3年目のメタフィクション
俺の憧れには経済的価値がある。
世の中にはそういう種類の需要があると知ったのは、姉ちゃんがこっそり運営していたバンさんとユキさんのファンサイトからだった。俺と姉ちゃんは一緒にRe:valeのライブにも行く仲だったけど、賢い弟であった俺はそれを覗き見してしまったことを黙っていた。さすがは俺の姉と言うべきか、怒った姉ちゃんは手当たり次第に物を投げてくる。割りと正確に狙いを定めて。でも別に隠さなくたってよかったのに。俺にもそういう気持ちわかるよ。好きなアイドルグループのメンバーが仲良くしていて喜ばないファンなんていない。ましてやデュオなんだから。仲睦まじいイケメン、目の保養だよね。
自分自身にそういうニーズがあると気がついたのも、ネットの掲示板を眺めていた時だった。その頃の俺達は、ようやっと社会人として人並みの給料を貰い始めて、少しずつテレビへの露出も増えてきた。けれども当時の俺は、自分の歌にも踊りにも全然納得できなかった。他のアイドルとの仕事も増えてきて、歌のことも少しはわかるようになって、ユキの才能をようやっと理解したから尚更、自分の劣ったところが目についた。人の視線も気になって、ファンからどう見られているか知ることが上手くなる秘訣かも、なんて言い訳しながら「Re:valeを語るスレ」の文字をクリックした記憶がある。
Re:valeのスレッドはまだアンチが出るほど大きなコミュニティではなくて、ちょっとコアなファンがユキの歌はこれから絶対認められるって表現を変えては何度も頷きあっていた。俺の話は全然出てこないけれど嬉しくなってそのままスクロールを続けてしまう。完全にファン側の立場に入っていた俺の目の前に、いきなりその書き込みは現れた。
「りばれはライブとかのお互いしか見えてないって感じが超萌える!二人だけの世界やばいでしょ……」
その書き込みからスレッドは大盛り上がり。怒涛の共感の声とRe:valeは歌が良いのであってそういうのはちょっとっていう音楽通のお兄さん達の苦情。でも結局モモがいるからユキだって落ち着いて曲を作れているわけで、って女の子達に丸め込まれていた。旧き良きインターネット。
二人だけの世界、か。なんか気恥ずかしいな。グレープフルーツの話してるアーティストとミュージシャンみたいだ。発言主の名無しさんによると、モモちゃんは構って欲しくてしょうがない小さなワンコ、ユキ様はイケメンな飼い主さんなんだそうだ。驚いたけれど、こういう需要の存在は知っていたから、成程俺も立派になったなと思う。
飼い主をトップブリーダーに押し上げたいと思ったら、出来損ないの小型犬には何ができるんだろう。
それを理解した俺は覚悟を決めた。イメージはアイドルの大事な戦略だ。勝手に決める訳にはいかないので、事務所での打ち合わせで何気なく切り出した。掲示板で読んだというのもあんまりなので、そうえいばこの前現場でディレクターから聞いたんだけど、なんて言って。そもそも夫婦漫才って言い始めたのは社長なので、おかりんと社長はノリノリだった。出方がわからないのは相手方だ。
「仲良しネタって、例えばどういうことがしたいの」
気怠げに背凭れに寄りかかって、ユキは尋ねた。
「ほら、前呼ばれた番組でやったみたいな。俺がよくユキの家行っているとか、ごはん作ってもらってるとか、そういうの」
「嫌だ」
姿勢はそのまま、それでもきっぱりとそう言った。
「……ごめん」
喜ばれるのではないかと思っていた。ひどい思い上がりだ。夫婦漫才とか言われて、調子乗ってた。気持ち悪いよな、こんなの。そもそもユキさんは歌を続けたいだけで、アイドルとしての戦略なんか興味はないんだし。俺が足を引っ張っているから中々上手くいかないだけで、ユキさんの歌がちゃんと届けば、皆わかってくれるはずなんだ、本当は。こんなことしなくたって、俺がもっとちゃんとできていたら。
「ネタにするだけなの。ファンに嘘をつくってこと?」
俯く俺にユキが畳み掛ける。
「嘘って言うか、そういうつもりじゃなくて。その、でも、俺達、実際仲良くは、ない?」
なんでこんな小学生みたいなこと言ってるんだろ。恥ずかしい。おかりんと社長が固唾を飲んで話の行き先を見守っている。
