真紅の絨毯
「日本アカデミー賞の新人賞!」
「ノミネートされただけだけどね。他の候補の人もすごいし、取れるかわからないよ」
事務所から帰ってきた百を待っていたのはとびきりのビッグニュースだった。日本アカデミー賞といえば、若手俳優の登竜門。アイドル出身の役者がノミネートされただけでも大事である。しかしながら当の本人はパイプ椅子に腰掛けて、実感沸かないんだよね、とぼやきながらコーヒーを啜っている。
「ユキなら絶対取れるよ。あの映画の千、超格好良かったもん!」
「そう?」
長い睫毛を持ち上げて、上目遣いで千は一つ瞬いた。それだけの仕草で続きの言葉をねだられている。百も心得たものだ。
「そうだよ!スクリーンで見るイケメンの迫力……。俺、結局試写会のあと五回も見に行ったんだからね。お芝居も凄かったし。町が燃えちゃうところの後ろ姿がぐっときた!あと最後の方の、犯人捕まえる所のアクションシーン格好良かったよ。筋トレした甲斐あったよね!あっ、着物もめちゃくちゃ似合ってたし。それから、ええと、火消って感じした!」
「火消って感じ、ってなに?」
百を大いに喋らせて満足したのか、千は口の端を引き上げた。
「モモにそうまで言われたら、取れるかもって気がするね」
* * *
「日本アカデミー賞、新人最優秀賞は『火消捕物帖』、ユキさんです!」
前方の円卓に座る千をスポットライトが差す。雪崩のようなフラッシュ。掌が痛くなってきた頃にようやっと拍手は鳴り止み、すぐさま一段高い壇上へ駆け出そうとして百は足を止めた。既に同じ円卓の大物俳優や有名新聞の芸能記者が千を取り囲んでいる。新人俳優としてのユキにとってこの瞬間は、受賞そのものと同じくらい大きなチャンスだ。台無しにするわけにはいかない。今求められているのは、夫婦漫才が売りのアイドルデュオではないのだから。
「おめでとう、ユキさん。これからの活躍も楽しみにしてますよ」
聞こえてくる記者の声。側に行けない代わりに、オレも!と百は心の中で大きく叫んだ。
「音楽の才能だけでなくて、演技の才能もおありになるんですね」
すごいでしょ。でも才能っていうか、頑張ってたんだよ。眠いの我慢して、夜中まで台本読んでたんだから。先だって主演女優賞を受けた彼女の賞賛に応じた千の声は、百の元までは届かなかった。
壇上に立つ千は宝石箱の中にいるようだった。周りに立っているのはこの世界では誰もが知る有名人ばかりで、その全員が千と話す順番を待っている。次々と浴びせかけられる「おめでとうございます」に「ありがとうございます」と微笑んで。できることなら百も今すぐ駆け寄って、飛びついて、祝いの言葉を掛けたい。きっと千は、その割り込みを許してくれる。振り向いて「ありがとう」と、そう返してくれるだろう。他の人に言うのと、同じ声で。
その感情に気が付いた時、体中を冷水が駆け巡るような思いがした。小さく震える手でワイングラスをテーブルに置いて壇上を見上げていると、メモを片手に歩き回っていた記者が百を見つけて話しかけてきた。
「ユキさん、流石ですね」
「うん、すごいよね。俺も嬉しい」
笑顔が可愛いアイドルの顔を咄嗟に取り繕えなかった百を見て、記者はにやりと笑った。
「大変でしょう、ユキさんの方ばっかり有名になっちゃって」
不仲説を裏付けるコメントでも取れれば儲けものだと思っているのだろう。百はゆるゆると首を振る。
「俺も頑張らなくちゃな、って思っただけ」
不満げに離れていった記者はスクープを逃したかもしれなかった。彼の想像する心情の方が、まだ幾分か真っ当だったのだから。
例えば千が不当に虐げられて傷ついていたなら、百は誰よりも言葉を尽くして慰めてやれる自信があった。世界を敵に回しても、自分ただ一人は千の味方だと、幾重にも言葉を重ねて証明してみせる。今までもそうだったし、これからだってきっとそうだ。
けれどもこの状況はどうだろう。果たして百の言葉は必要だろうか。いつでもそこにある百の賞賛の価値は摩耗して、役に立たないものになってはいないだろうか。どんな風に声をかければ、千は感心してくれるだろう。他の人とは違う、気の利いた言葉を。自分はわかっているからと、特別だからと主張するように。
壇と照明を挟んだだけの、ほんの少しの距離にいる千が突然遠い人に思える。どうやらこれは酷く醜い、ただの自己満足のようだった。足元には、誰かが零したクラッカーの欠片が落ちていた。
* * *
千はすっかり退屈していた。繰り返される賛辞も、千の返事も定型句だ。彼らもこのパーティーに出席した義務として千に声を掛けているに過ぎない。そして名誉ある主役に選ばれた千には、それに応じる義務がある。
百さえいれば、こんな時間も楽しめるのに。こういう場を独壇場とする相方は何故かパーティーの最中から姿が見えない。前を歩くマネージャーを見つけて、千は声をかけた。
「おかりん、モモを見なかった?」
おや、と首を傾げて岡崎は答える。
「そう言われて見れば、いませんね。どこか御挨拶にでも行っているんじゃないですか?」
