Egoistic romanticist

1回目。
「もう生きていたくない」
薄暗い一人暮らし用の小さなアパートの一室。カーペットの上に座り込んで、ユキさんはそう言った。ひいたカーテンの隙間から昼下がりの明かりが一条。床の上にはハサミに包丁、ドライバーからコルク抜きまでもが、荘厳な輝きを放って彼を取り囲んでいた。この家の中にある人を傷つけられるあらゆる刃物が、白い首を抉るのを今か今かと待ち望んでいる。
その時俺は、生まれて初めて人の死というものを目の当たりにした。小学校で飼っていたメダカが死んだ。中学校でほとんど会話をしたこともなく寝たきりだった母方の祖父が死んだ。高校の地元の駅で殺傷事件が起きた。そんな記憶はただの文字で、本当の人間の死からずっと遠くにあった。初めて見た人の死はあまりにも美しかった。その前で俺はあまりにも無力だった。
藁にも神にも縋る思いで、俺は天を仰いだ。神様、小さい頃から物をなくしたって一度も見つけてなんてくれやしなかった神様。奪っていくばっかりだった神様。一生のお願いです。この人は、この人だけは連れて行かないで。
仕方がないなぁと天井の遥か上から声がした。その子はまだ早すぎるから、お前に呪いをかけてあげよう。呪い?そうだよ、でもその人間には隠し通さなきゃいけないよ。おとぎ話でも、そういうものでしょう。
そうして俺は花畑に踏み込んでいく貧しい農民のように、その絵画のような情景に無遠慮に踏み込んで、そっとユキさんの肩に手を置いた。
「ユキさん、よく聞いて。それから俺の言葉を繰り返してください」
彼は俯いたまま、その言葉になんの反応も示さなかった。
「ユキさんは、自分を殺したりなんかしちゃ駄目だ」
その言葉は彼に届かなかったように思えた。けれどもたっぷり時間をかけて、その言葉を含んだ空気は彼に重くのしかかり、薄い唇が震えた。
「僕はまだ、僕を殺したりしたら駄目だ」
彼の腕に、冷たい金属の手枷を押し付ける。最初に右。最後に左。日常とはかけ離れた金属音が響く。細い腕にその大仰な輪は随分過剰な装飾だった。ユキさんは抵抗一つしない。落胆している刃物達を片付け始める。手枷をつけても、すぐ側にある自分の手首でも切られたらそれまでだ。
神様。俺は空に旅立とうとするこの人を小さな部屋に閉じ込めました。家族でも友人でもなんでもない赤の他人の俺が、この人の生を左右する権利なんてない。それでも生きていて欲しいだなんて、我儘だってわかっています。

103回目。
「無理だ、もう歌えないよ。だってここにはバンがいない」
中々起きてこないユキの様子を見に行くと、毛布に包まったまま部屋の隅で泣いていた。部屋と言っても、ここはあのアパートの一室ではない。おんぼろで、クーラーもなく、窓から見える景色もよくない。それでも夢みたいな六畳一間。ユキと俺との二人暮らし。
頭の中でカレンダーを捲って考えてみると、前回は隣町の工事現場のバイト前に慌ててかけたわけだから、つまり火曜日。今回は随分保ったなと思う。一緒に暮らし始めてすぐの頃は一日三回かけても間に合わなかったのだから。
「でもユキ、最近は曲も作り始めてたでしょ」
「もう無理だ」
「この前の曲、俺すごく好きだったよ」
「無理だ」
俺がいても?なんて大それた台詞を飲み込む。どうせ飾り気のない俺の言葉なんて届かないのだから、言うだけ無駄だ。時計を見ると、今日の出勤時間までは大分余裕がある。これなら大丈夫そうだ。
「ユキ、俺の目を見て、よく聞いて。それから繰り返して」
突然毛布を引き剥がされて、肩に手をおかれたユキは不審そうにこちらを見上げる。構うことない。
「ユキは歌わなきゃ。Re:valeを続けなきゃ。そうしないとバンさんも見つけられないよ」
彼の青い瞳が一瞬、毒々しいマゼンタを映す気がする。多分それは錯覚だ。でもその錯覚に俺は酔っている。
「僕は歌わないと。Re:valeを続けないと。そうしないとバンも見つけられない」
神様。俺はこの人の考えを捻じ曲げて無理に歌わせようとしています。ただのファンが、まだ貴方の歌を聞きたいから歌い続けてくださいだなんて、横暴すぎる我儘だってわかっています。

627回目。
「皆、ありがとう!Re:valeでした!」
俺の挨拶を皮切りに、ドームをつんざくような歓声がステージを満たす。振られる蛍光色の軌跡が、瞬きの間も目の裏に焼き付いて離れない。
「モモ!」
呼ばれて振り向くと、ユキに腰を抱き寄せられた。歓声が色を帯びてまた音量を上げる。サッカーをやっていた頃から慣れ親しんだ汗の匂いが立ち上る。こういう時に、この人も男で生き物なんだなと思う。
そっと足元を伺うと、いつも通り白い細身のパンツには似合わない無骨な金属の枷が嵌っていた。そこから伸びた鎖は、ステージのマイクにしっかり結び付けられている。
もう一度ユキの顔を見上げる。視線があって、目尻にキスされた。また上がる悲鳴のような歓声。
神様。俺は結局この人を縛り付けて、時間と数字に囚われたこの世界から離してあげられません。この人自身も喜んでくれているだなんて、言い訳がましい我儘だってわかっています。