「モモがそう思ってるなら、そういうことにしてもいいよ」
あ、これは仕返しだ。その時ようやっと気がついた。この人、たまにそういう子供っぽいことをする。社長が夫婦漫才でいこうって言い出した時ユキに全権移譲したの、根に持ってるんでしょ。
「ちゃんと仲良くしてよ、そうじゃないなら僕は嫌だ」
顔を上げたら、ユキは悪戯っ子みたいに笑った。
アイドルにとって、ライブ中の間奏は息継ぎの時間じゃない。
アップテンポな恋愛ソング。これまでのRe:valeの曲とは一味違うけど、ライブでは盛り上がるのでセットリスト入りは必須の一曲だ。途中で入る長めの間奏はファンの中でも知られるサービスタイム。アリーナを見渡すと「モモ、投げチューして」のうちわが目に入った。こういう色っぽいのはユキの担当なんだけど、最近は俺宛にも増えているので練習している。ちなみに俺のファンサで一番受けがいいのは曲が終わった後のバク転だけど、流石に毎回はできないので応じた日にはネット上が盛り上がる。でも、もっと盛り上がるサービスが何かってことも知っている。
うちわの子へ軽快に投げキッスを送った後、指を唇に当てたまま少し溜め。観客の視線と大型スクリーンへ映すカメラが俺に集まるのを確認してから、ウィンクを一つ。ユキの名前を呼ぶ。振り返ったユキに大袈裟な身振りでキスを投げる。歓声の中、ユキがふっと不敵に笑って、それからこっちに歩いてきた。
「投げて寄越すなんて、つれないじゃない?」
肩を掴まれてしっかり唇にキスされた。これまたスクリーンにアップで抜かれて、俺の視界からも他人事みたいによく見える。怒声なのか悲鳴なのかよくわからない爆音がスタンド席から降りてくる。そこで俺はようやく無作法だと気がついて、慌てて目を閉じた。俺が振ったネタだったのに、不意打ちだ。やられたな。
ラジオの収録が終わって、事務所で時間調整中。携帯が電池切れで暇を持て余した俺は、部屋の隅のパソコンを立ち上げた。慣れたタッチで俺とユキの誕生日を足して二で割ったパスワードを入力して、会員制掲示板にログインする。やはり昨日のライブの話題でスレッドの流れは早かった。ユキ様マジでイケメンパーフェクトダーリン。絶対付き合ってる。モモちゃん照れてて可愛かった。イラストもたくさんアップされているけれど、俺の目ってこんなに大きいかな。チケット取れなかった最悪もう死にたい、と大袈裟なこと言っている子もちらほらと見られる。最近ユキは俺より余程ノリがいいから、多分また見れると思うよ、と心の中で呟く。
これまでのファンにも随分増えた新規参入のファンにも、俺達のパフォーマンスの受けは悪くないように思える。Re:valeは決してこんなことだけを売りにしているわけじゃない。一度歌を聞いてもらえれば、きちんとRe:valeの、ユキさんのよさは評価される。だからこの戦略は今のところ概ね成功と言っていいと思う。でも心配事もないではない。この手の宣伝は、幻想を壊されるのを酷く嫌う。つまり、バンさんが戻ってきた時にどうしたらいいんだろうってこと。
俺の正体がユキさんとバンさんのRe:valeのただのファンだったことは、ネット上では都市伝説みたいな扱いを受けている。勿論、姉ちゃんの友人や当時知り合った人達には知れたことだけれど、ファンの数そのものが増えた今は真実と捉えられていない。俺がユキと組んで活動し始めた当初は、当時を知るファンから脅迫状めいた手紙もしょっちゅう届いたけれど、姉ちゃんから受けた人格否定と暴力に比べたら大したことはなかったので俺はそこまで落ち込まなかった。ユキさんとバンさんのRe:valeを返してとか、お前なんかじゃ相応しくないとかなんとか。じゃあアンタがなんとかしてよ。アンタが30日間ユキのところに通って、セックスでもなんでもしてあげればよかったじゃんか。俺は男だから、自分のちっぽけな人生くらいしか差し出せるものなんてなかったんだよ。