いつものパーティーならそれも頷けた。このような会場では百は一切千を顧みてくれない。その会の主役に目をつけたら一目散に千を引きずっていって、引き渡したらそれで終いだ。魚のようにすいすいと会場を行く百と、もう一度合流するのは至難の技である。
しかし今日は話が違う。他でもない主役はここにいるのだ。どこへ挨拶に出るにせよ、百が一言の祝いの言葉も述べずによそへ行ってしまうなど、許されることだろうか。そもそも本来ならば、百は受賞の瞬間に千の隣りにいて、一番に祝いの言葉を述べるべきなのに。深紅のビロードがひかれた関係者席には、候補者の他は座らせてもらえなかったのだった。
大勢の関係者が千を取り巻いて一挙一動を見守る中、いつまでも会場を見回す千に痺れを切らしたのか、隣りにいた髭の中年男性が声をかけてくる。映画評論家だと言っていただろうか。
「モモさんも演劇のこと、詳しいんですか?」
「さぁ。普通だと思うけど」
「じゃ、大したこと言えないでしょう。別に今じゃなくても」
芝居に対する知識以前に、百は千の批評家に向いていない。千が何をしようが、基本姿勢は大絶賛なのだから。千も百に批評や助言を求めているわけではない。それでも百の言葉には、千の中で特別な役割があるのだ。
音楽家として、あるいは駆け出しの俳優として、自己顕示欲と呼ばれるものがないとは言えない。音楽も演技も、認められれば嬉しいし、できることなら多くの人に届けばいいと思う。けれどもそういった渇望が時として創作活動の邪魔になることも、千は昔からよく知っていた。例えば急激に多くの人の目に晒されて、雑音の音量が一気に増す時。つまり今だ。誰の声も聞きたくないのに、誰かに届かなければ先に進めない。だからそんな時に、千は百の声だけに耳を傾けることにしている。百が千の作品を全て受け入れるのと同じ様に、千も百がくれる言葉を無条件に信じている。百がただ一言「いいね」と言った瞬間に覚える感情は、高揚よりも安堵に近い。手紙を受け取ったあの時からずっと、千が欲しがっていた承認は多分、百の形をしていた。
百本人にさえ伝えかねるそんな想いを見ず知らずの評論家に説明することは難しすぎたので、千は端的に言う。
「百はいつも、褒めてくれるから」
評論家は鼻で笑った。
「全部褒めてくれるって言うならね、それは何も言っていないのと同じことなんですよ」
全然違う、とすぐさま思った。けれども千はふと、百から与えられる惜しみない賞賛を当然のものとして享受している自分に気がつく。それこそ、百が何も言っていないのと同じように。
たった一つの取り零しもなく、千の作る全てに頷いてくれる百に心から感謝している。けれどもそれを伝えようとすれば、上手くやるための言葉は千の中に何もないのだった。千が伝えれば百は張り切って、原稿でも用意する勢いで千を褒め讃えてくれるのだろう。けれどもそうなってしまったら今度は、千が百の言葉を信じられなくなってしまう。無闇に褒めて欲しいわけではないのだと言うために、千はまた慣れない言葉を繰る羽目になる。言葉はいつでも千を裏切る。
「つまり俺が言いたいのはですね、今のアイドル俳優に必要なのは、イエスマンじゃなくて正しい批判をしてくれる人間だってことなんですよ。例えば……」
百を悪く言う人間の話はまともに聞かないことにしている。壇上からもう一度見回しても会場は広大で、あの人目につくツートーンカラーを見つけることはできなかった。ライブハウスではあの黒髪を、いつだって真っ先に見つけられたのに。
* * *
帰り際になって岡崎が電話を掛けると、百はようやくタクシーの待合所に現れた。
「どこ行ってたの」
不機嫌を隠さない声で千は問う。置いてけぼりを食らった子供の態度そのものだった。
「ごめんね、ちょっとお腹痛くて」
「え、そうなの?大丈夫?」
言われてみると、百は少し顔色が悪いように思えた。具合を悪くした可能性など考えもせずに拗ねていただけの自分が少し恥ずかしくなる。
「うん。もう平気。それよりユキ、受賞おめでとう!」
千は何も言わずに続きを待った。流石はダーリンだとか宇宙一イケメンだとか、百以外の人間が口にするのを見たら鼻白んでしまうような、そういうフレーズを。百も何か言葉を継ごうとして口を開く。けれどもそれは形をなさずに萎んでしまい、不自然な沈黙だけが場を満たした。「それだけ?」思わず口に出そうになった催促を飲み込む。不足だと、不満だと感じているわけではない。けれども今日は、その声をもう少し聞いていたかった。ずっとここにあると示して欲しかった。
「ありがとう」
そう言う他の選択肢を、あいにく千は知らなかった。知らない言語で何かを尋ねられたかのように、百が目尻を下げて笑い、困ったように小首をかしげた。タクシーのヘッドライトが作る長い影が足早に二人を追い越していく。需要と供給が釣り合った完璧な世界は、このように歪んでいくのかもしれなかった。
Photo by Eneko Uruñuela on Unsplash