばらくしたら自宅に帰るつもりだ。
リビングではユキがノートに向かって作業中だった。
「あ、おかえり。モモ」
「ただいま。調子どう?」
「悪くない」
「お、本年度のボーナス」
「ふふ、そうね」
締切まではまだ余裕があるし、頭の中にイメージはあるから大丈夫だとユキは言う。基本的に作曲期間は悲観的なユキがそう言うのだから、きっとそうなのだろう。ユキがほとんど苦しまずに曲を生み出すのは一年に一度あるかないかの珍事で、二人はそれを「ボーナスが来た」と呼んでいる。
新曲はスポーツ飲料とのタイアップが決まっている。岡崎はCMの出演までRe:valeが取ってこれなかったのを悔しがっていたけれど、それを報告されたユキはあからさまに安堵していて、隣りにいたモモは少し笑ってしまった。スポーツ飲料のCMでは、ユキはマネージャー役にでもなるしかなさそうだ。
「話の続き、スタジオでもいい? 今いい感じなんだ」
「作業するならオレもう帰ろうか」
「だめ」
「じゃあここで待ってるよ」
「だめだって言ってるだろ。メロディが上手くいったら、そのまま歌詞も書くから」
そう言われてしまってはモモには断れない。名目上、歌詞は二人で書くことになっている。けれどもユキが一人で作るなら、本当はその方がいいのだ。TO MY DEARESTの歌詞を書きながら爆笑された傷はモモの中でまだ癒えていない。小学二年生の国語2は伊達ではないのだ。
「どうしたの、入りなよ」
スタジオの入り口でまごつくモモにユキが言う。マッキントッシュのデスクトップとギターが数本。キーボード。窓はない。一面に据え付けられた本棚にはびっしりとCDや譜面が並んでいる。このスタジオが、ユキの家の中では最も物の密度が高い空間かもしれない。修羅場に追い込まれたユキが部屋を行き来しなくても済むように、音楽に関わる物は全てここに収納されているのだ。だからこのスタジオには、モモの私物は一つもない。
ユキの心臓を握らされているみたいだ。この部屋に入るとモモはいつもそう思う。あるいはここが心臓の内側なのだろうか。部屋の脇に寄せてあったスツールを広げて、そっと腰掛ける。
「喋ってていいの? じゃまじゃない?」
「モモが話してるの聞きながらやった方が捗りそうだから。壮五君との収録どうだった?」
「楽しかったよ! 壮五の音楽トークが炸裂した。オレのとこのリスナーはちょっと置いてけぼりかも。でもそういうのも、たまにはいいと思うんだよね。自分の知らない世界が案外近くにあるっていうか」
「それは聞くのが楽しみだ」
ユキはケースから最近買ったエレキギターを取り出して、アンプにつないだ。本当に話を聞きながら作業をするつもりらしかった。
「……オレがさぁ、曲作れるようになったら嬉しい?」
「どうしたの、急に」
「収録終わった後、壮五とそういう話になったから」
「あぁ、なるほど」
ギターの弦を張ったり緩めたりした後、ユキは言う。
「どっちでもいいよ、別に」
肩透かしを食らった。椅子から飛び上がって大喜び、などとは想像していなかったし、仮定の話を真に受けられても困るけれど。それでももう少し、喜んでもらえるものかと思っていた。
「もっと批評してくれる人の方がいいって言ってなかったっけ」
「言ってないし、モモが作曲するようになっても、結局一人で作ることには変わりないから」
「オレが作曲手伝えるようになったら一人じゃないじゃん」
「隣に並んでいるだけだ。最初と最後は、いつも一人なんだよ。誰が一緒にいても、それは同じだ」
ユキはやけにきっぱりと言い切って、どうして、とモモは思う。モモの知っているRe:valeはそうではなかった。二人で同じ譜面を覗き込んで、二人で何度も話し合って、そうやって曲を作っていた。けれども結局モモは、あのRe:valeのファンでしかなかったのだ。他でもないRe:valeだったその人が、一人だったのだと言う。悲しみとも苦しみとも違う、澄んだ諦観を横顔に湛えて。今も変わらずにそこにあるので、モモは何も言えなくなってしまう。
「モモだって昔、曲作ってたじゃない。野菜を食べてイケメンになる歌とか、毎日歌ってたでしょ」
「何の話!?」
ギターで数フレーズ聞かされて、モモはようやく声を上げた。
「うわ、懐かしい」
かつて徒歩二十分の場所にあった格安スーパーの精肉売り場で聞いたその歌詞は、あの手の曲に特有のナンセンスさと中毒性があった。まだ髪の短かったユキがカゴを下げながら「肉を食べても元気にならない人もいるけどね」と呟いたから、モモが即興で歌詞を替えて歌ったのだ。それを聞いたユキが吹き出した。一時スーパーへ行く度にそれを歌っていたのは、モモがそれ以外の手段を何も持たなかったからだ。