ともあれ、百度参りの末にただのファンだった百はユキに選ばれてRe:valeのモモになった。ありきたりな表現だけれど、夢みたいなお話だ。ファンたるもの、そういう夢を見たことの一度や二度はあるでしょう。でもそれは夢というより妄想で、叶う確率はプロサッカー選手になるよりも、宝くじに当たるよりもずっと低い、というかゼロだ。俺という例外があるだけで。叶うか叶わないかの絶妙な夢だからこそお金を払って人々はそれを見たいと望むわけであって、他人のシンデレラストーリーなんて求められてない。俺とユキは運命の赤い糸で結ばれてなきゃいけないし、それが解けることなんてあっちゃいけない。でもバンさんが帰ってきたら、俺がファンと一緒に見ているこの集団幻覚を、どうやって覚ませばいいんだろう。
それに対する答えは今のところ見つかっていない。多分、こんなことで悩む意味なんかないんだ。あの二人はこんな陳腐なやり方で上にあがらなくたっていい。あがりきれない所まで俺がもっていく。そういう風に、俺がするんだ。
「何見てるの」
事務所の扉を開けて、着替えを終えたユキが入ってきた。
「あ、いやなんでもない」
ノートパソコンを閉じる。隠すわけではないけれど、ユキは多分こういう外からの評判には興味がないだろうから。あと、男二人がまぐわっているイラストを見られるのは流石に気まずい。
「今日打ち合わせ終わったら、ご飯食べにおいでよ。なんでも作ってあげる」
俺は条件反射的に頭の中で計算する。前に遊びに行ったのはちょうど二週間前で大分期間が空いている。
「お酒も飲んでいい?」
「いいよ。この前ディレクターさんにもらったワインがある。何食べたい?」
「たまには魚料理とか」
「あぁ、いいかも。白身魚に合いそうだね」
いつもの事だけれど、ユキは肉も魚も食べない癖にそんなことを言ってくれる。もう二人で暮らしているわけでもないのに、どうしてそこまでしてくれるのか不思議に思うくらいだ。俺はほとんど自炊をしないので、一人暮らしを始めて以来、食事は外食か、そうでなければコンビニ飯だ。多分ユキは、俺がまともな食事をしているかどうか気にしているんだろう。ユキは今でも勝手に俺の腹筋やら腕の肉やら触っては「太ってるね」と嬉しそうに確認する。もう少し言い方ってものがあるでしょう。
「優しいね、ダーリン」
「え?」
しまった、ついさっきの掲示板のノリで。慌てて取り繕おうとする俺に、ユキはふっと目尻を下げた。
「久々の食事なんだし、これくらいして当然だろ。母さん」
「そこはハニーじゃないの?」
いつの間に子供ができたんだ。流石にハニーは恥ずかしいと、ユキも笑っている。
「明日は朝から収録だし、そのまま泊まっていきなよ」
そこまで甘えてもいいのかな。でも仲良しトークするにも元ネタは必要だし、などという言い訳はすぐさま浮かんだ。
「あとモモ、今日は家にいる時、携帯いじるの禁止ね」
「えぇ……さっき充電切れたからメール溜まってるんだけど……」
「ちゃんと仲良くしてくれないなら嫌だって僕言ったよね。ネタにするならプライベートでも僕に構ってくれないと駄目」
ユキは酷い寂しがりやだけれど、友人がいない。これは少ないという意味ではなくて、全くいないという意味。実はデビューした時に、広い芸能界ならユキと気が合う人間もいるのではないかと期待したけれど、そもそも初対面の人と話すのが嫌いらしい。知らない人ばかりの立食パーティーでは、ずっと俺の後ろについてくる。
「ファンの頭の中の僕達の方が仲がいいみたいで、ちょっと面白くないじゃない」
「そういうもんじゃないの?ネタなんだし、ちょっと話盛るくらいにさ」
ユキは不満げに眉をひそめた。
「少し隠すくらいがちょうどいいよ。モモはすぐ全部喋っちゃうから」
余裕を持って小出しにするのが本物っぽく見せるコツってことだろうか。さすがにお芝居やっている人は言うことが違うな。
翌朝、午前から仕事が入っているユキをなんとか叩き起こして送り出し、その足で向かった訪れた馴染みの喫茶店は相変わらず空いていた。ラックから雑誌を二冊抜き取って、奥の席に陣取る。仕事を受けた雑誌は全て事務所に届いているけれど、中身のチェックはここで行うのが昔からの習慣だった。一冊目はアイドルを特集する雑誌の中ではかなり大手で、デビュー二周年記念ということで巻頭インタビューと表紙をもらった。俺達のことを知らない人も読むのだから悪印象をもたれてはいけない、なんて日和っていたらトップはとれない。前々からの打ち合わせ通りに、ラブラブ度三割増しでトークしておいた。ラブラブって単語何回使うのって、ユキは変なツボに入ったらしくずっとお腹を抱えていた。