1100回目。
「今日、これだけのお客さんの前で歌えなかったら、俺、もう終わりだよね」
こけら落としのコンサートまであと三時間。二人きりの廊下で静かにそう言った。
歌うための声が出ない。ユキには何も言っていないけれど、多分これは罰なんだと思う。自分の我儘でこの人を振り回した罰。
人魚姫になりたかった。でも俺は多分、魔法が解けたシンデレラだった。刻限が過ぎて魔法が解ければ、本当は何の取り柄もないただの凡庸な女の子だ。顔は多少よかったかもしれないけれど。
「そしたら、新しい相方探していいからね?」
「馬鹿なこと言うな」
優しい彼が、こんな提案に頷く訳がないとわかっていた。それでもその即答が、俺には酷く嬉しかった。けれどももう、決めている。ガラスの靴は置いていかないし、王子様は迎えに来なくていい。ユキの肩に手を掛けて、目を覗き込む。
「ユキ、復誦して」
「え?」
「俺が歌えなくなっても、次の相方を探して、ユキはずっと歌い続けてね」
泥々と濁る目。こちらの呪いはまだ解けていなくてよかった。けれどもこれが、きっと最後だ。
「モモが歌えなくなっても、次の相方を探して、僕は、ずっと、歌い続ける……?」
「うん」
神様。俺はこの人が歌い続けてくれるなら、声だって顔だって惜しくない。勝手にこんな世界に引っ張り上げて、最後に自分だけ舞踏会を降りるだなんて、無様で、無責任で、心の底から我儘だってわかっています。だけど最後にこれだけ。本当にこれだけ。お願いします、神様。

1101回目。
「引っ越したいな」
何の前触れもなくユキがそう言った。
波乱万丈のこけら落としも何とか成功に終わり、仕事のリズムもようやっと落ち着きを取り戻したある日のことだった。仕事帰りに、久々に飲んでいかないかと誘われて、高層マンション最上階のユキの家に上がる。チリワインのライトボディ。おつまみは珍しくストックがなかったので、ちぐはぐだけれど下のコンビニのチーかま。つまり全く重大な話をする空気なんかじゃない。
「作曲活動に集中したいんだよね」
「どうしたの急に。別に引っ越さなくてもいいじゃない」
貧乏暮らしをしていたあの頃の家を引き払って以来、ユキはもう四年程ここに住み続けていた。
「そうなんだけど、この部屋、隣が空きじゃなくなっちゃったから」
作曲活動をするのに隣人に気を使う、ということだろうか。
「ここの防音対策、結構しっかりしてなかったっけ。それで選んだんじゃなかった?」
「モモはよく引っ越すよね」
ちょっと困ったように笑ってユキはそう言った。俺は特に何の理由があるわけでもないけれど、一年に一回程度の頻度で引っ越しを繰り返している。新しい街に住むのは楽しい。一年も住むとその街に飽きるとも言う。
「僕、ずっと待ってるんだよ」
ユキが小さく呟いたけれど、ゆっくりアルコールが回り始めた俺は、発言の意図がわからずに聞き流してしまった。
「できれば芸能活動も、しばらく縮小できないかな」
弛緩していた心臓が、きゅっと止まるかと思った。
Re:valeの作詞作曲はユキの担当で、俺には正直才能がない。それでもユキは必ず作詞作曲のクレジットをRe:valeの名義にする。ユキの名前にすればいいと何度も主張しているけれど、これに関してユキは絶対に譲らないと宣言している。しかしながら実際の所、作詞作曲に集中するのはユキ一人で十分であり、俺は活動を続けるべきなんだろう。
元々俺達は別々の仕事が多くて、最近では俺がバラエティ。ユキは俳優業。ミュージシャンとしての活動を知らない人には、そもそもどうして組んでいるのだとよく聞かれる。事情を知らない人間に何を言われても構わないとユキは言うけれど、こんな状況で片方が活動を縮小なんてしたらどうなるだろう。解散の二文字が頭の中でゆっくり点灯する。そんなまさか。考えすぎだ。早急すぎだ。わかっている。酔っているんだ。
ワイングラスの首をつまんだユキの右腕をそろそろとさする。何?と聞かれるけれど、構わずそのまま、白い腕に手枷を嵌め込んでみる。鎖を伸ばして、もう片方は俺の左腕に。この手錠も五年で随分ぼろぼろになった。表面に錆が浮いていて、見えていないにしても、こんなものを着けさせるのも申し訳なくなってしまう。
神様。歌い続けてくれるならなんだってするって言ったのに、それ以上を望んでしまってごめんなさい。俺じゃこの人の隣にいるのに十分じゃない。我儘だってわかっています。
神様。この我儘はきっと聞いてもらえない。俺はもういいんです。

*    *    *

「モモ、寝ちゃったの?」
机に突っ伏したままの相方の髪をそっと掻き回す。白と黒の境界をみつけて、丁寧になぞってみても起きる気配はない。先細右腕に嵌められた手錠が静かに関節までずれ落ちて、橙の鉄粉が少しテーブルに降り落ちる。
「見えていないと思ってた?」
この鎖が死の淵に立っていた自分を引っ張り上げてくれたこと。歌にもう一度命を吹き込んでくれたこと。正直柄じゃない、アイドルなんて職業を一緒に続けてくれたこと。それからずっと隣にいてくれたこと。
「監禁して洗脳して、言うこと聞かせたいんだっけ」
蹲る後頭部にそっと頬をすり寄せた。
「ねぇ、いじらしいじゃないか」


Photo by Danny Howe on Unsplash

Published On: 2016年10月25日