「トマト、じゃがいも、プチトマト……だっけ。なんでトマト二回出てくるんだろう、って思ってた」
「よく覚えてたね、そんなの……」
普段こういったことを覚えているのはモモの役割のはずだ。ユキがふふん、と得意げに笑う。
「モモが僕のために作ってくれた曲だからね」
「あんなの曲なんてもんじゃないでしょ」
「そう?」
Re:valeの音楽を替え歌などと一緒にしないで欲しい。
「あ、待って。今のいいかも」
そう言うが早いか、ユキはギターを抱え直して短いメロディを弾いた。言われてみれば先程の曲と似ているが、モモにしてみればそれはほとんど別物だった。弾むようなリズムだけが似ている。何かを待ちわびている、そういうフレーズ。ユキはそれから手元を止めてちょっと考えて、似たフレーズを付け足してもう一度繰り返した後、サビと思しきパートを続けた。鳴り響くホイッスル。疾走感。モモはそれでわかった。試合が始まったのだ。それを少し離れた場所から見ている。荒唐無稽なトマトとじゃがいもとプチトマトの歌は、ユキの手でタイアップの名に相応しい一曲へと生まれ変わった。
「……すごいなぁ」
「うん?」
「本当にすごいなって。なんでそんなこと一瞬でできちゃうんだろ、かっこいいな」
ユキが音楽を作る過程を、モモが眺めることはあまりない。ユキの音楽は完成形になってモモの前に現れる。だからきっと、慣れない出来事に酷く興奮してしまったのだ。それで馬鹿みたいに喋り続けた。
「だってさ、さっきまでただのスーパーでよく聞くみたいな曲だったのに、ユキが弾くとちゃんと意味ができるでしょ。それってすごくない? 音だから、言葉みたいにはっきり伝わらないじゃん。それでもなんか、皆が同じものをイメージできる。同じものっていうか、違うのかな。それぞれが自分の中にある記憶を思い出す、みたいな。自分自身が忘れてるようなことも。なんでそんなことできるの?」
難しいことは何もわからない。どこがどう他の曲と違うのか。それは音楽史上どんな意味をもっていて、何が新しいことなのか。
息切れしてしまって、ぶつ切りのように言葉を終える。
「……ユキの音楽が、ほんとに好き」
結局モモに言えることはそれしかない。捲し立てている内にユキの顔は段々と伏せられていって、ついには見えなくなってしまった。
「……お前って……本当に……」
そこまで言ってユキは口元を覆う。呆れているのかもしれなかった。拙い言葉がもどかしい。
壮五が羨ましかった。マイクに向かって生き生きと語っていた数時間前の姿が脳裏をよぎる。音楽がわかれば、もっと上手く伝えることできただろうか。もっとユキと話せるようになっていただろうか。
防音されたスタジオを沈黙が満たす。やはりリビングに戻っていたほうがいいかもしれない。モモがそう考えだした頃、突然ユキの足がリズムを刻む。たん、たん、たんたん、つたたん。そしてギターが鳴り出した。
Re:valeの片割れとしてのモモは、すぐさま隣に置いてあるレコーダーのスイッチを入れるべきだった。それくらいしかモモにできる仕事などないのだから。けれども聞き惚れてしまった。目の前で音楽が紡がれていく様に。サビが始まって、体が揺れる。曲に合わせて笑って、手を叩きたくなるような。
あぁ、きっと誰もがこの曲が好きになる。日本中のテレビから流れて、田舎の高校で、都会の街角で、この曲を口ずさむに決まっている。大勢の人に愛されるために生まれてきたのだ。その誕生の瞬間をモモは今目にしている。
こんな贅沢を他に知らない。
「……どう?」
音楽が止んでも、モモはしばらく黙っていた。言葉にならない。ユキの問いかけに答えようとした声がかすれていて、初めて喉が乾ききっていることに気がついた。
「……頑張ってる誰かの一番大事な試合を、隣にいる人が応援する歌」
「うん、そうね」
イメージ通りだったようで、俯き気味のまま満足気にユキは微笑んだ。本当はこんな風に感想を言うことも、怖くなる時がある。まだこの世界に生まれてきたばかりの、赤子のように柔らかくて不安定なそれに形を与えてしまって、歪めてしまうのが怖い。実際、モモの感想を聞いてユキが曲に手を入れてしまうこともある。そんな時は少しだけ、何も言わなければよかったと思ってしまうこともある。
それでもモモは、もうただのファンだった頃には戻れない。世界で一番早くRe:valeのユキの音楽に出会うのは、Re:valeのモモの義務であり、権利だ。出会ったら好きになってしまうし、好きになったら口に出したくなってしまう。こんな人が目の前にいて、何も言わない方がどうかしている。今までどれだけ救われてきたかということ。出会えてどれほど嬉しいかということ。どれだけ、この音楽を愛しているかということ。