できればこういう仕事ではダーリンらしく格好良くいて欲しいんだけど。俺だってこれでも可愛い奥さんらしく見えるように振る舞っているわけだから。でもこの表紙はとてもそれらしく撮れている。目も大きく見える。矯めつ眇めつ眺めた上で、俺は一人頷いた。よく見ると特集が始まるページの耳が折れている。こうやって全く知らない人の手でページに線がひかれていたりコーヒーの染みが付いていたりするのを眺めていると、俺達のやっていることが誰かに届いているんだって、ようやっと実感する。それがわざわざここに来て雑誌を確認する理由の一つだ。もう一つは、事務所の検閲を掻い潜って届くのはあくまで俺達の味方の記事だけだからだ。
特集を読み終えた雑誌を脇にのけて冷めたカフェオレを口に含んでから、キープしていたもう一冊を開く。こちらは俺達がインタビューを受けたわけではなく、ただのよくある週刊誌だ。見出しは「あの人気デュオの真相に迫る!不仲で解散寸前!?」とある。記事をざっと流し読みする。二周年を迎えたRe:valeだが実はユキとモモの仲は最悪。現場では頻繁に怒鳴り合い、一言も口を利かずに共演者に気を揉ませることも多々。しかし仕事中は近年の流行にのったホモ営業。若い女性に大人気。くぐもった唸り声が耳で反響して、それに驚いて慌てて口を開け息を吸い込んだ。狂った犬はしまっておかないと。
仲良くしていれば同性愛者呼ばわり、それらしく振る舞ってみたら今度は不仲説。もう俺にどうしろっていうんだ。でもこういう反発は予想できた。芸能界ではよくあることだ。斜に構えた現代は、甘い設定を素直に受け取れないようになっている。純真な子は陰ではビッチで、明るい子は陰では傲慢。本当はこうなんでしょうって、裏を探りたくてしょうがない。パッケージ化したのはそっちの癖に、あまりに綺麗に包まれすぎると耐えられなくなってしまう。それだけ俺達が上手く売り出せているってことだろうけれど。
後悔なんかしていない。だってファンに望まれている。俺はその期待に応えなくてはならない。そうすることがユキのためになる。本当は二人だけの世界なんて、もうどこにもなかった。俺達の距離はあの六畳一間で暮らしていたときよりもずっと遠くなった。そもそもあの家だって、俺が騙すみたいに引っ越した。ユキはたまにあの頃を懐かしむ。俺はしない。あの頃より今の方がずっと上にいる。ユキの役に立っている。
本当の所、どうなんだろう。俺のユキへの気持ちはなんなんだろう。憧れ?尊敬?それともファンの皆が言うみたいに、俺はユキに恋してんの?ユキが、それからユキさんの歌が大好きで、もう一度聞きたくて、もっと皆に聞いてもらいたくて、それだけで、シンプルだったはずなのに。そのためだけに人生全部を賭けたはずなのに、何が正しいのかよくわからなくなる。ページを引きちぎって、丸めて潰すと、安い紙で作られた週刊誌は簡単に圧縮された。一度割ってから接着剤で殻をくっつけた卵みたいだ。しまったな、衝動的にやってしまったけれど後で買って返さないといけない。
なんだかしばらく意識が霞んでいて、気が付くと時計の短針は右半分に突入していた。慌ててマスターに雑誌を破ってしまったお詫びだけ先にして、タクシーを拾ってテレビ収録の現場に向かう。楽屋では既にユキが待っていた。
「どうしたの、モモ。顔色悪いんじゃない」
車に酔ったか知らないけれど、実際酷く気分が悪かった。頭も回らなくて、パイプ椅子に腰掛けるとその勢いで思ったことがそのまま口から滑り出てしまう。
「ねぇ、ユキにとって俺って何?」
友人でもない。恋人でもない。ましてや夫婦なんかじゃないでしょ。名前をつけてよ、俺達の関係に。
「パートナーだろ。どうしたの、急に」
本当に顔色悪いよって言いながら、ユキが俺の頬に指先を寄せた。とても冷たい。仕事上のパートナーにこんなことするの?バンさんにも?しないよな。バンさんはユキの友達だもん。
「今はカメラ回ってないから、ファンサしなくたっていいんだよ」
俺の身体は酷く熱い。恋慕うユキさんに触れられてどきどきしている女の子みたいだな、と思うと笑える。
「モモ!」
高熱を出すと本当に視界が歪むんだな。パイプ椅子が床に激突する音が、ドラマのワンシーンみたいに控室に響いた。