けれどもモモが口を開くと、ユキは「待って」と、それを遮った。
「もう少し直すから、そうしたら聞かせて。今日の僕はもうキャパオーバーだから」
「そうなの?」
こんな僅かな時間であんな音楽を生み出して、そうでない方がおかしいのかもしれないが。ユキはようやく顔を上げて言った。
「……うん、別にいい。モモが音楽を作っても、作らなくても、どっちでもいいよ。やってみたいなら応援するけど。それでもし完成したら、一番に聞かせて」
「一曲作るのに一生かかりそう」
口にしたそばから、モモはその言葉を後悔した。一生かかっても、Re:valeに相応しい曲なんて作れそうもない。けれどもユキは気にした様子もなく言った。
「別にいいよ」
そしてギターがほろりと鳴った。
「一生待ってる」

アーコロジーの祭日

目が覚めた瞬間に、今日がその日だと理解する。
まるで長い瞬きをしていたみたいに、自然と目が開く。そこでは見慣れた天井がイルミネーションで彩ったように輝いていた。少し気の早いクリスマスみたいな光景に僕は目を細める。その日はいつもこんな風に始まる。鳴り止まない電話でもなく、連打されるインターホンでもなく。寝る前にタイマーをかけた空調が、静かに動き出す音がした。
その日はいつもそうするように、僕は今しがた見ていたかもしれない夢を思い出せないだろうかと、羽毛布団の中で考えてみる。例えば君と出会った時の夢だとか、あるいは君を弔う夢だとか。そういう風に筋道を立てて説明できる事柄によって今日が生まれてきたなら、僕にもできることがある。君と会える日の前日には、なるべく君の夢を見られるように努力してみるよ。
でもその試みはいつものように失敗に終わる。僕は今朝方の夢なんて見ていたかどうかも定かではなかったし、その日はいつだって何の前触れもなく訪れる。スマートフォンに手を伸ばして、時間を確認する。5時42分。マネージャーが電話回線を圧迫するまでは、まだ2時間と30分もあった。君からのチャットは届いていない。昨日は飲み会で遅かったようだから、多分まだ寝ているだろう。
伸びをして起き上がりブラインドを開ける。空はまだ青黒く、低いところには明けの明星が輝いていた。冬の冷たく透き通った空気が二重のガラス越しにも伝わってくる。ベランダには鳩が佇んでいた。首をすくめて、羽毛を逆立てている。去年一緒に仕事をしたモモは元気だろうかと、ふと思う。動物と芝居をするにはコミュニケーションが大切だと教わって、彼は数週間この家に暮らしていたのだった。朝は一緒に家を出て、僕が別の仕事をしている間は事務所で可愛がられて、夜は家に連れて帰ってきた。マジックの仕事をするくらいだから、もともと物怖じしない子だったのだろう。モモは僕によく懐いて、手から餌を食べてくれたし、呼べば側に飛んで来てくれるようになった。家に自分以外の生き物がいる生活は想像以上に楽しかったけれど、残念ながら今の自分の暮らしではペットなんて飼えない。君には「そもそもユキが動物なんか飼えるわけないじゃん」って言われたな。好きな相手には、結構甲斐甲斐しい方だと思うけど。モモとお別れした次の日の夜、餌をやる相手がいなくなって時間を持て余していた僕の家のチャイムが鳴った。植木鉢を抱えた君が、「植物から始めよう!」と言うので、僕の寝室には小振りなパキラが同居することになった。
窓際で微睡むパキラの枯れた葉をむしってやって、ゴミ箱に捨てようと立ち上がったその瞬間。
「あっ」
フレーズが降りてきた。その音が僕から出ていかないように、しゃがみこんで、耳を塞いで目を閉じる。主張はそこまで強くない。多分サビではないだろう。頭の中で反芻してから、口に乗せる。ちゃんと捕まえた。刻まれる三拍子がその後の転調を予感させ、優しく、けれども力強く支えるような、そんなメロディーラインだ。スタジオにボイスレコーダーを取りに行って吹き込んでから、パキラの葉を握ったままだったことにようやく気が付いた。僕は今日がその日だということを君に伝えたことは一度もない。それでも君はその日に作ったフレーズを、曲のどこに隠れていようが必ず見つけ出す。君は何も言わないけれど、目がいっそうきらきらと輝くからわかる。多分そんな風に気がついてほしいから、僕は死ぬまでその日のこと、君には教えないままなんだろう。それに、言ってしまったら二度とその日は僕には訪れないような気がする。
パンとコーヒーで簡単な朝食を終えて、電話が鳴る十分前には、出かける準備は完璧だった。僕達のマネージャーが今朝の様を見たら驚くだろうな。

サブマネージャーの運転する車の中では、壮五君と環君のラジオがかかっていた。
「今日は音楽ファンにとっては特別な日なんだ、環君、ジョン・レノンを聞いたことは?」
「おぉ、知ってる。いまじーん、ざ、ぴーぽーの人だろ」
「うん。『イマジン』を始め、数多くのヒット曲を世に送り出したジョン・レノン。三十七年前の今日、アパートの前で男に撃たれて、命を落としました。享年、40歳」
「ジョン、かわいそーだな。まだ唄いたい歌、いっぱいあっただろうな」
「そうだね。毎年この日には彼の死を悼んで世界各地でライブが行われるんだ。僕達もそれにならって、今日は彼の曲から。それでは聞いてください、ビートルズで『ストロベリィ・フィールズ・フォエヴァー』」
車内に夢見るようなメロトロンが流れ出す。朝一番になかなか攻めたチョイスだな。「チャンネル変えますか?」と尋ねるマネージャーに首を振る。いつもだったら間違いなく車内で寝てしまうナンバーだけれど、今日は大丈夫だ。
僕はふと思い立って、鞄からスマートフォンを取り出し電卓を立ち上げる。日本人男性の平均寿命は、だいたい80歳。80から26をひいて、54。乗算を押して、続けて365、×、24、×、60、×、60、=。1702944000。君と一緒にいられる可能性だ。
少ないな。計算するたびにそう思う。その値は今も目の前で一秒ごとに数を減らし続けていた。十年、二十年、五十年一緒だと言われたらずっと続く気がするのに、本当の時間はこれっぽっちしかない。きっと僕達人間は単位を変換することで、ごまかし続けているんだ。こんな値を目の前に出されたら、きっと正気ではいられないから。
満足した僕はスマートフォンをしまう。僕も死ぬなら、君より先に死にたい。

局に着いても世界はまだぴかぴかと輝き続けていて、僕には少し目が痛い。でも諦めた。今日はきっと一日中こんな感じだ。
「ユキ!」
廊下を歩いていると後ろから聞き慣れた声がして、振り返って目を見張る。今日は完全に別々のスケジュールだったので、顔は見られないと思っていたのだ。
「同じ局だから会えるかなって思って、うろついてた!」
そうやって軽々と、僕ができないと思い込んでいたことを君が覆していく。君が笑うと視界はまたいっそう眩しさを増して、もう太陽を直視しているみたいだ。朝から元気だな。鳩のモモより元気。
「どうしたの?何かいいことあった?」
君にはわかりっこないから、僕は笑う。
「秘密」
「えっ。な、なに、浮気!?」
「そんな訳ないだろ」
「わかんないじゃん!ねぇなに?バンさんとごはん?」
「違うよ」
的外れすぎてまた笑う。君が隣にいるだけで嬉しい。
「今晩、暇?」
「えーっ、今日は三月とごはん……」
「そうなの?」
落ち込んだりしない。突然のお誘いで君の貴重な時間を独占できるなんて思ってない。わかっていたけれど、僕はさも残念そうな顔をしてみせる。僕の安い芝居を間に受けて、君は途方に暮れている。
「そういうの、もっと早く言ってよ、そしたらちゃんと空けとくのにさぁ」
そうできればいいな。でもそれは難しい。僕だって朝が来て目を開けるまで、その日が来るかどうかはわからない。でもそんなこと必要なければいいのにな。いつだって一等席を予約しておきたい。
「待って待って、今予定見るから。うーん、えーとねぇ、来週の、火曜……駄目だ、金曜の夜……」
「いいよ」
僕の予定なんて確認するまでもない。来週の金曜の夜だなんて、途方もない未来に思える。でもそれはたった864000秒後のことだ。多分、金曜日はその日でないだろう。多忙な僕達のスケジュールといたずらに訪れるその日の最小公倍数を探していた。ひょっとしたらそんな日が訪れるのは僕の寿命よりも先のことかもしれない。仕方のないことだ。でもそれでもいいんだ。
「やっぱり機嫌いいね。なに?教えてよ」
「なんでもないよ」
なんでもないよ。君を大事にしたいって思う日くらい、僕には当たり前で、だからなんでもない日なんだ。
いつの日か年老いて眠るように訪れる80歳も、鉛の弾で撃ち抜かれて緊急搬送される40歳も、辿り着くものは同じだ。40歳のモモが突然撃ち殺されたって、努力もしていない僕は文句も言えない。
それでも僕にとっては、その日は訪れるだけですばらしい一日なんだ。こんな僕でも、誰かを大事にしたいと思える。だから僕は僕のことを少しだけ好きでいられる。その日はそういう、幸せな日だ。


Photo by Antonia Glaskova on Unsplash